ニューロサイコアナリシスへの招待 (岸本 寛史 編著 誠信書房、2015年)は野心的な著書である。同著は編者岸本氏のリーダーシップのもと、平尾和之、久保田泰考、成田慶一、秋本倫子諸氏(敬称略)が執筆に携わっている。
そもそもニューロサイコアナリシスという分野は、まだ新しく、ニューロサイエンス(神経科学)とサイコアナリシス(精神分析)という異分野に橋を架けようとする野心的な試みであるが、その全貌をわかりやすく日本に紹介するというのが本書の出版の意図であろう。
そもそもニューロサイコアナリシスという分野は、まだ新しく、ニューロサイエンス(神経科学)とサイコアナリシス(精神分析)という異分野に橋を架けようとする野心的な試みであるが、その全貌をわかりやすく日本に紹介するというのが本書の出版の意図であろう。
そもそもニューロサイコアナリシス(神経精神分析)という名前になじみのない方も、我が国に多いであろう。この分野を一種の脳科学と考える向きもあるかもしれないが、編者が「はじめに」で断っているとおり、ニューロサイコアナリシスは、脳科学と精神分析の両者を、「まったく同等の重みを持って、『心そのもの』を複眼視しようとしている」(編者)のである。もちろんそれは多くの課題を伴ったテーマであるが、本書の編者岸本は、仲間とともにそれに果敢に取り組んでいる。
第1章 「ニューロサイコアナリシスの源流」では、その立役者マーク・ソームズが、この分野を開拓した歴史がつづられる。その頃フロイトの夢理論に対して、脳科学的な見地から真っ向から反対していたアラン・ホブソンの理論に対して、同じ脳科学的な研究からフロイトの理論の復権を試みたソームズは、のちにノーベル賞受賞者となるマーク・カンデルの後ろ盾を得て、1999年にニューロサイコアナリシスの国際雑誌を発刊するまでにこぎつけたのである。
第2章 「ニューロサイコアナリシスのはじまりと展開」は平尾和之氏による概説である。平尾氏は2006年のロサンゼルス大会を期に、京都の研究グループに参加し始めた経緯について述べている。氏はニューロサイコアナリシスの主要な著書である「脳と心的世界―主観的経験のニューロサイエンスへの招待」(マーク・ソームズ, オリヴァー・ターンブル著、星和書店、2007年)の翻訳者でもあり、岸本医師と共に日本におけるニューロサイコアナリシスの動きを牽引している。(ちなみに本書の著者諸氏は秋元氏をのぞいて京都大学医学部の出身ないしは所属であり、京都という地の持つ学際性を表しているという印象を持つ。)
同じく平尾氏による第3章 「夢のニューロサイコアナリシス」は、本学会の初期の呼び物でもあったホブソンとソームズの夢をめぐる議論にページが割かれ、その内容も非常に興味深い。
第4章「ニューロサイコアナリシスの基盤」および第5章「ニューロサイコアナリシスから見たフロイト理論」は再び岸本氏による執筆であり、フロイト理論と脳科学との接点に関する極めて濃厚な論考が展開される。特に第5章で扱われているのは、欲動の問題である。フロイトの欲動論は、現在の精神分析理論では十分な関心を集めているとは言えないが、脳科学の分野ではヤーク・パンクセップの情動脳科学、とくに「SEEKINGシステム」が重要な意味を持つ。このことは評者にとって極めて大きな示唆を与えてくれた。そしてこの情動脳科学でとらえたこころはまさに身体性を伴ったものであり、かつてフロイトがリビドー論で解き明かそうとしていた試みを現代風に引き継ぐ形をとっているのである。
第4章「ニューロサイコアナリシスの基盤」および第5章「ニューロサイコアナリシスから見たフロイト理論」は再び岸本氏による執筆であり、フロイト理論と脳科学との接点に関する極めて濃厚な論考が展開される。特に第5章で扱われているのは、欲動の問題である。フロイトの欲動論は、現在の精神分析理論では十分な関心を集めているとは言えないが、脳科学の分野ではヤーク・パンクセップの情動脳科学、とくに「SEEKINGシステム」が重要な意味を持つ。このことは評者にとって極めて大きな示唆を与えてくれた。そしてこの情動脳科学でとらえたこころはまさに身体性を伴ったものであり、かつてフロイトがリビドー論で解き明かそうとしていた試みを現代風に引き継ぐ形をとっているのである。
第6章、第7章は「ヒステリーからの問い」及び「トラウマとその帰結」という久保田泰考氏の手による論考であるが、評者は大いに刺激を受けた。これらのテーマは直接ニューロサイコアナリスで話題になっているというわけではないようであるが、精神科医としてのきわめて豊富な知識を背景に、ヒステリーやトラウマという精神分析では古典的なテーマについて、現代の脳科学的な視点から縦横無尽に論じているという印象がある。氏の様な書き手がわが国のニューロサイコアナリシスを支えていくのであろうと感心した。
第8章「感情神経科学との接合によって開かれる世界」(成田慶一氏)は、先述のパンクセップの情動脳科学について、よりいっそう詳細な紹介が行われている。
So called SP (26)
The rationale for handling SPs that
meet these conditions is as follows. If a SP has some communications with the
therapist, the nature of the SP can be gradually modified and detoxified, probably
in a similar way that any traumatic memories are ab-reacted and become less salient in exposure therapy or EMDR (Eye Movement Desensitization and
Reprocessing). Although there are many ways to neurologically explain
how exposure technique would work (KM Myers and M Davis Mechanisms of fear
extinction Molecular Psychiatry (2007) 12, 120–150, 2007) I would like to
consider the way handling dissociative cases therapeutically from a standpoint
of memory reconsolidation (Okano, 2015). SPs are parts of the patient which never
had a chance to express its feeling. (As one of my patients aptly describes “it
seems as though SPs are a group of people who are deprived of any chance to be
honest and express themselves”.- a quotation form one of my patients that I
discussed at the beginning of this paper). Through the experiences of
expressing themselves, SP’s traumatic memories can be modified and reorganized,
hopefully to a point where they would not recur any more. This would be a state
where the SP become mostly dormant and becomes less likely to break into the
patient’s daily life.
Okano,
K. Kairi Shinjidai (New Age of Dissociation) Iwasaki Gakujutsu Publishing. 2015