2016年2月26日金曜日

報酬系と心(17)

幸福感は、私たち人間の真に求めるものだろう。というか、それ以外に究極の生の目標はあるだろうか? Cエレガンス、あるいは進化的にそれ以前の生物が初めてひと揃いのドーパミン系のニューロンを備え、それがその生物を「ある方向」に向かわせる機能を担ったときから、生命体の究極の目標はその原初的な報酬系の興奮であった。 その満足は絶対的に肯定され、思考された。人はそれを後になって幸福と呼ぶようになったのだろう。無論中には痛みを求める人もいる。手首を傷つけ、自ら首絞めをする人も。でもそれはやはりそれが結局は報酬系の刺激となるからである。その意味で苦痛はスパイスに似ている。それは報酬系のランドスケープに加わることでいっそう全体を引き立たせることになる。
ところで生命体にとって幸運なことに、報酬系を刺激するものは、自然界では非常に限られ、またその満足度も極めて低い位置に抑えられていた。そのせいで幸福感は通常は低い位置でのみ得ることが出来、高いレベルでのそれには労力や運が深く関連していた。「ナチュラルハイ」は本来そのような性質を有していた。考えても見よう。水泳の北島康介が北京オリンピックで金メダルを取ったとき「チョー気持ちいい」といったことは有名だが、彼があの「チョー気持ちよさ」を再び得るためにすべき努力や、遭遇すべき幸運のことを考えればいいだろう。チョー・ナチュラルハイは、登山家にとっての山の頂きの様なものだ。多大の代償を払って運がよければようやくたどり着ける類のもの。

だからフロイトがコカインを再発見し、一種の魔法の薬として評価した経緯は非常にうなずける。そのナチュラルハイの高みを、一瞬にして、それも数的を口の中にたらすだけで達成できてしまうからである。