2014年1月5日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(21)


じゃ、恥って何?

という問いはここら辺で当然出てくるだろう。恥という概念の定義をきちんとしない限り正確な議論はできない。今のところ、ハッキリしているのは健全な自己愛、つまりはパーソナルスペースを侵害された時の脅威に相当する、ただし病的な自己愛、肥大した自己愛への侵害に伴う感情であり、いわば健全な自己愛の際の脅威や恐怖の、病的自己愛バージョンということだ。風船部分を侵害された時の特殊な痛みというわけである。確かに恥の苦痛は強烈である。社会的な場面で体験する心の痛みで、恥はダントツではないだろうか。
 では恥は何か。恥とは自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛みである。ここで(他人に比べて)とカッコに入っているのは、それなりに理由がある。自分がダメだ、と思うとき、人との比較はその踏み台になるような、その信ぴょう性をますような役割を果たす。仲の良い、自分と非常に似た状況にある友達といて、片方にだけ喜ぶべきことが起き、自分にはそれが起きない時、おそらくこの恥の感覚は倍加する。「どうしてAちゃんはうまくいくのに自分は・・・」となるのだ。しかしべつにAちゃんと比べなくてもいい。例えばある学校を受験して、不合格になる。それだけで恥の体験につながるだろう。ただしそこにAちゃんは受かったのに、という要素が加わると、その痛みは倍加するわけだ。
 ところで「自分はダメだ」という意識には色々な「層」がある、という発想に至るのに時間はかからなかった。恥には二種類ある、というより深刻な恥とさほど深刻な恥ではないものがある・・・・・。例えば自分の○○は人に劣っているという感覚。○○にはその人の備えた属性が入る。容姿とか、学力とか、体力とか。ところが「自分は生きていく価値がない。たとえ容姿が十人並み以上で、学力も体力も結構優れているとしても・・・。という状態に人は陥ることがある。自分という存在そのものがダメだ、生きていく価値がない」みたいな人もいるだろう。こちらの方はより深く、より深刻ではないか。この二種類の恥の区別を、私は前者をエディプス的な恥、後者を前エディプス的な恥、と呼ぶことにより設けたのである。数年前かな。
さてこの恥の問題と自己愛の風船の話をつなげてみる。どうして自己愛の風船を少し侵害されるだけでこの恥の感情が出てくるのか。
 例えば自分の風船は、直径50センチだとする。(まあ、具体的な数値が出てきて変な話だが、もののたとえとして。)自分はそのくらい偉いと思っているのだ。その時にそれに1センチ侵入してくるようなことが起きた。目下の挨拶の際の頭の下げ方が若干足りなかったのだ。すると「俺って、50センチえらいのに、それ以下って事?俺ってダメなの?」となるのである。
 50センチが49センチに扱われることで「(他人に比べて)弱く劣っている」のはどうしてか。それは自分の評価や他人が見る目がもう50センチのレベルに設定されているからであり、それより小さくなれば結局「なんだ、ダメじゃん」ということになるからだ。
 例えば楽天の田中投手が24連勝した。もうカリスマである。すると翌年のペナントレースの試合でちょっとでも打たれると、「田中ってダメじゃん。フツーのピッチャーみたい。」となる。あるいはイチローが3打席連続して凡打に倒れる。「イチローって案外ダメじゃん。」その評価を下す人間といえば、ごく普通のファンで、ピッチャー図マウンドから投げてもキャッチャーまでワンバウンドになってしまうし、打席に立つとプロのピッチャーのたまに腰を抜かしてしまうだろう。それでも一流選手を「ダメじゃん」と一刀両断だ。そして選手自身も「俺ってやっぱりダメかも」となる。「24連勝自体がまぐれで、いま本性が出ているのかもしれない。」そう、「俺はダメかも」は私たちの心の底に常にあり、それがバレてしまったという感覚を生むのだ。