少し分解写真のような見方をしてみようか。一種の思考実験だ。膨らんだ風船に侵害が起きる。例えばある会社の重役、例えば部長の男性に対して年下の人、例えば課長がぞんざいな挨拶をする。具体的には、その部下が「お疲れさま」と言ったとする。これは怒るだろう。上司に「お疲れさま」はない。「お疲れさまです」だ。(第16回でも書いたように、ぞんざいさはどこまで「手抜き」が許されるか、による。「お疲れさま」は明らかに手抜きだ。)しかしそれを言った人が自分の上司だとしたら、「お疲れさま」は全く問題がなくなってしまう。同期の同僚なら?それもいいだろう。するとこの「お疲れさま」を聞いた時にイラっとするというプロセスは、実は非常に複雑な認知プロセスを経ているということがわかる。まず「お疲れさま」を聞いた時点で、おそらく「丁寧度」が査定される。「どうもお疲れ様です。」→「お疲れ様です」→「お疲れさん」→「お疲れ」→「オツカレー!」という丁寧さ(ぞんざいさ)の階層がある。別に数値化されている訳ではなく、ちょっと塩辛いかな、とかちょっと派手かな、というのと同じだ。ニュアンスとして、体感として感じられるものである。そしてそれとその人との関係性とのマッチングが行われる。そしてそこに何らかの「齟齬」があると、「何だと!!!!」という怒りの感情が湧く。特に自己愛の風船が膨らんでいる人ほど、周囲はその風船をついてしまわないように注意しなくてはならない。・・・・・。
ここで恥の問題がかかわる。部下に「馬鹿にされた」という認知とそれに伴う感情としての恥が、この怒りの一瞬前に体験されるというわけだ。それを「証明」してみよう。この状況から怒りを「消去」して見る。その課長クラスの人間が、部長の秘密を握っている。「私を怒らすと、秘密をばらしますよ」という状態にあるとするのだ。いわば課長に脅されている訳である。するとこの馬鹿にされた体験が人前で起きた場合は「あの部長は課長にぞんざいな挨拶をされても何も反応できないような、部下に舐められている上司だ」ということになり、恥辱体験となる。そう、怒りはこの恥辱に反応したことになるのだ。
昔クリントン大統領(当時)がモニカ・ルインスキーの件で、スキャンダルにまみれた時、彼はプライベートではものすごく怒っていたという。ところが公衆の前では怒るわけにはいかない。だいたい自分が種をまいたのだから(文字どおり!!)だから抑うつ的になったのである。彼の心の中は恥辱の感情に満ちていただろう。
うーん、こうやって書いてもあまり説得力がないかなあ。もうちょっと考えたい。私の健全な自己愛の概念。(別に他の人も同じようなことを言っているだろうし、私のオリジナルでは全然ないが。)それに関わる状況と比べて見よう。コブダイ(またかよ!)が別のコブダイにドツかれる。最初の反応は恐れだろうか?おそらく。彼はまず身の危険を感じるのだ。生物がまず懸念するのは自己の身体の保全である。火の粉が降りかからなければ、人は反応をしないだろう。傍観するだけだ。それが自分の身体の保全にかかわった時に反応をする。コブダイの場合も、やばい、このまま何もしないと身が危険だ、という査定であり、尾それではないか。反撃は次の瞬間に起きるのだ。
自己愛の風船を膨らませた人間の場合も、最初は痛みなのだ。侵入された感じ。それが恥の体験なのである。課長に対して反応できない部長が恥辱を体験している時、それは自分よりコブの小さいコブダイにドツかれて反応が出来ないでいるコブダイと同じだ(どういう状況だろうか。例えば交尾中とか? あり得ねー。)