2012年9月6日木曜日

第2章 ミラーニューロンが意味するもの (1)


京都大学といえば、日本のサル学で有名な今西錦司の時代から、霊長類の研究はお家芸である。その研究所グループでは霊長類の利他行為に関する研究成果が注目されているようだ。
利他(りた)行為」とは多くの方にとって聞きなれないかもしれないが、その意味するところは文字通り、他人を利する行動である。本来利己的と考えられる動物にはあってはならないはずの行動である。しかしチンパンジー同士が、自分への直接の見返りがなくても助け合うという様子が見られるという。


http://www.sciencephoto.com/media/209337/enlarge から拝借

京都大学のサイトから引用する。(http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news6/2009/091014_1.htm)「霊長類研究所でおこなった実験では、隣接する2つのブースに、2つの異なる道具使用場面を設定した・・・。ストローを使ってジュースを飲むストロー場面と、ステッキを使ってジュース容器を引き寄せるステッキ場面である。ストロー場面のチンパンジーにはステッキを、ステッキ場面のチンパンジーにはストローを渡し、ブース間のパネルに開いた穴を通して2個体間で道具が受け渡されるかどうかを調べた。その結果、全試行の59.0%において個体間で道具の受け渡しがみられ、そのうちの74.7%が相手の要求に応じて渡す行動であった。相手からの見返りがなくても要求されれば道具を渡す行動は継続した。」以下略
いったんは納得する話だ。しかしこのような「研究成果」を読んで私はふと疑問に思うのだ。利他行為をあたかも人間のような高度な知性を備えた心にのみ備わるという前提があるから、それがサルにも生じるという研究には意味が出てくるわけである。しかし目の前で苦しんでいる人を見て同情してしまうというのは、私にはあまり高度な心の働きという気がしない。といっても私が特に利他的な人間というのではなく、目の前の心のあり方というのはそれほど直接的に伝わってくるものという実感があるからだ。
例えば家人がよく家の中を歩いていて、足の小指を机の足に引っ掛けて悲鳴を上げることがある。すると飼い犬のチビは必ず心配そうにその顔をのぞきこむのだ。チビには明らかに人の痛みがわかるようである。目の前の別の個体の感情がわかるのはある程度は動物にも備わっている自然なことのように思えるのである。
さてミラーニューロンの話になる。今心理学の世界でも、精神医学界などでもきわめて高い注目を集めているテーマである。これについては、以前に著した本に説明をしてあるので、それを引用する。
発端はイタリアのパルマ大学のリゾラッティのグループの研究であった。彼のグループ、すなわちリゾラッティ、フォガッシ、ガレーゼの三人の共同研究者は 90年代に、マカクサルの脳の運動前野のニューロンに電極を刺してさまざまな実験を行った。まず運動前野の特定の細胞が興奮から始まる。そこでは運動の計画を立て、そこから運動野に命令が伝えられ、運動野は体の各部の筋肉に直接信号を送り込むことで、初めて筋肉が動くという仕組みである。たとえばサルがピーナッツを手でつかむ際は、先に運動前野の細胞が興奮して、その信号を手の筋肉を動かす運動野に伝えるという事を行なっている。このように運動前野の興奮は、単に自分の運動をつかさどるものと思われていたわけだったが、それが違ったのだ。他のサルがピーナッツをつかんでいるのを見たときも、そのサルの運動前野の特定の細胞は興奮する事が分かったからである。つまりその細胞は他のサルの運動を自分の頭でモニターし、あたかも自分がやっているかのごとく心のスクリーンに映し出しているということで、ミラーニューロンと名づけられたのである。
目の前の誰かの動きを見て自分でそれをしていることを思い浮かべる、ということはたいしたことではない、と考えるかもしれない。しかしこの発見は、心の働きについてのいくつかの重大な可能性を示唆していたといえる。それは人が他人の心をわかるということは、単に想像し、知的な推論だけでわかるというよりも、もっと直接的であり、自動的な、無意識的なものであろうということだ。何しろサルでも出来るのだから。また一部の鳥でも同様のニューロンが見つかったとのことである。(中略)ちなみにこの運動前野と運動野の興奮は、通常はペアになっていると考えることができるだろう。鼻歌を歌ったり、独りごとを言ったりすることからわかるとおり、私たちは人が見ていないときは、イメージすることをそのまま行動に移すことが少なくない。しかし場合によっては行動に移すことが危険であったり、あるいは社会的に不適切だったりし、その場合は運動前野のみの興奮となる」(「関係精神分析入門」岩崎学術出版社、2011年より)。
つまりミラーニューロンが教えてくれたのは、私たちは人の痛みを単に想像するだけではないということだ。それよりもっと直接的なことが起きている。ある意味で痛みを「感じる」のである。そしてその感覚を生み出す生物学的な基盤がミラーニューロンという形で私たちの脳に備わっているのだ。
運動前野が興奮するということが、いかに実際の運動に近いかについて、ひとつの思考実験をしていただこう。あなたが右利きだとして、右手で自分の名前を宙に書くことを想像してほしい。おそらくそれは運動を伴った想像なのである。その証拠にその時に右手がなんとなくムズムズとするはずだ。そこで今度は左手で自分の名前を宙に書くことを想像していただく。今度は左手がムズムズするだろうし、利き手ほどにはスムーズに想像ができないことがわかるだろう。その差が生じるということは、運動前野の右手の運動をつかさどる部位が興奮するか、左手の運動を担当する部位が興奮するかの違いがあるということなのだ。(ちなみに運動前野が興奮して、右手や左手がムズムズするということは、ある程度その運動を出来る用意があるということである。自分がまったく出来ないような行動、たとえば体操の内村航平選手がやるような何度もひねり技を入れたジャンプなどをいくら想像しても、なかなか運動前野は興奮しないはずだ。)
想像以上の機能を果たすミラーニューロン、ということについて説明するときに私がいつも持ち出すのが、言語の習得のプロセスである。たとえば英語のRLの発音の区別がつかない日本人は多いが、それは私たちが思春期以降に外国語として英語を習得する場合が圧倒的に多いからだ。語学として勉強する英語の発音は、教室で先生の出した音をまねることから始めなくてはならない。これはミラーニューロンをほとんど介さない習得の仕方だ。中学1年生を前に初めての英語の授業でRの音を出す練習をするとなると、生徒はその音が自分の口からどのように出ているのかを想像する必要がある。それでも足りないと、英語の教師はそれこそ口の中で舌の先をどこに持って行くかという解説を具体的にする必要が生じる。これはこの時期にはすでにミラーニューロンが活用できない時期になっているからであると考えられる。
 しかし幼少時に習得する外国語は全く異なったプロセスを経る。生活の中で聞いたRLは模倣しようという意図を介さずに舌先から出てくるだろう。ミラーニューロンの働きを考えることなくこのようなプロセスを考えることなど出来ないのである。

ちなみに言語習得とミラーニューロンの関係は、最近の研究でも明らかにされているという。そこではそもそも前運動野と運動性言語中枢(ブローカ野)のオーバーラップがみられ、ブローカ野が多くのミラーニューロンを含むことで言語の習得に貢献しているとのことである。
しかしこの運動に関するミラーニューロンの興奮よりも、心理面接により深く関係するのが、感情のレベルにおけるミラーニューロンの反応であろう。よく私たちはもらい泣きという体験を持つ。これなどはミラーニューロンが感情体験においても働いていることの如実な証拠といえる。ドラマなどで悲しいシーンを見ているうちに、自分もいつの間にか涙を浮かべる。しかしそれは実際に悲しいという体験とは異なる。そのドラマが終われば、それを引きずることはまずありえないからである。しかし実際に涙を流すということは、その体験がドラマの登場人物の心中を単に想像したという以上の体験であることを証明しているのである。
ここで読者の中に、「あれ、ミラーニューロンって、当たり前の話じゃないの?」という感想を持つ方がいらしたら、おそらくそれが正解であろうと思う。サッカーのシュートシーンを見ていると足がムズムズしてくる、テレビの悲しいシーンでもらい泣きする、という体験は、事実上ミラーニューロン的な仕組みが脳で起きていることを証明しているようなものだ。しかしそれが実際に電極をさしたサルの脳で証明されたということが画期的だったというだけの話なのである。