2012年9月5日水曜日

第1章 報酬系という宿命 (5) ― 心理士への教訓

   報酬系が何を「イエス」とするかは、あまりに偶発的かつ多因子的で、本人にもわからないことが多い、というのが本章の趣旨であった。「蓼食う虫も好き好き」という言葉があるが、私たちが何を好み、何を敬遠するかには極めて大きな個人差があり、そこに具体的な理由が見当たらないことが多い。人々の職業にしても趣味についても、これほどの多様性が存在するということこの事実を物語っている。しかしこのことは、心理面接をする者にとっては結構深刻な問題を提起する。患者がある考えを持ったり、ある行動を選択したりし、それが何らかの問題を患者の人生に及ぼす場合、心理士はしばしばその理由を探り、根拠を明らかにしようとするからだ。
「どうしてあなたはそんなパートナーと別れようとは思わないのですか?
「どうして今その仕事をやめて起業しようとするんですか?
「どうして突然犬を飼おうなんて思ったんですか?
「どうして3日間だけでもパチンコを我慢できないのですか?」



 患者の側でもこれらの理由を知りたいと思うことも少なくない。彼らは理由さえわかれば、その行動を変えられると考えがちである。そして治療者も同様の考えを抱くことが多い。しかし多くの場合わかっているのは、それらの行動が結果的にその患者の報酬系にアピールしているという事実以上のものではない。たとえ患者が合理的な説明を受けたとしても、それは患者が左脳の力を借りて作り上げたものかもしれないのである。

私はここで心理士が来談者の行動の理由を尋ねるべきではないというつもりはない。時にはそこにある種の比較的明瞭な動機付けが語られる場合もある。また自らの行動の由来を自らに問いかけてみることが意味を持つ場合も少なくない。しかし治療者は常に、もともと答えのない問いを投げかけているのかもしれない、という認識を持つべきであろう。「どうして~したのですか?」という問いかけが多くの場合空虚なものであるとするならば、むしろ「そのような行動と関連して思い出されることはありますか?」という問いのほうがまだ意味があるだろう。
 もう一つ報酬系に関連したアドバイスがある。患者の示す不適応的な行動が報酬系と深くかかわっているとしたら、その行動が心地よさをもたらしたり、不安や恐怖を回避したりするということを患者と共に確認することは、多くの場合治療的な意味を持つ。その行動が衝動的であったりアクティングアウトとしてのニュアンスを含むとしても、すくなくともその行動を起こした瞬間には快楽を生んだり不安の回避に役立ったりしているのが普通である。ただそれが長期的に自分の利益に繋がらないために、その直後にはすでに後悔したり自己嫌悪に陥ったりするわけだ。そこでこの心地よさや不安の回避に役立っているという事実を受け止めることは、治療者の重要な役割ということになる。そうすることはしばしば患者に治療者から理解され、受け入れられたという感覚を提供することにもなる。
 たとえば過食に苦しむ来談者に、食べている最中の心地よさや過食後の一時的な充足感についても治療者が理解を示さない限りは、患者はそれがどのような障害を生活にもたらしているかについて治療者と話し合う気持ちになれないだろう。リストカット然り。ゲーム依存然り。それらを否定的なものとしてのみ扱えば、治療者はそれらの行為に顔をしかめる親の姿と重なってしまうだろう。
 ところで報酬系という観点から見た人生の在り方についても考えてみよう。患者の人生が安定してかつ生産的であるということは、彼らの行動が一貫して報酬を生み出し、なおかつそれが将来的にはより大きな報酬に繋がるような役割を果たしているということである。そのような時に短期的な報酬は長期的な報酬を生むことでさらに大きな充足感を生む。それ以外の報酬、例えばゲームを一日何時間もやることによる報酬、パチンコによる報酬、酒を飲むことによる報酬などは、それがその人の将来的な自己実現に寄与しないために空しさを生むことになる。それを仮に「空しい報酬」とよぼう。空しい報酬に浸ることなく、自分をより生産的な行動に導くという能力は、実はかなり高度なものである。それはいわゆるEQ(情緒的知能)にも繋がる、高度な脳の働きに関係している。人生をシミュレーションしてそこから逆算して自分の行動を決定していくという背外側前頭前野(DLPFC)の機能がそこに関与し、それ自身はかなり遺伝的なものなのである。それを来談者に会得してもらおうとしても、それほど簡単にはいかないであろう。その意味でCBTに出来ることにも限界があるのだ。
 ただし面接者は報酬系が果たしているひとつの可能性を忘れてはいけない。それは「空しい報酬」が現在の何らかの苦しさを「癒し」ている可能性である。その苦しさとは、職場での同僚からの手荒な扱いであったり、過去の外傷体験の回想に伴うものであったり、うつ症状の苦しみであったりする。それらにとっての癒しとなっている「空しい報酬」を取り去ることは、辛うじて保たれていたその人の人生のバランスを崩すことになる。だから患者が人生から得ている報酬を批判したり、それを禁じたりすることには、相当に慎重にならなくてはならないのだ。
  嗜癖との関連においてもアドバイスを提供しておこう。患者と対面する時、彼がどのくらい人生で不可逆的な変化を被っているかを常に考えることは治療者として重要である。それはその患者が背負っている運命のようなものであり、その部分を心理療法で変更したり修正したりすることは極めて難しいことだ。そこは「定数扱い」すべきなのである。
一般に人は人生で三つのタイプの不可逆的な変化をこうむっている可能性がある。一つ目は深刻な心的トラウマであり、二つ目は幼児期の愛着対象との関係の深刻な阻害である。これらの二つについては別の章で述べるとして、もう一つ重要なのが、彼の報酬系がどの程度「ハイジャック」されてしまっているか、である。この状態は表からは見えにくいが極めて重要である。ある人が一見正常に話をしていても、その人がある種の嗜癖を持っている場合には、もはや正常な思考や行動は期待できない。その人においてはその思考や行動のおよそ全てが、嗜癖物質や行動に伴う快感を得ることを目指している。面接者がアルコール中毒の人にいかに生産的な人生設計を説いても、彼らはそれを聞いているふりをしても心の中では鼻であしらっているだけだろう。彼らの頭の中は、いかに面接者との話を適当に切り上げて、どこかで酒を手に入れるか、ということしかないのだから。
 治療者は報酬系がある強烈なターゲットを有している状態は、極めて強固で変更不可能だということを理解しておく必要がある。嗜癖の脳科学を知らないと、その犠牲になっている患者を説得してかかったり、意志の力に訴えかけようとするかもしれない。あるいは嗜癖に負けてしまう患者に対して叱ったり、面接者の言葉を軽んじていると被害的になったりもするだろう。しかし面接者に必要なのは、来談者にとっておそらく唯一の救いの道である禁断 abstinence をいかに成し遂げるかを、患者と冷静に考えることなのだ。
 嗜癖に陥りかねない状態にある患者に対して面接者が出来るおそらく唯一のことは心理教育であるということも重要な留意点である。それは嗜癖の恐ろしさ、不可逆性について説くことである。嗜癖を回避するおそらく唯一の完璧な方法は、その嗜癖物質や行動にさらされないことである。君子危うきに近寄らず。