愛着に関する研究が急速に行われていることで、心理療法の捉え方も大きく変わらざるを得ない。(最近はむしろ愛着ばっかり、という気すらする。)愛着の問題は例えば子供に対してのストレンジ・シチュエーションや、母親に対するAAI(成人愛着面接)などの検査を使ってある程度エビデンスを得ることができる。つまり子供が、母親がどのような愛着(の失敗)のパターンを示すかがわかることになるのだ。するとそれは診断にも治療にも大きな変化を与えている。
私がなじみの深い「関係精神分析」の分野では、発達理論が治療に組み込まれることはもはや常識といっていい。関係精神分析は、治療者と患者という二人の対等な(しかし役割の異なる)人間同士の情緒的な交流に視点を置く精神分析の流れであるが、そこでの関係性とは、当然母子間の関係性から連続しているものとみなす。つまり母子間の間で成立していたはずの安定した二者関係の障害が様々な病理を生むと考えるのである。
私がなじみの深い「関係精神分析」の分野では、発達理論が治療に組み込まれることはもはや常識といっていい。関係精神分析は、治療者と患者という二人の対等な(しかし役割の異なる)人間同士の情緒的な交流に視点を置く精神分析の流れであるが、そこでの関係性とは、当然母子間の関係性から連続しているものとみなす。つまり母子間の間で成立していたはずの安定した二者関係の障害が様々な病理を生むと考えるのである。
さてここでは脳科学との関連で愛着を考えているので、こんなイメージを持って欲しい。すでに述べたように、生後2,3年以内に愛着形成が成立するが、それは脳内の基礎的な神経ネットワークの構築を意味する。それを心という建物の基礎工事と考えよう。安定した、きちんとした骨組みによる基礎工事は、その後の地上階、上層階の建物を支える上で極めて重要になる。逆に基礎工事がおろそかになると、その後の建物の安定度、耐震度などに極めて大きな影響が出てくる。
ここら辺は実は私の日常生活が影響している。私の都心のオフィスでは、すぐ隣で約2年がかりでこれまでの古い建物が壊され、新たに高層ビルを建築している。ずいぶん騒音に悩まされたが、結局暇があると窓からその基礎工事をいつも眺めていたことになる。そしていかに建物が出来上がる過程で、基礎に時間とエネルギーが注がれているかを実感したのである。
さて精神療法は、ある意味で治療者の側の基礎工事を患者の側の基礎工事とドッキングするようなものだ。ここで急に人間=建築物というイメージを浮かべにくくなるが、少し無理をして、治療関係を、二つの建物が一時的にドッキングするという実際にはあり得ない事態としてイメージして欲しい。患者の基礎工事はグラついたものでも、治療者のそれとドッキングすることで一時的に補強されて安定するかもしれない。すると患者の側の心は基礎がいつもより支えられている分だけ上層階も安定し、そこで行なわれるべき仕事もより能率よく行なわれるであろう。過去のことを振り返ったり、現在の人間関係で悩んでいる事柄についてより深い洞察を得たり、深い反省を加えたりできるかもしれないのである。そして患者が治療者の基礎部分を借りて一時的に安定している状態で、自身の基礎工事を一部やり直すこともできるかもしれない。杭を一本引き抜いて、打ち込みなおす、とか。梁を補強するとか。
あるいは治療者の方は、患者という建物の基礎部分に直接触れることで、どのようなときにそれが揺れやすいか、どのような方向に傾きやすいかを知ることができる。時には患者の側の基礎部分の揺れが自分の基礎部分に伝わってくることで、患者の心で起きていることをより身近に感じたり、場合によってはそれに少し巻き込まれるようなことも起きるかもしれない。これらは精神分析では同一化とか取り入れ、共感、あるいは逆転移などといわれている事柄である。
治療関係をこのような比喩で捉えることは、特に治療者の姿勢や態度に大きな変化をもたらさないかもしれない。私もここで特別のことを言っているつもりはない。ある意味では常識的なことである。ただしこのような認識は、治療がいわゆる左脳的な、知的で認知的なプロセスだけにはとどまらないということを再確認させてくれるであろう。治療における解釈も、認知行動療法的なかかわりも、あくまでも「上層階」で行われることである。そこには必ず下層階や基礎部分でのやり取りが係わっているし、それを意識しない治療者、自分の基礎部分を患者のそれにドッキングさせることをためらう治療者の場合には、患者はそれに気付くことになり、そこに物足りなさを感じるかもしれない。(もちろん患者がそれを望まないのにドッキングしてくる治療者は、今度は警戒されたり、侵入的と思われる可能性があるので注意しなくてはならない。)
No Title (8)
I
stated that the toughest year of my stay in the US
was when I was the first year resident in Oklahoma
City . Perhaps the second toughest period was a few years
between 1993~1995 where I had a struggle getting the green card in order to
stay on, without any clue as to whether it was at all possible. I tried every
rout to get it, but nothing worked until I contacted the Senator Bob Dole’s
office. Contacting a local politicians’ office for help is a last thing that American
people sometimes resort to, in order to get their way. Usually they don’t get
any response (because politicians are busy doing their own business!!) Of
course I never met Senator Dole personally. I didn’t even have a right to vote
as I was not an American citizen. But I did it anyway. Senator Dole (or more
correctly one of his secretaries) let me know the name of a lawyer in New York City who knows
how to “cut through the red tape” in order to get a green card for foreigners
like me, and it worked! (I won’t mention any detail. I simply gained a little more
insight about how American society works.)
It was in the spring of 1996, that I got the green card and finally became qualified to start looking for analytic cases.
It was in the spring of 1996, that I got the green card and finally became qualified to start looking for analytic cases.
Thank you Mr.Dole! (photo from Wikipedia) |