断っておくが、この表題は意味不明である。「脳の宇宙」? 雰囲気、フンイキである。
こんな想像をしたことはないだろうか?類人猿が大脳を巨大に進化させることで、人類が生まれ、高い知性を獲得した。では人類が突然変異でさらに進化したらどうなるだろうか?「アキラ」に出てくるような超能力を持った新人類だろうか?私はそうは思わない。そんなの非現実的だ。人の能力の獲得に、その種の飛躍はないだろう。(というより超能力を私はやはり信じてはいない。)その代り一瞬にして3ケタ×3ケタの掛け算をこなし、一度読んだ本は二度と忘れなかったり…。そんな能力だったら獲得するかもしれない。私たちが暗算をしたり、暗唱したりする力の延長線上にあるからだ。いつ人類は、もう一度進化を始めるのだろうか?
しかしこの空想は少なくとも二つの壁に突き当たる。人は事情があってこれ以上脳を大きくすることが出来ない。人間の女性の骨盤の内径は、今の大きさで赤ん坊の頭の大きさギリギリなのである。ということはこれ以上人は頭を大きくすることが解剖学的に無理だということになる。さらにもう一つの壁。一瞬にして複雑な計算をこなすだけの神経回路が本来存在しえないとしたら、初めからこんな想像は無理なのではないか?脳がいくらこれ以上進化したって、電卓には本質的になりえないとしたら。ところがこの第二の壁については、実はあり得るかもしれないと考える根拠がある。常識ではありえないような能力を示す生き証人がいる。それがサバン症候群を有する人々だ。こんな想像をしたことはないだろうか?類人猿が大脳を巨大に進化させることで、人類が生まれ、高い知性を獲得した。では人類が突然変異でさらに進化したらどうなるだろうか?「アキラ」に出てくるような超能力を持った新人類だろうか?私はそうは思わない。そんなの非現実的だ。人の能力の獲得に、その種の飛躍はないだろう。(というより超能力を私はやはり信じてはいない。)その代り一瞬にして3ケタ×3ケタの掛け算をこなし、一度読んだ本は二度と忘れなかったり…。そんな能力だったら獲得するかもしれない。私たちが暗算をしたり、暗唱したりする力の延長線上にあるからだ。いつ人類は、もう一度進化を始めるのだろうか?
私の愛読書に「なぜかれらは天才的能力を示すのか」(ダロルド・トレッフォート、高橋健次訳、草思社、1990年)という本があるが(いや、今回注文しただけだ)、ここには実際に3ケタ×3ケタの掛け算を即座にやってのける天才児が描かれている。彼らの特徴は、それをどのように計算しているかを人に説明できないことだ。彼らには答えが自然にわかるという。そしてこのことは、私たちの頭にも、同様のことを行えるだけの潜在能力があるという空想をいただかせる。ただ私たちはそれを抑制しているだけかもしれないのだ。まるで私たちの脳は無限の宇宙のようなものだ・・・・。
私はサバン症候群について読むのが好きだし、その感動を伝えるためにこうして書くことも好きだが、読者の中にはそれらについて既に知っているかもしれない。たいてい次のような感じで説明されている。
「一卵性双生児のジョージとチャールズは、例えばある人の誕生日が木曜日に当たる年をすべてあげることが出来る。さらに過去あるいは未来の4万年にわたる暦の年月日と曜日を言い当てることが出来る。二人は暇さえあれば、20ケタの素数を言い合って遊んでいるが、実際には、彼らは二人とも、一ケタの足し算もできないし、数式も一切知らないのだ。もちろん紙に書いて計算することなど思いもよらない。」(「なぜかれらは天才的能力を示すのか」から。)No title (9)
I
think I digressed a lot and wrote too much about getting the green card. It is
a sort of fun to reminisce these days, but I need to move on and discuss my own
analytic training.
As
I stated, it was very challenging for me to look for analytic cases, and I was
very lucky to have found three of them to complete my training. Each of them
came to me and started an analytic process in a totally different way from each
other, but there are things in common among these three patients. They were
good people, were in suffering, and were motivated to work on their own issues
despite the fact that I, as their analyst, was from a totally different
cultural background and hard to understand due to my heavy accent. Also they
were lonely, and so was I, in a sense. Discussing each case is not the purpose
of this paper, and I would only state that besides learning a lot about
psychoanalysis through these cases, I realized that I can be of some help for
others as a mental health professional, as well as an analyst, in the American
society.
One
important issue to be discussed here is that throughout my training, I
gradually formed my own style as a therapist. (“My style” is a mice way of
saying, but it can be “my bias” as well.) As my personal analysis went on, my
analytic treatment with three cases progressed, and the didactic course
continued, I realized that I was moving more and more toward non-classical and
more “liberal” way of thinking. One thing which struck me in particular, was
that psychoanalysis in reality is quite different from what is taught and
discussed in theory. I was certainly more interested in what actually
happens in analysis, rather than what should happen in analytic
theories. It is certain that the ambiance that TIP was providing influenced me, which was a mixture of classical and liberal, based on the theoretical orientations of the analyst belonging to it. In fact, TIP gave candidates many chances to read on different types of theories. Some of them struck my chord, and some others bored me, and some I found false. I became more and more choosy about my reading.