第3点目は、解離の概念を理解し、解離・転換症状を扱うことを回避せず、治療的にそれとかかわるという姿勢である。最近では精神分析的な治療のケース報告にも解離の症例は散見されるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られていないのが現状である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢をと同時に、その表面に現れた意味を受け取るという姿勢である。古典的な精神分析が掲げた抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。この点が重要なのは、解離の症状はフラッシュバックとしての意味を有し、ある意味では過去に起きたことが再現されているからである。しかもこれは患者の見る夢についても同様だ。患者から折檻されている夢を見、その報告を受けた治療者は、それをある種の象徴的な意味合いを持ったものとして解釈するだろうか。ただしこの問題を考えれば直ちに納得する点がある。それはおそらくそのような夢ですらある種の加工やファンタジーを含んだものである可能性がある。その意味では患者の示す症状や夢に、そのものが表すものと、それが象徴、ないし代弁する内容の両者を見据えるという必要が生じるのだ。
2019年1月11日金曜日
2019年1月10日木曜日
忘れていたCPTSD 3
第2点は愛着の問題を重視し、より関係性を重んじた治療を目指すということである。そのような視点は、いわゆる「愛着トラウマ」の概念に込められていると考えていい。愛着関係の中にすでに深刻なトラウマが織り込まれる可能性がある。そしてそれは一生にわたって影響を及ぼす可能性がある。特にCPTSDの場合は、その定義の中に愛着レベルでの問題が生じていることが示唆されているためにこの愛着トラウマが深刻な形で関与している可能性がある。
フロイトは最初は幼少時のトラウマ、特に性的なトラウマに注目した。やがて「誘惑説」の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、直接の加害行為の存在があるとは限らないということだった。その点に関しては、フロイトは正しかったといえる。ただしフロイトが道を誤ったのは、そこから子供の有する欲動の問題にのみ注目した点である。彼がなすべきだったのは、彼の最初の視点、つまり幼少時のトラウマの重要性であり、そこで不可避的な形で生じる愛着上のトラウマである。
愛着トラウマの結果として生じるのは、子供が「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けとるということである。ただし問題は母親の意図を超えて子供が感じ取ってしまうかもしれない。これはあからさまな虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性がある。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。愛着トラウマの概念にはこのような広い意味でのトラウマが幼少時に生じて将来の自己概念や関係性に影響を与えているという視点を提供する。
2019年1月9日水曜日
忘れていたCPTSD 2
そもそもCPTSDとはどのような病理なのかについて復習しよう。CPTSDはPTSDという直接のトラウマによる症状とともに、否定的な自己観念と関係性の障害に特徴づけられる自己組織化の障害が見られるということである。つまり繰り返されるトラウマにより、自己自身に生きる価値を見いだせず、安定した相互的な対人関係を持てない状態である。ここでは基本的に愛着の関係を持てずに人との関係を持てない場合を主とさすのであろうが、それ以外にも成人以降にも生じうる災害やトラウマ、ICDの記載によれば「拷問、奴隷、集団抹殺」といったホロコーストでの体験を髣髴させるようなものも含む。これは一度は成立していた愛着上の問題が破壊ないし再燃された状態と見ることが出来るだろうか。ここで留意するべきなのは、CPTSDにおけるDSO(disturbances in self-organization 自己組織化の障害は自己イメージの問題にとどまらず、対象イメージの深刻な障害が伴っていることである。人を信用できない、自分に対して何らかの脅威となりかねないと感じるという傾向は、その人の社会生活をますます非社交的で狭小なものにする。それは対人交流や親密な関係、職業の選択などに深刻な影響を及ぼすであろう。そのような患者との治療においては、比較的安定な関係性を結ぶことそのものが重要な目標と考えられるだろう。
私はトラウマの犠牲となった患者さんに対して以下の5つの項目を挙げて治療を行うことを推奨している。それらは トラウマ体験に対する中立性、「愛着トラウマ」という視点、 解離の概念の重視、 関係性、逆転移の視点の重視、倫理原則の遵守である。以下に特にCPTSDを念頭に置きつつこれらの項目について論じたい。
第1点は、治療者は中立性(岡野、2009)を保ちつつ治療を行わなくてはならないということである。ただしCPTSDを持つ患者に対する中立性とは特別な意味を持つ。それは決して患者に対して行われた加害行為そのものに中立的であることではない。つまり「加害者にも悪気がなかったのかもしれない」「被害者であるあなたにも原因があった」、という態度を取ることではないのである。むしろ「いったい何が起きたのか?」「加害者は何をしようとしていたのか?」「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」、「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と患者が率直に話し合うということである。ただしこのような意味での中立性さえも、患者には非共感的に響く可能性がある。被害に遭った患者の話を聞く立場として、治療者が患者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者が上述の意味での中立性が意味を成す地点まで行き着けないであろう。
ここで言う中立性を、精神分析における受け身性と同じものと考えるべきではない。たとえば患者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無表情で対応した場合,患者は自分の話を聞いて一緒に憤慨してくれない治療者に不信感を抱くかもしれない。患者は場合によっては治療者がその虐待者に味方していると感じるであろう。もしそれにより治療者と患者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は非治療的なものと考えなくてはならない。したがって患者によっては分析的アプローチを保つことに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,重要な場合があるのだ。
また治療者が感情表現をすることが治療的であるとばかりは言い切れない。患者によっては,治療者が一切の感情表明をひかえて受け身的に話を聞いてもらえることを何よりも安全に感じる場合もあるかも知れないのである。このように個々の患者の特殊性を十分に理解し,それに柔軟な対応を示す姿勢こそが重要なのであり,そのような態度が真の意味での中立性と言えるだろう。
2019年1月8日火曜日
昨秋の分析学会の、ドナオレンジ先生の講演への討論
今になって原稿に起こす必要が生じた。
ドナ・オレンジ先生への討論
オレンジ先生、大変刺激的な講演をいただき、大変ありがとうございました。私から討論者の一人という立場で少しお考えを述べさせていただきたいと思います。
まず私が非常に興味深く感じたのは、現在京都を訪れている二人の偉大な精神分析家が同様のテーマについて論じているということです。一人は京都大学に客員教授として滞在なさっているベルギーのルーベン大学のルーディ・ベルモート先生です。彼はビオンの研究者としても大変よく知られた先生で、最近京都で開かれた公開講座で、ある講演していただきました。そしてもう一方がオレンジ先生です。お二人は偶然にも非常に類似したテーマ、すなわち不可知について、あるいは表現できないことについて、そして沈黙についてというテーマについて論じられました。オレンジ先生は最初にウィトゲンシュタインについて論じ、彼が「書かれていないことの方が、書かれたことよりも重要である」と主張した点に触れられました。そしてそれはS.フロイトの談話療法talking cure とは大きく異なったものであったという点についても論じられました。私の立場からは、この種の沈黙は、「silence out of awe 畏敬の念から発する沈黙」と呼ぶべきものではないかと思います。私たちは知ることができず、触れることができないことについては沈黙を守るわけですが、それはそれへのリスペクトがあるのだと思います。ウィニコットのincommunicado (連絡の手段のない、関係をたたれて孤立した)もそのような意味があると考えています。さてオレンジ先生はこのことを、フロイトの解離を語ることの回避と関連付けて語られています。フロイトが解離を語らなかったのは、逆説的にもこの語られない問題に対するきわめて大きい関心を表しているのではないかと思います。つまりこの問題はフロイトにとっては、否認と言う防衛機制を用いて遠ざける必要のあるものだったわけです。フロイトのこの激しい反対と否認は、彼が弟子であるサンドール・フェレンチの晩年に示した態度を思い起こさせます。ご存知のとおりフェレンチはフロイトにとって息子のような存在だったわけですが、彼が有名な「言葉の混乱」(1933年)の論文を書いたときに、それをそのままの形では発表しないように迫ったり、英語への翻訳に反対したりしたわけです。フロイトはヒステリーの患者には過去に性的なトラウマがあったという説を一時は信じていたわけですが、その後はそれに強く反対し、その説を蒸し返すようなフェレンチにも、その発表を取りやめることを迫ったわけです。オレンジ先生のレクチャーが私たちに考えさせるのは、このフロイトとフェレンチの間に起きた争いについて理解することなくトラウマや解離の問題を扱うことが果たして適切なのだろうかということなのです。さもないと私は基本的にはフロイトの引いた路線の上にいながらフェレンチにもいい顔をしていると言うことになりかねないのですから。
次にオレンジ先生が語ったのは、トラウマ的なことについて私たちが沈黙勝ちになると言うことです。ここで私たちはもう一つの沈黙について扱っていると言うことができると思います。これは恐れと痛みから来る沈黙です。私たちは痛みを持つ内容については、心の中で隔離、隔絶してしまうわけです。私はオレンジ先生が示唆しているのは、分析家の使命は、トラウマ的な視点を取り入れた場合にはさらに複雑であろうということだと思います。患者が沈黙を保つとき、分析家は何かが生じているのだろうと思います。しかしそれをどのようにアプローチすべきかを、私たちはどうやって知ることができるのでしょう?
何が起きているのかについてたずねないことは、患者さんが語らないことに対して敬意を示すことになるでしょう。しかしそれはまた患者に共謀して、恐ろしいものから目を背け続けることにもなりかねないのです。それをたずねることは、陽のもとにさらされるものを待っている素材を持ち出すことになるのでしょうが、それはまた非常に侵入的でダメージを与えることになるでしょう。この両方のバランスをいかに取るかということが、臨床家に課せられたテーマなのです。そしてこれについては、患者からの助けがあってはじめて答えが見出せる類のものなのです。
さてオレンジ先生が広島について語られたことは非常に喜ばしいことです。少なくとも先生はトラウマから眼を背けるということについて私たちと共謀することはなさらなかったわけですから。私は先生が広島において振るった暴力について口になさったというだけで、どこかですくわれた気がしました。そして私の頭の中に次に浮かぶのが「真珠湾」という言葉だったのです。私もまた真珠湾攻撃において私たちが行った暴力についてここで言及するべきでしょうか?歴史的には私たち二つの国は、互いにその暴力にいたった様々なexcuse をお互いに示していました。つまり私たちがやったことは正当防衛であった、という類の議論です。そしておそらくこの種の論争は永久に終わりがないのです。それはいかなる人間同士の関係において、因果的な関係、つまり最初にどちらが先に始めたか、と言う議論には決着がつかないからです。どこにも純粋な攻撃や、純粋な防御はなく、ただあるのはお互いに油を注ぎ合う関係性があるのみです。一方的な非難や謝罪ではなく、ただ自分たちが行った暴力について言及することで、お互いがそれを語り合う関係が生まれるのです。私はこの問題がトラウマの問題にも関係していると思います。多くのトラウマ状況で、私たちは純粋な加害者も、純粋な被害者も見つけられないでいるわけですから。
最後に先生が昨日の私たちのグループの教育研修セミナー(S5.「米国精神分析の体験を語る」)の中で何度か言及された「contingency 偶発性」という概念に少しだけ触れたいと思います。先生がトラウマについて語る際に、やはりここに偶発性についての考えが織り込まれているのではないかと想像します。加害者と被害者の関係は、いつ、偶発的なことで変化するかもしれない。昨日被害者としての体験を持った私たちが、今日は加害行為を行うかもしれない。その意味でこの偶発性は、先生が広島について言及されたことで俎上に上ったテーマと深く結びついていると感じました。
最後にこのような貴重な講演をいただいた先生に深く感謝申し上げます。
2019年1月7日月曜日
他者性の英語論文 abstract
abstract を書いてみた。
In this article, I
discussed what I call “the problem of otherness” in dissociative disorder; how
much we validate and recognize each part of personality(PP)’s perception of
otherness in other PPs. Our general trend in this modern era appears not to fully
validate it. I attributed this to our trend stemming from the era of
Freud-Janet controversy, partly due to the conceptual ambiguity of the
splitting of mind in the sense of division
vs. multiplication. It is our general
trend to consider dissociation as defensive and intentional act, at least when
it was initiated, with an understanding that PPs are not structurally
separated, but internally and dynamically connected to each other. This belief
makes us consider that each PP as somewhat causative to and responsible for
other PPs decision or behaviors. The presentation of neurocognitive
hypothetical model is supported by Edelman et al, whose point that (healthy)
mind is unitary: each mind is not a mixture of different subjectivity but
single and unique. The most natural way of hypothesizing neural correlate of
DID condition is to postulate simultaneous and multiple existence of conscious,
which was in a sense predicted by Putnam and practically demonstrated by split
brain phenomenon.
2019年1月6日日曜日
他者性の英語論文 推敲の4
この部分、結構書き加えた。
Edelman et al. (2011)
further proposed a hub-like base with synchronizing and re-entrant connection
with different contributing cortical areas, in a frequency of gamma range. They
call it the Dynamic Core Model , or DCGW (Dynamic Core and Global Workspace
hypothesis).
Multiple Track Model – a theoretical basis for
the view of splitting as multiplication
In this section I will discuss some neurological
basis for DID as representing the splitting of consciousness as multiplication. In the past, some
authors already discussed neurobiological underpinnings of DID. It is well
known that Putnam proposed the "discrete behavioral states" model
(Putnam, 1997) as a groundbreaking work in search for the biological mechanism
of DID. According to this model, young children's sense of self is highly
discrete and state-dependent (Wolff, 1966), and their integrative capacity will
yield a cohesive sense of self. However, in abusive environment, they remain
disintegrated and forms a basis for the pathology of DID.
Scaffolding on to Putnam's model, Kelly Forrest (2001) proposes that the involvement of a specific brain structure, orbitofrontal cortex (OFC) plays a key role in the development of DID. Based on recent neurodevelopmental research, he underscores the OFC's protective inhibitory role in the organization of behavior and emotional regulation as well as the sense of self. In abusive child-caretaker relationship, the OFC attempts to protect the integrity of the organization of behavior within the immediate context by dissociating any conflicting experiences, thus creating pathology represented as DID.
In my view, Putnam’s model describes quite well the way DID’s mind is structured; it consists of separate and “discreet” parts which coexist and structurally separated. Forrest’s view of the role of OFC is relevant in explaining how the state of disintegration is perpetuated in its attempt to “sacrifice” full coherence in order to emotionally survive. Along with their theories, what I would like to focus in this article is what actually seems to be occurring in the minds of individual with DID in their OFC-assisted characteristic discrete state of mind.
Scaffolding on to Putnam's model, Kelly Forrest (2001) proposes that the involvement of a specific brain structure, orbitofrontal cortex (OFC) plays a key role in the development of DID. Based on recent neurodevelopmental research, he underscores the OFC's protective inhibitory role in the organization of behavior and emotional regulation as well as the sense of self. In abusive child-caretaker relationship, the OFC attempts to protect the integrity of the organization of behavior within the immediate context by dissociating any conflicting experiences, thus creating pathology represented as DID.
In my view, Putnam’s model describes quite well the way DID’s mind is structured; it consists of separate and “discreet” parts which coexist and structurally separated. Forrest’s view of the role of OFC is relevant in explaining how the state of disintegration is perpetuated in its attempt to “sacrifice” full coherence in order to emotionally survive. Along with their theories, what I would like to focus in this article is what actually seems to be occurring in the minds of individual with DID in their OFC-assisted characteristic discrete state of mind.
It might be plausible to assume that the neural
correlate of each PP should be in a form of some kind of neural network in our
central nervous system. When a PP is active, that corresponding network should
be at work. If the splitting of mind in DID is in the form of division, the way that that network is
structured might be quite different from in the form of multiplication. In this article, I would like to present a model of
neural networks which represent the splitting as multiplication and call it the “multiple track model.”
.Neural
correlate of consciousness and the “DCGW” hypothesis
Several neuroscientists
have suggested neuronal correlates of consciousness on a hypothetical basis.
Edelman (2005) proposes “a thalamo-cortical system, which is a dense meshwork
connectivity between the cortex and thalamus and among different cortical
areas” (p.25), each exhibiting synchrony in gamma frequency and call it the
dynamic core.
One of the
characteristics of this model is that it grasps consciousness as equivalent to
informational system consisting of complex neural networking system between thalamus
and cortical areas which are highly frequent, synchronous, and reciprocal. The re-entrant
nature of their communication based on their observation of neural system reminds
us of the “backpropagation” algorithm (Rumelhart, et al, 1986) which is proved
to be crucial in current enormous advance in deep learning system.
Another remarkable
feature of this model relevant to our discussion is that it maintains that consciousness
is “unitary and integrated” which typically characterizes its experience of
qualia Edelman, 2005). Being conscious itself presupposes that it “cannot voluntarily
be broken up into separate parts”(ibid, 179). It straightforwardly denies divided nature of subjective experience,
even by a PP of the individual with DID, which suggests that each PP has a
neurological correlate of a single dynamic core.
Obviously, Edelman et
al. are talking about our ordinary single mind and they are not particularly
supposing multiple consciousness. However, their theory of consciousness
acknowledges a possibility of multiple
existence in an individual at the same time (Baars, 2002). We can then hypothesize
that there are multiple conscious systems, each with its own synchronous wave
frequency which are slightly different from each other, but all are within the gamma
range. They are compared to different broadcasting stations using different
radio wave frequency.
One circumstantial,
but quite solid and convincing evidence for the possible co-existence of
multiple minds in an individual comes from the experiment of subjects with
split brain (Gazzaniga, 1967). If each severed hemisphere of a subject is asked
to do some tasks at the same time but separately, they can do them well.
However, if control subjects by being given tasks in a same manner, they get
confused and could not perform either of them (Edelman, Tononi, 2000). This
practically proves that different personality/agency can exist in an
individual’s brain, so long as structural separation of different “dynamic
cores” is secured (in this care, by splitting the surgically) . In patients
with DID, this functional separation and co-existence of multiple dynamic cores
seem to be occurring in a mechanism which is yet to be known.
In this split brain
paradigm, supposedly single dynamic core is artificially multiplied into two
dynamic cores, representing consciousness which now are different from each
other. (Diagram 2)
With the discussion
above, I draw an image of the mind of DID on a neuronal model, using icon of a
dynamic core that I made after Edelman’s own drawing of the dynamic core.
2019年1月5日土曜日
忘れていたCPTSD 1
CPTSD(複雑性PTSD)の原稿の締め切りが近づいている。以前に途中まで書いたものを引っ張り出す。確かここまで書いていた。
CPTSDについて考える
Complex PTSDの概念は Judith Hermanに由来する。彼女は1992年の著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「トラウマと回復」)で、「長期にわたり繰り返されるトラウマにより生じる症候群にはそれ自身の診断名が必要である。 私はそれをcomplex PTSDと呼ぶことを提案したい。」と記している。この”complex” を日本語にした場合に、「複合的」と訳すか「複雑性」とするかは議論の余地があるため、本稿では「CPTSD」として論じたい。
このCPTSDの概念をいかに臨床に応用するかについては、これまでに様々に議論されてきた。Hermanの盟友ともいえるVan der Kolk はDESNOS(Disorder of extreme stress,
not otherwise specified、他に分類されない極度のストレス障害)を提唱していたが、その趣旨はCPTSDに非常に近いものと考えられる。DSM-IVにおいてはこのDESNOSが導入されることが真剣に検討されたが (van der
Kolk, et al, 2005)、結局は2013年のDSM-5には採用されなかった。しかし2018年に発表されたICD-11では一転してCPTSDとして掲載されることとなった。このようにICDとDSMはCPTSDをめぐって大きく袂を分かったということになる。
van der Kolk BA, Roth
S, Pelcovitz D, Sunday S, Spinazzola J. (2005) Disorders of extreme
stress: The empirical foundation of a complex adaptation to trauma. J
Trauma Stress. 2005 Oct;18(5):389-99.
ちなみにDSM-5においてはDESNOSの概念はPTSDとかなり症状が重複していて、またPTSD、BPD、MDDとも重複しているから、改めて疾病概念として抽出する必要はなかったとされる(Resick, 2012)。DSM-5のPTSDの診断基準は、DSM-IVのそれに比べてかなり加筆されているため、それ自身がCPTSDの一部をカバーしている可能性がある。DSM-5のPTSDの診断基準では新たにD基準(認知と気分のネガティブな変化)が加わったが、それは具体的には、以下のとおりである。
D.心的外傷的出来事に関連した認知と気分の陰性の変化。心的外傷的出来事の後に発現または悪化し、以下のいずれか2つ(またはそれ以上)で示される。
(1) 心的外傷的出来事の重要な側面の想起不能(通常は解離性健忘によるものであり、頭部外傷やアルコール、または薬物など他の要因によるものではない)
(2) 自分自身や他者,世界に対する持続的で過剰に否定的な信念や予想(例:「私が悪い」、誰も信用できない」、「世界は徹底的に危険だ」、「私の全神経系は永久に破壊された」)
(3) 自分自身や他者への非難につながる,心的外傷的出来事の原因や結果についての持続的でゆがんだ認識
(4) 持続的な陰性の感情状態 (例: 恐怖、戦慄、怒り、罪悪感、または恥)
(5) 重要な活動への関心または参加の著しい減退
(6) 他者から孤立している、または疎遠になっている感覚
(7) 陽性の情動を体験することが持続的にできないこと(例:幸福や満足、愛情を感じることができないこと)
Resick PA, Bovin
MJ, Calloway AL, Dick AM, King MW, Mitchell KS, Suvak
MK, Wells SY, Stirman SW, Wolf EJ. (2012) A critical evaluation
of the complex PTSD literature: implications for DSM-5. J Trauma Stress. 2012
Jun;25(3):241-51.
更にDSM-5のPTSDにはいわゆる「解離タイプ」が新たに記載されている。すなわち離人感や現実感消失体験を伴うものは、「解離症状を伴う」と特定されることとなった。
このようにDSM-5ではPTSDの基準自体を重たくし、さらに解離タイプを加えたことでCPTSD を導入することで、事実上CPTSDの病理をPTSDに取り込んだ形になっていたのである。しかしその後に進められた臨床研究の産物として作られたCPTSDは臨床概念が確立するうえで意義深いものとなったと考えられる。
ここでWHOのICD-11に関する公式ホームページの記載をもとに、CPTSDの診断基準について検討してみる。
定義としては「逃れることが難しかったり不可能だったりするような、長く反復的な出来事(たとえば拷問、奴隷、集団抹殺 genocide
campaigns、長期にわたる家庭内の暴力、幼児期の繰り返される性的身体的虐待)への暴露により生じる」とされる。そしてそれによりある時点でPTSDのすべての症状が見られ、またそれに加えて以下の症状により特徴づけられる。
1) 情動調節に関する深刻で広範な障害。severe and pervasive
problems in affect regulation;
2) 自分自身が卑小で打ちひしがれ、無価値であるという信念と、それに伴う深刻で広範な恥の感情。persistent beliefs about oneself as diminished, defeated or worthless, accompanied by deep and pervasive feelings of shame, guilt or failure related to the traumatic event
3) 関係性を維持し、誰かと近しい関係にあるという感覚を持つことの困難さ。 persistent difficulties in sustaining relationships and in feeling close to others.
2) 自分自身が卑小で打ちひしがれ、無価値であるという信念と、それに伴う深刻で広範な恥の感情。persistent beliefs about oneself as diminished, defeated or worthless, accompanied by deep and pervasive feelings of shame, guilt or failure related to the traumatic event
3) 関係性を維持し、誰かと近しい関係にあるという感覚を持つことの困難さ。 persistent difficulties in sustaining relationships and in feeling close to others.
ここで注意を惹くのはCPTSDの原因としては、まず拷問や奴隷の状況が記載されており、小児期のトラウマはその次に登場している点であろう。つまり CPTSD は成人のトラウマによっても生じることになるのだ。さらにCPTSDの関連論文には以下の記載がある。
CPTSDはPTSDとDSO(disturbances in
self-organization 自己組織化の障害)との二つのコンポーネントからなるという。そしてこのDSOは上に帰した1)~3)の部分が相当するが、それらはより簡略化して、以下のように表現される。AD: affective
dysregulation 情動の調整不全 NSC: negative self-concept 否定的な自己概念DR: disturbances in
relationships 関係性の障害
つまりDSOとはトラウマによりその人の感情や関係性や自己概念にかなり長期化する変化を被っているのであり、それは Herman が最初に提言したことでもある。
ちなみにCPTSDについての検討は特にDSM-5の発刊された2013年以降に欧州で進んでいるようである。そして2017年には国際トラウマ質問票International Trauma Questionnaire (ITQ)も発表された。それに従えば、23項目のうち7つがPTSDについて、16個がDSOについて問うていることになる。それらはいかにあげられる。まずPTSDについては、以下の三項目に分けられ、z
RE: re-experiencing 再体験
RE: re-experiencing 再体験
AV: avoidance of traumatic reminders 回避
TH: persistent sense of current threat that is manifested
by exaggerated startle and hypervigilance 過覚醒
これをDSOの3項目と合わせると
CPTSD = PTSD (RE+AV+TH) + DSO(AD+NSC+DR)となる。
CPTSD = PTSD (RE+AV+TH) + DSO(AD+NSC+DR)となる。
さて、最近は疾病概念が正当な構成概念なのかがより厳密に問われる研究がなされ、ているが、その中にはCPTSDの患者と、深刻なPTSDではあるもののCPTSDとは分類されない人が明確に分けられるとしたものもあり(Brewin et al, 2017)。その結果としてCPTSDがICD-11では正式の採用となったと言える。
Herman, J.(1992). Trauma
and recovery: the aftermath of violence - from domestic abuse to political
terror. New York:
BasicBooks. 中井 久夫:訳(1996) 心的外傷と回復.みすず書房.
Thanos
Karatzias, et al(2018) PTSD and Complex PTSD:ICD updates on concept and measurement in the
UK,USA, Germany and Lithuania European Journal of Psychotraumatology,Eur J
Psychotraumatol. 2017; 8(sup7): 1418103.
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