2013年11月30日土曜日

小此木先生の思い出(8)

今日は徳島に出張できている。
そのフロントにパソコンがあるのだ。
このブログは、私の自己満足だが、人を傷つけることを意図してはいない。そのような誤解は最も悲しいことだ。そう感じる方は、どうぞご覧にならないでいただきたい。

小此木先生が当時どのような苦労をされていたのかも、興味深かった。患者の中には先生の病状を知り、あるいは敏感に察知し、非常に心配するものも現れたという。ある統合失調症の患者さんは、ご様子が悪くなった小此木先生の外来で、「あなたは小此木先生ではない!」と言い張り、これには先生も参ってしまったという。そして治療者が自分の病状をどこまで伝えるか、というテーマは、自己開示について考える際に非常に重要なテーマであるとおっしゃった。(以下略)


2013年11月29日金曜日

小此木先生の思い出(7)


 先生はそこでお茶を出して私に薦めてくれ、それからご自身の闘病生活について教えていただいた。


以下略

2013年11月28日木曜日

小此木先生の思い出(6)

人間がそれまで持っていた世界観は、ある種の「現実」につき当たることで変わる。その意味では「現実」とはあるインパクトを持って外部から自分の世界に入ってくる刺激と言える。逆に言えば、インパクトを持って入ってこないものは、それを現実の世界で体験していても「現実」を構成しない。

 以下略

2013年11月27日水曜日

小此木先生の思い出(5)


昨日も少し書いたが、私の話は、人間が変わることとはどういうことか、に関するものだった。治癒機序、とは結局そういうことだ。そして従来の精神分析が、それは例えば「転移解釈」であると主張したのに対して、「『現実』との遭遇である」と主張したのである。ここでこのカッコつきの「現実」とは何か、というのは悩ましいが、簡単に言えば主観的に体験された現実ということである。現実といえば自分の外にあり、容易には到達しえないものである。カントの「もの自体」、というような。ラカンの「現実界 le Réel だってそんな感じだと私は理解している。

 分析的な解釈、それも特に転移解釈、つまり治療者と患者の間で起きていることの背後にある無意識の理解を伝えることにより患者は変わっていく、というのは精神分析の王道と言っていい考え方だ。それに比べて患者を変えるのは「現実」だ、というのは、何か分析とは全然関係ないことをいきなり言いだしたという印象を与えるだろう。でも精神分析理論をいったん離れて、「人が変わるってどういうことだろう?」ということを体験的に考えなおして、それを分析的な理論との関係に戻って論じ直すというのが私のスタイルである。

以下略


2013年11月26日火曜日

小此木先生の思い出(4)

そう、小此木先生のコメントの話だった。

以下略


2013年11月25日月曜日

小此木先生の思い出(3)

さてここまで書いたことは、単なる回想である。

以下略


2013年11月24日日曜日

小此木先生の思い出(2)

小此木先生が私の人生に与えた影響の中で一番大きかったのは、精神分析のトレーニングを海外で受けることを機づけて頂いた事だと私はずっと思っていた。

以下略