2012年1月23日月曜日

心得12.患者は「甘えている」という考えをいったん排除する(1)

私にとってどちらかといえば緊張を強いられる「対象関係論勉強会」が昨日あった。特に自分のケースを出すということで二重に気が重かった。しかし司会の北山先生のおかげで非常に楽しく、スムーズに進行することができた。
人が困ったり病んだりしている他者を見てもっとも容易に、かつ安易に下す判断。「甘えているんじゃない?」人は自分に対してもしばしば同じことをする。「自分は甘えているのではないか?」これほど私たちの頭に浮かんできやすいからこそ、療法家としてはこの考えをいったん頭の一番後ろまで戻さなくてはならない。心得●に示すように、療法家は直観と反対をいかなくてはならない。もちろん常に頭の隅に置いておくことは忘れない。というのは「この人甘えているんじゃない?」という直観は、それはそれで重要な情報を与えているからだ。でもそれは最後の最後まで口にするべきではないのだ。
     (以下略)

2012年1月22日日曜日

心得11.人により態度を変える治療者であってはならない(1)

冷たい雨もいやだー!晴れ、晴れ、曇り、晴れ、曇り、晴れ、晴れ、晴れ、曇り・・・・みたいな。

もしあなた(Aさんとしよう)が信頼して自分の悩み事や愚痴を聞いてくれる友達Bさんを持っていたとする。そのBさんが、誰かとあなたのことについて話しているのをトイレかどこかで偶然聞いてしまったとする。Bさんはあなたが陰で話を聞いていることなど全く知らずに、ざっくばらんにあなたのことを第3者に話すのを聞くのだ。「Aさんの話は一応聞いているけれど、まったくほとほと疲れちゃうよ。自分を何様だと思っているんだろう。」
あなたはそれ以降Bさんにこれまでと同じように打ち明け話をする気になれるだろうか?もちろんBさんにだって人間としての普通の感情はあるだろうし、あなたの話を我慢して聞かなくてはならない様々な事情があるだろう。でもこのような言い方を聞くことは、何かBさんに対するこれまでの気持ちを一気に裏切ってしまうような力を持つだろう。
          (以下略)

2012年1月21日土曜日

心得8.治療者は防衛的になるだけ、その治療者としての力を失う(1)

昨日言い忘れた。できれば8月も省きたい・・・・。何のことやら。

治療者も患者も一人の人間である。治療関係とは平等な二人の人間の関係である。治療者は普通に、自然体で患者と会えばいい・・・・。というのは理想であるが、現実は異なることが多い。何しろ患者の方は時間をかけて、お金を払って、場合によっては仕事を休んで来談するのだ。治療から何かを得ることがなければ通ってくる意味もないだろう。言うならば治療者は治療者としてのオーラを発揮していなくてはならない。そのオーラとは、これまでの治療者としての体験に裏打ちされた技量、自分自身の豊富な人生体験、そして患者の人生で何が起きているのかを十分把握しているという自信などが醸す雰囲気である。しかしこの「治療者としてのオーラの発揮」という条件は、時に治療者を防衛的にする。それは治療者はそのオーラの発揮を妨害するような出来事に関しては、それを回避したり防ごうとしたりして躍起になるからであり、そうなると治療どころではなくなるからだ。


幸いにしてこのオーラの発揮を妨げるような状況はそれほど起きない。療法家としての看板を掲げて、きちんとした身なりをしたり白衣をまとったりして目の前に座るだけで、患者は治療者をそれなりの資格を持った人とみなしてくれるかもしれない。


もちろん治療者も人間だからさまざまな思い違いや限界を露呈する可能性があるが、それはそれなりに何とかなる。たとえば治療者が次回の面接時間を勘違いしていて、患者自身に指摘された場合はどうか?「ああ、すみません。そうでしたね、次回は一時間遅れて始めるという約束でした。」といえばすむだろう。あるいは「どうも最近年のせいか、忘れっぽくなって・・・」と付け加えるのもご愛嬌かもしれない。


それでは治療者が電車の人身事故による遅延で治療開始の時間に30分ほど遅れたらどうか?「すみません、人身事故は想定外でした…」などと言って、すでにいらだち始めた患者に謝罪してセッションを始めるとしたら、まだ治療者は余裕である。しかし治療者が寝坊して治療時間に30分遅刻したとなるとどうか?寝坊となると、治療者の生活管理能力がかかわってくる。それでも「どうも昨日遅くまで仕事をして…」などと患者に謝る治療者に、いつものオーラは一時的にではあれ感じられないかもしれない。これが治療時間に遅れて、しかもアルコールのにおいをさせて到着した治療者となったら、もうそれだけで患者に見放されてしまうかもしれない。治療者はもはや何の言い訳もできないからである。


私はアメリカで臨床を始めて間もないころ、患者が発した言葉の意味がわからずに、聞き返したことがある。それをもう一度言われてもわからなかったが、それは一定の教養を持ったアメリカ人であったら知らないはずのない言葉だったらしい。その患者はため息をついて私の前から去っていったが、精神科のレジデントとしてそれまでほんのわずかは出ていたかもしれないオーラは、その一時で消し飛んでしまい、その患者はもはや私の前に一時でも長く座っている理由を見出せなかったのである。その場合も私は自らを防衛するすべなどなかった。


オーラなどという言葉を用いたが、要するに治療者は精神的な余裕と自信を持って治療にあたる必要があるということだ。もちろん余裕と自信を持つことが治療の成功の十分条件では決してない。でも必要条件とは言えるだろう。すなわち患者の前に立った治療者が何らかの負い目を持っていたり後ろめたさを感じていたら、彼は患者を援助するどころか、自己防衛に精いっぱいになってしまうということを言いたいのだ。そんなことが経験があり品行方正な治療者におきるだろうか? それがあるのである。そのひとつの典型的な状況は、治療者が自らが患者になすべきことと、治療上のお作法としてなすべきこととの間に葛藤を体験するという場合である。


そのようなひとつの典型的な例は、患者から直接的な質問を受け、それに直接答えるのを避けた場合である。もちろん答えることが患者のためにならないと確信している治療者の場合は、(少なくともその当座は)問題ないだろう。しかし一方では即答をしようとする心の動きを感じ、他方では「でも治療者としての匿名性はどうなるのだ?」という葛藤を体験した治療者は、その間治療者として機能することを停止するのである。そして迷った末に答えなかった場合は、今度は「どうして私はそれを知ることはできないのですか?」という患者からの更なる質問を想定して、その答えを用意しなくてはならないという葛藤を抱え続けることになる。


治療者の匿名性、すなわち「患者からの個人的な質問には答えるべからず」という「心得」はもちろん相対的なものである。すなわち答えるべきか否かが状況しだいであるような質問がいくらでもありうるということだ。治療関係の開始時に「先生は正式な分析家ですか、それとも分析家の候補生ですか?」という質問を受けた場合などを考えればいいだろう。インフォームドコンセントが叫ばれる昨今、そのどちらかをあいまいにしたまま治療を開始し、継続することのほうが非倫理的ということになる。「先生は既婚者ですか?」「お子さんはいらっしゃいますか?」などになると、答えるべきかどうかは状況しだい、治療関係しだいということになるだろう。そのとき思い出していただきたいのが、この心得8である。


もし治療者が患者からの質問に答えるつもりはなく、そのことに葛藤がない場合には答えなくていい。また答えることに葛藤がない場合は答える。それでいい。しかし匿名性の原則が相対的なものである以上、患者からの質問は治療者の中に葛藤や迷いを起こすほうがむしろ普通なのである。その時は「迷っている場合には、たいていはお作法上の問題であり、『お作法を守るかどうか』は治療者の個人的な問題だから、そのことをわきまえるように。」というアドバイスを差し上げたい。そしてしばしば、質問に簡単に答えることが、治療者を救ってくれる。なぜなら「どうして答えていただけないのですか?」という患者の質問に、治療者は「精神分析の教科書にそう書いてあるからです」とはまさかいえないからである。それではまるでテキスト通りに治療を行っている初心者のように聞こえてしまい、経験ある治療者としてのオーラなどどこかに行ってしまうからだ。そこで治療者それ以外のさまざまな理由を考え出さなくてはならないからだ。そういう時、治療者はまさに防衛的になっているというわけである。


ヘンリー・ピンスカーの「サポーティヴ・サイコセラピー入門」(岩崎学術出版社)から。


「サポーティヴ・セラピーでは、質問についての一般原則としては、簡潔で有益な反応がなされるべきである。・・・当初に回避的な反応をしないことが大事であり、質問に質問で答えることは許されない。」

心得7. 治療には精神分析の要素も認知療法の要素も同時に起きていると心得よ(1)

この季節になるといつも思う。絶対冬は嫌だ! カリフォルニア、それもサンタモニカのあたりに住みたい!この厳寒の二か月のない世界に行けるなら何でもする(11月、12月→いきなり3月、みたいな…)

認知行動療法ばやりである。精神科外来でも、認知行動療法を行なうことが保険点数に加算されるようになった。でも精神分析を学ぶことから入った私は認知行動療法にはずいぶん前から疑問を持っていた。それは特別新しい療法なのか?それは果たしてどれだけ有効なのか?精神分析的な療法とどこが違うのか? これらの点について療法家は一定の理解をもっていて欲しい。
認知とは要するに「考え」であり、理屈である。例えば「自分は●●である」とか「過去に自分に起きたことは●●という意味を持っていた」などの思考内容をさす。認知療法とは、私たちが普段持っている考えを変えることが、症状を軽減するということを目指す療法である。
      (以下略)

2012年1月17日火曜日

「裏表のある子ども」の話、結局まとめたらこうなった

しかしいいのかな。こんなところで発表して。あくまで草稿です、ということで。

 ペルソナと解離 ― 人格の表と裏を考える 

                             
はじめに

金正日の没後、北朝鮮で放映されたちょっと異様な光景。市民が泣き叫び、拳を地面にたたきつけて総書記の死を悼んでいる。深い悲しみに浸る時、人はああはならないことを知っている人は、そこに不自然さを感じる。彼らは本当は何を思いながら、泣いている(あるいはそれを装っている)のだろうか? しかし裏では何を考えていようと、表では嘆き悲しまないと罰せられてしまうというあの北の国では、表裏を正確に使い分けられるかどうかはむしろ死活問題である。それは極めて適応的な防衛機制とさえいえる。そして私は考えた。「純真無垢な子どもたちには、あんなことはできないのではないか? 彼らの中には弔問に借り出されても、演技を仕切れずにボーっとしているだけの子もいるのではないか?

ちょうどその時、テレビの画面には、弔問に訪れる一群の子どもたちの姿が映された。すると ・・・・。子どもたちはとても「真剣」に、本気で泣いているように見えるのだ。演技で泣いているのがミエミエな大人たちに比べて、彼らはもっと自然に泣いているように見える。もちろん彼らは児童劇団に所属する演技のうまい優等生たちなのかもしれないが、そうでないと仮定したなら、いったいなぜなのだろう? そして私は次のように了解した。子供たちは裏表を分けることが本来得意ではないのである。彼らはいわばペルソナを持つことが苦手である。裏の時も本気で、表の時も本気なのだ。それは彼らのつく嘘についてもいえる。彼らの嘘はある意味では本気でもある。彼らは現実にはないことを言いながら、その虚構の現実に生きているというところがある。そこが裏表を使い分けることのできる大人(つまり私たち自身のことである)と違うところだ。

「裏表のある子どもたち」、というテーマに関する私のこの一文の書き出しは、多少なりとも逆説的に聞こえるかもしれない。裏表を持つということは通常はネガティブな意味を持つが、それをある種の達成でもあると主張しているのだ。そしてその背景には、私が日ごろの臨床で触れることの多い解離性障害の患者たちとの体験がある。彼女たちもまた裏表の使い分けが非常に不得手なように見受けるからだ。そして彼女たちは幼少時にある共通した原体験を有しているようである。それは親との関係で自らのあるべき姿を、少なくとも主観的には強いられているという体験なのだ。

幼児体験と解離性の病理の萌芽

たとえば次のような親のメッセージを受けた子供について考えてみる。

「あなたはお姉ちゃんなんだから、いい子に出来るわね。弟にやさしくしなくちゃだめよ。」

その時娘の心には様々なことが起きうるだろう。「エー、そんなの無理だよ。」と頭から聞き入れないかもしれない。あるいは「そうか、私はいい子にしなくてはいけないんだ。」と納得して態度を改めるかもしれない。どちらもありうるパターンであろうし、それぞれの場合に大抵の子どもの心はおさまりどころを見出すのだろう。しかし問題は、娘がそれらのいずれも選べずに、母親により押し付けられたいい子としての自分(これを仮にAと呼ぶことにする)と、わがままで弟をいじめたりライバル視したりする本音の自分(こちらはA’としよう)という相互に矛盾した自分を持たざるを得ない場合である。その場合私たちは通常は次のようなシナリオを想定するのではないか?

娘は心の中で「お母さんの前ではいいお姉ちゃんの振りをしておこう。」という計算を働かせる。そうして本心とは裏腹にAを演じて見せる。Aは彼女にとってのペルソナになり、そして親や大人の見ていないところでA’の方を発揮する。娘はこうしてAA’の使い分けを覚え、先生や上司がいるときといない時で態度を変える術を学んで成長し、裏表のある大人になるのである・・・・。

私はこのようなシナリオを特に否定はしない。そういうケースのほうがむしろ普通なのだろう。ただ解離性障害を扱う立場からは、私は子供の心のあり方としてもう少し別のバージョンを考えるようになっている。母親から「あなたはお姉ちゃんなんだから…」と言われた娘は、必ずしもそれを演じるわけではない。一時的にではあれ、母さんの心にある、いい子である自分のイメージAをそっくり取り入れるのだ。するとたとえばいつも憎たらしく感じる傍らの弟を実際にいとおしく感じ、優しくその頭をなでるかもしれない。こうして彼女は「いいお姉ちゃん」としての自分をその時に生きることになる。それは複雑な脳のプロセスを経ているにもかかわらず、瞬時に彼女の中で生じるのだ。ただしA’、つまり「いいお姉ちゃん」ではない、わがままで甘えたい、そして弟をライバル視する面もたいていの子供の場合は持つはずだ。

やがて成長するにつれてたいていの場合彼女はAA’をうまく使い分けるようになるだろう。そこからは先ほどのシナリオと同じである。彼女はAを表に出している際に、A’を裏に控えさせ、それを出すタイミングをうかがうようになり、裏表を使い分けられるようになる。しかしそれをできないほどにAA’が独立した人格として、別個にふるまう場合がある。それが解離の病理を持つに至る準備状態と言えるのだ。

ところでこの解離という心の性質は実はこれまでさまざまな臨床家により記載されてきた。半世紀以上前に活躍した英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットもその一人である。彼は母親から強いられ、それに反応する形で形成される自己を「偽りの自己」と呼び、自らの純粋な自発性の表現としての自己を「本当の自己」と呼んだ。この両者の分離がウィ二コットの言う解離であるが、現代的な意味での解離は、その分離が極端に進み、それぞれの自己が意識野を支配し、互いに排他的に振舞うことを意味する。ウィニコットの「本当の自己」は決して表には出ないものとして想定されたが、それさえも姿を現して動き出すのが解離性障害というわけである。

この解離の話を続ける前に、どうして彼女は母親のメッセージからよい子のAちゃん人格を作り出すことができるのかについて考える。その理解の助けとなるのがおなじみミラーニューロンの発見であった。

ミラーニューロンの貢献

神経科学におけるミラーニューロンの発見は、アメリカの神経学者ラマチャンドランに言わせれば、生物学におけるDNAの発見に相当するようなインパクトを心理学の世界に及ぼしたということである。発端はイタリアのパルマ大学のリゾラッティのグループの研究である。彼のグループは 90年代に、サルの脳の運動前野のニューロンに電極を刺してさまざまな実験を行った。運動を行うとき、まず前頭葉の運動前野の特定の細胞の興奮が始まる。そこではたとえばピーナッツを手でつかむという運動の計画が立てられ、そこから近傍の運動野に命令が伝えられ、運動野は手や指の筋肉に直接信号を送り込むことで、初めてその運動が生じるという仕組みである。

しかし運動前野の興奮は、単に自分の運動をつかさどるだけではなかったのだ。他のサルがピーナッツをつかんでいるのを見たときも、そのサルの運動前野の特定の細胞は興奮する事を、リゾラッティのグループが発見したからだ。つまりその細胞は他のサルの運動を自分の頭でモニターし、あたかも自分がやっているかのごとく心のスクリーンに映し出しているということで、「ミラー(鏡)ニューロン」と名づけられたのである。

目の前の誰かの動きを見て自分でそれをしていることを思い浮かべる、ということは自然で当たり前のことだと読者は考えるかもしれない。しかしそれがサルでも鳥でも生じているという発見は、心の働きについてのいくつかの重大な可能性を示唆していることになる。それは他人の心をわかるということは、知的な推論を経る必要のない、もっと直接的であり、原始的で自動的な、無意識的なプロセスであろうということだ。

このミラーニューロンのシステムは簡単に言えば、人の脳は、他の人の思考や行動や感情を自分の心や体にコピーする能力と言える。このことを如実に示しているのが、実は言語の習得のプロセスである。

私事ではあるが、私は異文化圏での生活が長かったため、幼少時に獲得しなかった自分の外国語のイントネーションの不自然さにいつも直面していた。英語圏で幼少時を過ごすと、子供はまるで英語を使う能力をそのまま脳がコピーするかのような印象を受ける。受験生が1年間躍起となって覚えこむ語彙よりはるかに多くの表現を、78歳の子供が3ヶ月のあいだ英語環境に身をおくだけで習得する。これは彼らが驚異的な学習曲線をたどることを意味する。大人が努力と集中力で英単語を暗記するのと、幼少時に英語環境で過ごすことの違いは、手書きで写本するのとコピー機で写し取るほどの差があるのである。しかもそれは、努力をしたという感覚が生じないほどに自然なプロセスなのだ。

脳が他人の脳をコピーする力は、年とともに衰える。おそらくミラーニューロンが働く時期には臨界期があるのであろう。その時期は個人差があるが、語学に関してはだいたい134歳が臨界期と考えられるだろうか。それ以降に学習する言語は、もはや借り物でしかなくなってしまう(少なくとも自然さ、流暢さに関しては)。そしてそれ以降も脳は新しいものをコピーする能力をさらに低下させていく。新しい流行や手技を取り入れるスピードは20代より30代、それよりも40代になるにしたがって遅くなっていくようだ。それはたとえばケータイのテンキーを使った文字入力の速さなどを見れば歴然である。

解離とペルソナ、偽りの自己

解離性障害の準備段階にある子供の話にもどろう。ここからは推論にならざるを得ないが、AA’が解離性の別人格どうしとして成立してしまう過程には、このミラーニューロンの過剰な関与が想定される。しかしそれ以外も様々なプロセスが複合的にかかわっているのであろう。ひとつにはミラーニューロンの機能の高さに連動した子供の側の受動性や迎合性がある。他人の気持ちを感じ取りやすいということは、当然ながらそれに過剰にあわせたり配慮したりする傾向を生むであろう。そして親のイメージを取り入れたAと素の自分に近いA’との齟齬の大きさ。AA’が折り合わない分だけ、両者が隔離される必然性が生まれる。そしてそれを要求する親の側の思い込みの強さやオーラの強烈さも影響しているはずだ。「お前はいい子でなくてはならない」という親の意思や確信は当然のことながら子供に強い影響を及ぼすであろう。そこにAA’とを人格として別個にもち、一方の存在が意識の中で互いに排他的に存在することを可能にするような能力、すなわち解離傾向と呼ばれるものの大きさはある意味では決定的な役割を演じるであろう。

そこで改めて考えてみよう。AA’を人格の表裏として発達させ、いわばAをペルソナとして成立させるケースと、AA’を解離性の人格として成立させるケースでは、どちらがより高い病理性を備えていると言えるのだろうか? まずペルソナとしてのAは、それがA’と極端に異なる場合には、それなりの問題をもたらすことは確かであろう。Aが表に出ているときにはAが裏側にあり、常に当人はその存在を意識するはずだ。そして「本当はそう思っていないけれど、仕方無いな」とか「ここは腹が立つけれど笑ってごまかしておこう」というような葛藤が意識化されることになるが、それが生む大きな心的なストレスについては私たちが皆体験していることである。

他方の解離の病理を持つ人においては、AAは互いに意識化しえない状態にある。(AAが互いを意識しあう形での解離、私が「シャム双生児型の解離」と呼んでいるケースも存在するが、本題と離れるために割愛しよう。)彼らにとってはペルソナや偽りの自己といった概念はあまり意味を持たないことになる。なぜならば彼らにとってはペルソナを持てないことが問題だからだ。そしてペルソナを使い分ける際の葛藤は体験せずにすむ代わりに、自己の不連続性のために生活上多大な不都合や苦痛を体験することになる。もう一人の自分が同じ体を使って自分の知らないさまざまな問題を起こすことは、例えば知らない異性と肌を合わせるようなことなどは特に耐え難いことに違いない。それに比べれば、ペルソナを持つことの苦しみは、まだ贅沢な悩みとも言えるかもしれないのである。

ただしこのようにペルソナと解離のあり方を区別しておきながら、混乱を招くようなことも付け加えておかなくてはならない。AAは表裏の関係や解離した関係以外にもさまざまな形を取る可能性があるのである。それはたとえば飲酒で人が変わったようになる、とか車のハンドルを握ると別人格のようになる、などの例を考えればいいだろう。あるいは突発的な暴力や衝動的な行為をした後で、その記憶があいまいになるということは、解離性障害を持たない場合にも非常に多い。これらは表裏の関係と解離を両極とする連続体のどこかに位置すると考えざるを得ないであろう。これらは前出のウィニコットが用いたかなり広い意味での解離には該当するものの、解離性障害の診断を下すべき状態ともいえないのである。

以上人格の表裏について論じたが、このテーマに該当すべき精神現象はかなり幅広いといえよう。そしてその全体の見取り図を描く上で、解離性障害についての考察は有益なヒントを与えてくれると思うのだ。

2012年1月11日水曜日

運命的な絆?

昨日息子が関西に帰っていった。大学の授業が始まるからであるが、神さんはすっかり落ち込み、掃除や選択や食事の支度をする目的が何もなくなったという。息子は今年の年末年始は10日ほど長めに帰っていたが、それだけに帰った後のインパクトは大きい。この落ち込みは一時的なものだろう、と慰めようとする前に、神さんはこう言った。「息子がうちを離れて以来、自分が欝だったことが、今回改めてわかった。」つまり息子が一年半前に家を出て以来の日常が異常であって、この10日間は元に戻っていたというわけである。ここまで言われると納得するしかない。
子離れができていない、マザコン、などいろいろ言われようが、ここまで強い絆は運命的なものといえるのだろう。母親という存在は、子供が巣立ってからは本来は抜け殻になるものなのかもしれない。(子供の側はぜんぜんそうではない。自分の子供がやがて巣立つまでは。)女性は子供ができることにより人間が変わり、子供の巣立ちをトラウマとし、抜け殻になってやがて死んでいく。そういうものなのかもしれない。(ちなみにこのシナリオに基本的にダンナはあまり登場しない。Thank God!)

2012年1月4日水曜日

穏やかな正月

今年の正月は京都の息子も戻り、千葉の田舎の両親の顔を見ることもでき、満足すべきものだった。去年未曾有の大震災があったことさえも少しずつ記憶から遠ざかりつつある。正月の読書は「動的平衡2」福岡伸一(まあまあ、でも福岡先生、少し書きすぎでは?)、「複雑で単純な世界」ニール・ジョンソン(思ったより難しくて途中で中断)、「脳が生きがいを感じるとき」グレゴリー・バーンズ(一番面白い)、「永遠の坂井泉水」(なんじゃこりゃ)。とにかく書き続け、読み続けなければいけない仕事も満載なので、これらはそれなりに進めることができた。月日って、それにしても静かに着実に過ぎていくものだ・・・・。
「表裏のある子ども」はあれから悪戦苦闘。二転三転してまだ出口が見えず。締切(なんのこっちゃ?)まであと2週間。