2012年1月17日火曜日

「裏表のある子ども」の話、結局まとめたらこうなった

しかしいいのかな。こんなところで発表して。あくまで草稿です、ということで。

 ペルソナと解離 ― 人格の表と裏を考える 

                             
はじめに

金正日の没後、北朝鮮で放映されたちょっと異様な光景。市民が泣き叫び、拳を地面にたたきつけて総書記の死を悼んでいる。深い悲しみに浸る時、人はああはならないことを知っている人は、そこに不自然さを感じる。彼らは本当は何を思いながら、泣いている(あるいはそれを装っている)のだろうか? しかし裏では何を考えていようと、表では嘆き悲しまないと罰せられてしまうというあの北の国では、表裏を正確に使い分けられるかどうかはむしろ死活問題である。それは極めて適応的な防衛機制とさえいえる。そして私は考えた。「純真無垢な子どもたちには、あんなことはできないのではないか? 彼らの中には弔問に借り出されても、演技を仕切れずにボーっとしているだけの子もいるのではないか?

ちょうどその時、テレビの画面には、弔問に訪れる一群の子どもたちの姿が映された。すると ・・・・。子どもたちはとても「真剣」に、本気で泣いているように見えるのだ。演技で泣いているのがミエミエな大人たちに比べて、彼らはもっと自然に泣いているように見える。もちろん彼らは児童劇団に所属する演技のうまい優等生たちなのかもしれないが、そうでないと仮定したなら、いったいなぜなのだろう? そして私は次のように了解した。子供たちは裏表を分けることが本来得意ではないのである。彼らはいわばペルソナを持つことが苦手である。裏の時も本気で、表の時も本気なのだ。それは彼らのつく嘘についてもいえる。彼らの嘘はある意味では本気でもある。彼らは現実にはないことを言いながら、その虚構の現実に生きているというところがある。そこが裏表を使い分けることのできる大人(つまり私たち自身のことである)と違うところだ。

「裏表のある子どもたち」、というテーマに関する私のこの一文の書き出しは、多少なりとも逆説的に聞こえるかもしれない。裏表を持つということは通常はネガティブな意味を持つが、それをある種の達成でもあると主張しているのだ。そしてその背景には、私が日ごろの臨床で触れることの多い解離性障害の患者たちとの体験がある。彼女たちもまた裏表の使い分けが非常に不得手なように見受けるからだ。そして彼女たちは幼少時にある共通した原体験を有しているようである。それは親との関係で自らのあるべき姿を、少なくとも主観的には強いられているという体験なのだ。

幼児体験と解離性の病理の萌芽

たとえば次のような親のメッセージを受けた子供について考えてみる。

「あなたはお姉ちゃんなんだから、いい子に出来るわね。弟にやさしくしなくちゃだめよ。」

その時娘の心には様々なことが起きうるだろう。「エー、そんなの無理だよ。」と頭から聞き入れないかもしれない。あるいは「そうか、私はいい子にしなくてはいけないんだ。」と納得して態度を改めるかもしれない。どちらもありうるパターンであろうし、それぞれの場合に大抵の子どもの心はおさまりどころを見出すのだろう。しかし問題は、娘がそれらのいずれも選べずに、母親により押し付けられたいい子としての自分(これを仮にAと呼ぶことにする)と、わがままで弟をいじめたりライバル視したりする本音の自分(こちらはA’としよう)という相互に矛盾した自分を持たざるを得ない場合である。その場合私たちは通常は次のようなシナリオを想定するのではないか?

娘は心の中で「お母さんの前ではいいお姉ちゃんの振りをしておこう。」という計算を働かせる。そうして本心とは裏腹にAを演じて見せる。Aは彼女にとってのペルソナになり、そして親や大人の見ていないところでA’の方を発揮する。娘はこうしてAA’の使い分けを覚え、先生や上司がいるときといない時で態度を変える術を学んで成長し、裏表のある大人になるのである・・・・。

私はこのようなシナリオを特に否定はしない。そういうケースのほうがむしろ普通なのだろう。ただ解離性障害を扱う立場からは、私は子供の心のあり方としてもう少し別のバージョンを考えるようになっている。母親から「あなたはお姉ちゃんなんだから…」と言われた娘は、必ずしもそれを演じるわけではない。一時的にではあれ、母さんの心にある、いい子である自分のイメージAをそっくり取り入れるのだ。するとたとえばいつも憎たらしく感じる傍らの弟を実際にいとおしく感じ、優しくその頭をなでるかもしれない。こうして彼女は「いいお姉ちゃん」としての自分をその時に生きることになる。それは複雑な脳のプロセスを経ているにもかかわらず、瞬時に彼女の中で生じるのだ。ただしA’、つまり「いいお姉ちゃん」ではない、わがままで甘えたい、そして弟をライバル視する面もたいていの子供の場合は持つはずだ。

やがて成長するにつれてたいていの場合彼女はAA’をうまく使い分けるようになるだろう。そこからは先ほどのシナリオと同じである。彼女はAを表に出している際に、A’を裏に控えさせ、それを出すタイミングをうかがうようになり、裏表を使い分けられるようになる。しかしそれをできないほどにAA’が独立した人格として、別個にふるまう場合がある。それが解離の病理を持つに至る準備状態と言えるのだ。

ところでこの解離という心の性質は実はこれまでさまざまな臨床家により記載されてきた。半世紀以上前に活躍した英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットもその一人である。彼は母親から強いられ、それに反応する形で形成される自己を「偽りの自己」と呼び、自らの純粋な自発性の表現としての自己を「本当の自己」と呼んだ。この両者の分離がウィ二コットの言う解離であるが、現代的な意味での解離は、その分離が極端に進み、それぞれの自己が意識野を支配し、互いに排他的に振舞うことを意味する。ウィニコットの「本当の自己」は決して表には出ないものとして想定されたが、それさえも姿を現して動き出すのが解離性障害というわけである。

この解離の話を続ける前に、どうして彼女は母親のメッセージからよい子のAちゃん人格を作り出すことができるのかについて考える。その理解の助けとなるのがおなじみミラーニューロンの発見であった。

ミラーニューロンの貢献

神経科学におけるミラーニューロンの発見は、アメリカの神経学者ラマチャンドランに言わせれば、生物学におけるDNAの発見に相当するようなインパクトを心理学の世界に及ぼしたということである。発端はイタリアのパルマ大学のリゾラッティのグループの研究である。彼のグループは 90年代に、サルの脳の運動前野のニューロンに電極を刺してさまざまな実験を行った。運動を行うとき、まず前頭葉の運動前野の特定の細胞の興奮が始まる。そこではたとえばピーナッツを手でつかむという運動の計画が立てられ、そこから近傍の運動野に命令が伝えられ、運動野は手や指の筋肉に直接信号を送り込むことで、初めてその運動が生じるという仕組みである。

しかし運動前野の興奮は、単に自分の運動をつかさどるだけではなかったのだ。他のサルがピーナッツをつかんでいるのを見たときも、そのサルの運動前野の特定の細胞は興奮する事を、リゾラッティのグループが発見したからだ。つまりその細胞は他のサルの運動を自分の頭でモニターし、あたかも自分がやっているかのごとく心のスクリーンに映し出しているということで、「ミラー(鏡)ニューロン」と名づけられたのである。

目の前の誰かの動きを見て自分でそれをしていることを思い浮かべる、ということは自然で当たり前のことだと読者は考えるかもしれない。しかしそれがサルでも鳥でも生じているという発見は、心の働きについてのいくつかの重大な可能性を示唆していることになる。それは他人の心をわかるということは、知的な推論を経る必要のない、もっと直接的であり、原始的で自動的な、無意識的なプロセスであろうということだ。

このミラーニューロンのシステムは簡単に言えば、人の脳は、他の人の思考や行動や感情を自分の心や体にコピーする能力と言える。このことを如実に示しているのが、実は言語の習得のプロセスである。

私事ではあるが、私は異文化圏での生活が長かったため、幼少時に獲得しなかった自分の外国語のイントネーションの不自然さにいつも直面していた。英語圏で幼少時を過ごすと、子供はまるで英語を使う能力をそのまま脳がコピーするかのような印象を受ける。受験生が1年間躍起となって覚えこむ語彙よりはるかに多くの表現を、78歳の子供が3ヶ月のあいだ英語環境に身をおくだけで習得する。これは彼らが驚異的な学習曲線をたどることを意味する。大人が努力と集中力で英単語を暗記するのと、幼少時に英語環境で過ごすことの違いは、手書きで写本するのとコピー機で写し取るほどの差があるのである。しかもそれは、努力をしたという感覚が生じないほどに自然なプロセスなのだ。

脳が他人の脳をコピーする力は、年とともに衰える。おそらくミラーニューロンが働く時期には臨界期があるのであろう。その時期は個人差があるが、語学に関してはだいたい134歳が臨界期と考えられるだろうか。それ以降に学習する言語は、もはや借り物でしかなくなってしまう(少なくとも自然さ、流暢さに関しては)。そしてそれ以降も脳は新しいものをコピーする能力をさらに低下させていく。新しい流行や手技を取り入れるスピードは20代より30代、それよりも40代になるにしたがって遅くなっていくようだ。それはたとえばケータイのテンキーを使った文字入力の速さなどを見れば歴然である。

解離とペルソナ、偽りの自己

解離性障害の準備段階にある子供の話にもどろう。ここからは推論にならざるを得ないが、AA’が解離性の別人格どうしとして成立してしまう過程には、このミラーニューロンの過剰な関与が想定される。しかしそれ以外も様々なプロセスが複合的にかかわっているのであろう。ひとつにはミラーニューロンの機能の高さに連動した子供の側の受動性や迎合性がある。他人の気持ちを感じ取りやすいということは、当然ながらそれに過剰にあわせたり配慮したりする傾向を生むであろう。そして親のイメージを取り入れたAと素の自分に近いA’との齟齬の大きさ。AA’が折り合わない分だけ、両者が隔離される必然性が生まれる。そしてそれを要求する親の側の思い込みの強さやオーラの強烈さも影響しているはずだ。「お前はいい子でなくてはならない」という親の意思や確信は当然のことながら子供に強い影響を及ぼすであろう。そこにAA’とを人格として別個にもち、一方の存在が意識の中で互いに排他的に存在することを可能にするような能力、すなわち解離傾向と呼ばれるものの大きさはある意味では決定的な役割を演じるであろう。

そこで改めて考えてみよう。AA’を人格の表裏として発達させ、いわばAをペルソナとして成立させるケースと、AA’を解離性の人格として成立させるケースでは、どちらがより高い病理性を備えていると言えるのだろうか? まずペルソナとしてのAは、それがA’と極端に異なる場合には、それなりの問題をもたらすことは確かであろう。Aが表に出ているときにはAが裏側にあり、常に当人はその存在を意識するはずだ。そして「本当はそう思っていないけれど、仕方無いな」とか「ここは腹が立つけれど笑ってごまかしておこう」というような葛藤が意識化されることになるが、それが生む大きな心的なストレスについては私たちが皆体験していることである。

他方の解離の病理を持つ人においては、AAは互いに意識化しえない状態にある。(AAが互いを意識しあう形での解離、私が「シャム双生児型の解離」と呼んでいるケースも存在するが、本題と離れるために割愛しよう。)彼らにとってはペルソナや偽りの自己といった概念はあまり意味を持たないことになる。なぜならば彼らにとってはペルソナを持てないことが問題だからだ。そしてペルソナを使い分ける際の葛藤は体験せずにすむ代わりに、自己の不連続性のために生活上多大な不都合や苦痛を体験することになる。もう一人の自分が同じ体を使って自分の知らないさまざまな問題を起こすことは、例えば知らない異性と肌を合わせるようなことなどは特に耐え難いことに違いない。それに比べれば、ペルソナを持つことの苦しみは、まだ贅沢な悩みとも言えるかもしれないのである。

ただしこのようにペルソナと解離のあり方を区別しておきながら、混乱を招くようなことも付け加えておかなくてはならない。AAは表裏の関係や解離した関係以外にもさまざまな形を取る可能性があるのである。それはたとえば飲酒で人が変わったようになる、とか車のハンドルを握ると別人格のようになる、などの例を考えればいいだろう。あるいは突発的な暴力や衝動的な行為をした後で、その記憶があいまいになるということは、解離性障害を持たない場合にも非常に多い。これらは表裏の関係と解離を両極とする連続体のどこかに位置すると考えざるを得ないであろう。これらは前出のウィニコットが用いたかなり広い意味での解離には該当するものの、解離性障害の診断を下すべき状態ともいえないのである。

以上人格の表裏について論じたが、このテーマに該当すべき精神現象はかなり幅広いといえよう。そしてその全体の見取り図を描く上で、解離性障害についての考察は有益なヒントを与えてくれると思うのだ。