はじめに
本稿は精神分析の立場からパニック・恐怖と不安の理解と対応について論じる。なおこの論考と並行して本誌ではそれぞれ認知行動療法、森田療法、「マインドフルネス、催眠、ポリヴェーガル」の立場からの寄稿が予定されており、本稿はそれらの立場との違いをある程度明確化することも求められている。
まず総論から始めるならば、不安やパニックはフロイトの精神分析理論の中で極めて重要な位置を占めることは言うまでもない。フロイトはその業績の中で不安について極めて多く論じたことが知られる。不安は症状として見られるとともに、それは葛藤の存在を意味し、分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなるという意味ではむしろ好ましい兆候とみなされていた(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)
精神分析理論において不安は中心的な位置を占めるが、フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。一つはマイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものであり、もう一つはパニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであるとした。そしてフロイトは後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis と呼んだ。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたが、後者は単に患者の性的活動を高めればよいと考えた。
その後フロイトは1926年にこの不安の概念をより洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。その意味で不安は無意識からの危険信号であるとした(いわゆる「不安信号説」)。それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。そしてそこで抑圧の機制がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。
このように考えた場合、不安は「自我の情動 ego affect 」ということになり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、一方では不安それ自身は受け入れられるものである。ギャバ―ドはさらに精神分析において不安は発達論的にいくつかに分けられることを指摘しする。それらは超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安である。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。
Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.
ギャバ―ドはまたこのモデルにおいて下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、その後も様々な形で出現すると述べている。例えば迫害不安は民族間の対立や戦争の原因になる、などの例が挙げられている。