2024年7月11日木曜日

「トラウマ本」第14章 トラウマと心身相関の問題 加筆部分 2

 依然として存在するMUSへの偏見

 ところでかつてヒステリーに向けられ、MUSにもある程度は向けられている偏見、すなわちその訴えは「気のせい」であって、一種の自作自演であり、その訴えは周囲の注意を惹くために誇張されているものと考えられる傾向は一体何に由来するのだろうか? それは人間が基本的に「心気的な存在」であるために生じる問題であろうと考えている。「心気的」とはつまり、自分が病気ではないかと心配すればするほど、症状が自覚されるような気がしてくるという性質を持っている。
 ICDという国際診断基準は、その第10版(2013年)から “worried well” というカテゴリーを設けている。これは「病気の心配をする健常人」 「健康なのに気に病む人」、あるいは「病気心配症」とでも訳すべきものだが、それは私達自身の持つ心気的な傾向に関連した懸念や不安を表しているものであろう。
 その意味ではMUSに対する偏見は、私達自身に向けられたものとも言えるのである。つまり自覚される症状は実は気のせいではないか、自分が作り出したものではないかという考え方を私達は自分自身にも他者に対しても向ける傾向があり、その結果としてかつてのヒステリーやMUSに対する偏見が生まれると考えるのである。
 私達の持つ心気的な傾向についてもう少し説明しよう。例えば今日お昼に仕出し弁当を食べたある人が午後になり腹痛を訴え、病院に運ばれたとする。まだ原因は判明していていないが、食中毒の可能性もあるという。するとその人と一緒に同じ仕出し弁当を食べた人たちは、「自分達も食中毒にかかっているかもしれない」と不安になるだろう。すると何か吐き気がし、胃がムカムカするような気がしてくる、という感覚はそれらの人々のうち何人かにごく自然に生じてくるはずである。これは「心気的」な傾向を反映する例と考えられるのである。
 ちなみにこの例で、実際には食中毒が発生したわけではなかった場合を考えよう。そのことを知らされた時点で、それまで胃のムカムカを覚えていた人の大半は、それがおさまり、「あれは気のせいだった」と考えるであろう。しかし一部の人たちは、既に実際の吐き気や嘔吐などの消化器症状を呈する可能性がある。するとそのような人達の症状は「医学的に説明できない」ことになり、このMUSの範疇に属することになるのだ。