2024年3月13日水曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 加筆訂正部分 2

 心のソフトウェアは存在しない?

心とは不思議で魅力的で、かつ謎めいたテーマであることは改めて言うまでもない。フロイトが創始した精神分析はその謎を解いてくれるという期待を抱かせる。しかしそれに対する熱意は、少なくとも医師になって最初の数年間に比べるとやや醒めかけているように感じる。その分脳科学への関心が深まったという事情は否定のしようがない。そしてそこには私の中で起きたある種の気付きが関係していた。それは心のソフトウェアなるものはおそらく存在しないという事であった。

 もし心がソフトウェアに例えられるなら、それをデザインした存在があるはずだ。それが心を有する私達自身でないとしたら、それは神でしかないであろう。しかし神もまた私たちの心の産物であるなら、心の作者はどこにもいなかったということであろう。それどころか心そのものが、私達の幻想の産物でしかない。それは私が心とはどのように動くのかについて考え続けてきた結果至った非常に素朴な気付きなのである。心にいくら法則のようなものを見出したつもりになっても、結局のところは例外に遭遇する。
 たとえばフロイトが言った「夢は無意識の理解に至る王道である」や「人間は想起する代わりに反復する」などは、人の心のあり方を大胆に捉えているという点では見事であると思う。しかし個々の心はあまりに蓋然性に満ち、予想不可能な動きをたどるのだ。
 もちろん人の心にある種の決まり事や法則がないわけではない。たとえば人は多くの場合は他者から肯定され見守られることで安心や心地よさを体験する。逆に自分を認めてもらえないことで深刻な心の痛手を被る傾向にある。あるいは人は自分が生きていることに、あるいは自分の行動に、そして他者の行動に、さらには自然現象に様々な意味づけをせずにはいられない。また深刻な傷つきを体験した後にはそれを思い出したり直面したりすることを死に物狂いで、あるいは衝動的で不適応な行動により回避する。

しかしこれらの一見法則や決まりと呼べるような性質は、心の仕組みというよりは生命体として生存するための条件程度としか言えないであろう。そしてその生命を維持することでさえ、時々人間は自ら放棄してしまうのだ。それをどうやって整合的に理解し説明することが出来るだろうか?

心というソフトウェアが存在しないのではないかという私の意図は以上のようなものだが、それは人の思考や行動はいくつかの本能的な動き以外は実際の経験を経て自然と出来上がっていくものだという理解に導く。そもそもソフトウェアを備えない人間は成長する過程で、何も教え込まれない。例えば日本に生まれ育つうちに、大多数の子供は日本語をごく自然に話すようになる。しかし日本語のソフトは介在していないのだ。

あるいは子供は歩くという行動をおそらくごく自然に習得するであろうが、特にそれを教え込まれるわけではない。ただ周囲の人の模倣をすることにより歩けるようになるのである。おそらくそこにはある行動をする人を目の前にして、ごく自然にそれをコピーするという仕組みは備わっているのだろう。