2021年8月8日日曜日

解離の古典モデル

  恐らく古典モデルというものを考えたほうが良いであろう。というのも西欧の解離性障害に関する見解は一つに定まりかけていて、あまりそれ以外の見解を受け入れる用意がないように思えるからである。一つのは交代人格を断片と見なす立場であり、これはかなり強固である。しかしこれはDIDにおいていかなる人格も十全な人格としての性質を備えていないととらえることにつながるであろう。なぜならDIDにおいては、全体を統合する上位の人格は想定しえないからである。もしそれが基本人格であるとしたら、その機能不全(力不足?休眠状態?)が多くのケースで見られるからである。そもそも解離の問題はトップダウンでなくボトムアップで考えなくてはならず、全体に統合、云々という考え方が依然として古いトップダウンの考え方から抜け切れていないと考えるべきであろう。

そして断片、ないしは部分というとらえ方は、その前提として、統合が究極的な目的であるとの想定と表裏一体であると考えられる。これはまさにトップダウンの考え方と言えるだろう。

なおその理論的な背景としては、パトナムの離散的行動状態モデルが支持されている。というのもこのモデルは、乳児は基本的には離散的な状態であったものが統合するプロセスを経るが、それが果たせなかったと考えるからである。

ただしそれだけではなく、ある種のトラウマによりそれまで統合されていた自己がスプリット、断片化してしまうという考え方もある。いずれにせよ統合された状態が健康で健全であるという前提がある。

これに対してネットワークモデル(DCモデル?)とでもいうべきモデルは、その理由はともあれ別人格の体験は一つの意識的な存在として全体であると考える。意識は縮小することはあるかもしれないが、常に統合されたものである。Consciousness may well shrink, but always remain integrated and coherent.(Edelman, Tononi, 2000,p.29)

だからどの人格とも個別に出会わなくてはならない。

 ここで意識の縮小という事を考えるならば、それは意識を構成するネットワークに参加するニューロンの数が減少した状態と言える。それはデフォルトモードにある私たちの心が広く行きわたった関心や気付きを体験するとすれば、もうろうとしていたり、眠かったり、認知症であったり意識障害を起こしていたりして、そこに参入する神経の数が小さいものの、意識を構成する最小限の骨格は備えている状態であるという。この縮小の度合いは、おそらく人格の精緻化の問題とより深い関連が見いだされるであろう。