2020年11月14日土曜日

揺らぎのエッセイ 5

 さて私はこんな話をしていても、理系の人間ではない。ただからやはり関心は心のフラクタル性にある。心の問題もまたフラクタル性を持つ。しかしそれはちょっと特殊な意味でそうなのだ。

ところで心のフラクタル性を見出したのはフロイトだった、と私は考える。夢の詳細にまで分け入り、そこでの象徴的な意味を論じた。フロイトの夢判断に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかと人々は感心したはずである。そして分析家とは元来細部が意味を持つという思考方法を取る。

昔メニンガークリニックにいたころ、カリフォルニアから訪れた招聘教授のグロッツテイン Grotstein の言ったことを思い出す。アメリカ人にしては珍しいクライン派の分析家という事で、メニンガーの医師たちも注目して彼の話を聞いていた。彼は公開スーパービジョンでセッションの最初の5分の報告を聞いてそれを止めさせ、その後のセッション全体の行方を占うということをした。全体の一部が深い意味を持っているという事を示そうとしたわけである。これもフラクタル的な考え方だ。あるいはロールシャッハだっていい。自我心理学派のラパポートはある図版の微細な部分への反応についてきわめて詳細な意味付けをするが極めて本質的な意味を持つことを示した。これもフラクタル的な発想と言える。でもこれって本当に意味のあることなのだろうか?

これらの例を出されても何のことかピンと来ないかも知れないが、臨床をやっているとこのような考え方の信憑性をどうとらえるかは決定的な意味を持ちうる。言葉や振る舞いを扱う私たちは、そこに様々な意味を与えたり、かと思うといとも簡単に切り捨て見なかったことにする。あたかも一つ一つの言葉に意味を問うことは臨床家の側の特権であるかのようにふるまうのだ。しかし最大の問題は、それが意味を持つかどうかは本当にはだれにもわからないという事なのだ。あるいはこんな言い方ができるかもしれない。

「神は細部に宿る」というが、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」。

患者の言葉は、あるいはロールシャッハの反応は、時にはその人の病理をきわめて鋭敏に反映するかもしれない。しかしどの言葉が、どの反応がそれに相当するかがわからない、あるいは知りようがないのである。

一つの分かりやすい例を挙げよう。ある私が関係している集まりで、司会に立った人がひとしきり挨拶をした後、「ではこれを閉会の挨拶とさせていただきます。」と言った。彼はすぐ自分でそれに気が付き、「今の言い間違いに深い意味はありません・・・・。 」とばつが悪そうな言い訳をした。いわゆる「フロイディアンスリップ」の典型と言われそうなこの言い間違いは「この会を催したくなかった」という彼の無意識の表れだろうか。彼が「実はこの会を一刻も早く終わらせたかったんです」とでも白状しない限り、彼がこの言い間違いをした理由は知りようがない。ではこれが心のフラクタル性とどのようにかかわってくるというのだろうか。