2020年11月15日日曜日

揺らぎのエッセイ 6

 開会のあいさつに「閉会」をしてしまった男の話の続きだ。ちなみに後に彼に尋ねたが、

「緊張はしていたが、司会の役割をしっかりこなそうと必死になっていた」そうである。特にこの会の少しでも早い閉会を祈っていたわけではなさそうだ。ではこの言い間違いは単なる偶然なのだろうか。このような問いに一義的に正解を与えるような理論を私は知らない。ではこれが心のフラクタル性とどのようにかかわってくるというのだろうか。

ここで「神経ダーウィニズム」についての説明が必要になる。思考がどの様に生まれるか、言葉がどの様に紡ぎだされるかについての理論であるが、私の話によく出てくる Gerald Edelman というノーベル賞を受賞した神経科学者の概念だが、のちに William Calvin も似たようなテーマで論じている。それは大脳皮質で生じているコピーゲームであり、例えば話している途中に次の言葉を選択する際は、常にいくつかの言葉の候補が陣取り合戦を行う。たまたま勝った言葉が出てくる。それだけだ。脳は最適解を導くために、一番適当そうな答えを探す。そしていくつかの候補が見つかり、それを競争させて(というかそれらが勝手に競争して)最後に一つに絞られる。「揺らぎと心のデフォルトモード」にも出した例を挙げるならば、今日のお昼を何にしよう、と思った時、カレーとハヤシとうどんがさっそうと現れ、「でもこの間のうどんはまずかったな」とか「今晩カレーだとカミさんが言っていたな。じゃ避けようか?」みたいなことが起きるのだ。そしてそのような自由競争が起きるとき、人の心は恐らくデフォルトモードになっているのである。つまりサイコロを振っている状態だ。そしてここが問題だが、このような競争に勝ったものが、正解でないこともいくらでもあるわけである。

先ほどの男の例に戻る。彼は開会のあいさつを無事終える段階になり、最後の決まり文句を言う段階に入った。そして「ではこれを持ちまして…●●の挨拶といたします」と言おうとして、●●に入るものを探す段階で、「開会」と「閉会」の二つが猛烈に陣取りを行う。使い慣れた言い回しだけにこの二つの選択肢はすぐ出てくる。そして男はこれまでちょうど開会と閉会の挨拶を同じくらいの頻度で任されたことがあるため、あまり考えずに口に出てきた言葉を言う。ところがそれが「開会」ではなく「閉会」という、たまたま正反対だから面白い反応を生んでしまった。もちろん挨拶をしなれた人なら、一度くらいは閉会と開会を言い間違え、「閉会と開会を言い間違えてはならない」というフラッグがすぐ頭の中に立ち上がり、注意深く「開会」と正しい方を選択する。しかし少し注意を逸らすと言い間違える。とすればこれは恐らくほとんどと偶然の産物、たとえばサイコロを5回振ってすべてが1が出るような確率なのだろうが、それは起きるべくして起きてしまう。たまたま彼のスピーチの大事な部分でそれが起きてしまい、意味付けされてしまうのである。

さて話はここでは終わらない。彼はもしかしたら実際に早く終わりにしたかったのかもしれない。彼が「終わりにしたいというわけではなかった」というのは否認だったのだ。(私も分析家なので、一応フロイトの伝統を引き継いておく。)