2020年11月13日金曜日

揺らぎのエッセイ 5

 この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しかししばらく「揺らぎ」について考え続けていたので、余韻が残っている。というよりは揺らぎのテーマはこれからもますます私の中で深まっていく気がする。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらの多くはどれも当たり前のこととして若い頃は気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでにわかりえないのか。

私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」である。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、深い森に入った気になる。その一部について調べると、そこからも森が広がっている。どのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。

ますます深いジャングルに導かれる、という気持ちにさせられるのである。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真を見ることが出来る。するといくら拡大していっても星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。