2020年2月15日土曜日

揺らぎの欠如と発達障害 推敲 3


今日の部分、ほとんど書き直しはなかった。


ある男性A君の例

あるとても優秀だが発達障害の傾向のある若い男子大学生A君に登場してもらう。彼は実在は私が過去に見聞きした発達障害傾向のある同年代の方々のイメージの中から私が生み出した架空の人物ということにしておこう。
A君は新学期に同じゼミで出会った女子学生Bさんをとても素敵な人だと感じた。A君は次の週のゼミでさっそくBさんからメールアドレスを聞き出し、「次の日曜日に映画を見に行きませんか?」と誘ってみた。しかしBさんはあまりその誘いに興味が持てなかったため、少し時間をおいてから返事をした。それは「ごめんなさい、今度の日曜日は予定があっていけません」というシンプルなものだった。するとA君から間髪を入れずに「ではその次の日曜日はどうですか?」とメールが来た。Bさんは少し圧倒された気持ちになったが、その日曜日もまた都合がつかない、という言い訳も通用しない気がした。そこでA君にはあまり興味がないことをもう少しはっきりと伝えるために、次のようなメールを送った。
「ごめんなさい、私は休みの日は外出せずに家にいる方がいいのです。」
ただしA君のメールが来た時から、半日ほど空けるようにした。彼の畳みかけるようなペースに合わせると、こちらまで自分のペースを崩される気がしたからだ。すると今度もA君は30分と経たずに返事を返してきた。そして今度は「それでは平日の夕方ならどうでしょうか?」と誘ってきたのである。
この時点でBさんはさすがに心配になり、同じゼミのほかの友達に相談することにした。するとA君はほかの男性のゼミ生たちからもすでに何となく遠ざけられ始めていることが分かった。ゼミでこれからしばしば出会うことになるA君と今後どのような関係を持ったらいいかが分からなくなったという。
このエピソードに似たケースはたくさん起きていることと思う。A君はあるていどアスペルガー傾向を持ち、Bさんの返事を字義通りに受け取り、その行間に込められた気持ちを読もうとしない(あるいは読むことができない)。ここに揺らぎの欠如の問題がどのように関係しているだろうか?

A君が不得手な「意味の揺らぎ」

一つ重要なことは、通常は私たちは言葉を様々な用途で用い、それは一つのことを伝達すると同時に、別のことも伝えるということだ。そしてそれは実はきわめて込み入ったプロセスでもある。Bさんの「今度の日曜日は予定がある」は、それ自身はほかのいくつかメッセージを可能性として含みうる。それらは「実際に次の日曜日には別の予定が入っているから映画には行けない」という具体的な意味を持つかもしれないが、「あなたとのデートはお断りです。」かもしれない。そして確かに「別の日曜日なら都合がつく」でもありうる。「今度の月曜日(火曜日、水曜日・・・・)なら予定はないわよ」かも知れない。「それでもあきらめずに私の誘うつもり?」でもありうるし、「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの。もう一度誘われれば考えるわ。」の可能性も否定できない。「本当は行きたいけれど、貴方にこれ以上惹かれてしまうのが怖いの」かも知れない。「男性からの誘いはどれも断れ、と父から言われているの。ごめんなさい。」も可能性としてはゼロではない。
これらの可能性はいずれも否定はできないし、それこそデートの誘いを断られた側は、ある程度理性を失っていて、より好意的な解釈をしたがるだろう。ちなみにあるストーカー体質の人は、このような状況で繰り返し断られたデートの誘いに対して、怒りを爆発させたという。「どうして君は、僕への好意に正直に向き合わないんだ!」
 このように考えると私たちは、結局は言葉が持つ意味の揺らぎの中で、それをある程度的確に読み取ることで社会生活が成り立っているということが分かるだろう。「今度の日曜は予定がある」という返事を受け取った時点では、は確かに「その次の日曜なら大丈夫です」という意味も持っている可能性はあった。と言ってもすでに状況はかなり厳しいが。あるいは「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの・・・・・。」という可能性も少しは残っているかもしれない。しかしそのような返事を受け取ったA君のような立場にある男性は、たいていは、二つの可能性の間に立たされたという感じを持つだろう。まずは相手に断られた、フラれたという可能性であり、これが心に占める割合をおよそ80パーセントくらい、としておこう(ただしこれはいかにも適当な数字である)。そしてそれとは別に、肯定的な可能性、つまり「別の日なら大丈夫よ」という意味が込められている、という可能性に一縷の望みを繋ぐことになる。こちらは20パーセントとしておこう。
これらの二つの可能性は互いに矛盾しているため、心はそのどちらかにグラグラ揺れることになるだろう。白でもなく黒でもなく、しかしかなり黒に近い灰色としての体験と表現する人もいるかもしれない。しかし実際には自分を拒絶するBさんのイメージを思い浮かべた瞬間には黒を体験して落ち込み、私に微笑みかけているBさんを思い描いた時には白を体験して少しホッとする、ということが起きている。おそらく心は一瞬体験するのは白か黒か、という二者択一的なものと考えるが、心はこの白と黒の間の行ったり来たりの弁証法を延々と繰り返すことになる。大体それを41の割合で行うだろうというのが、80% 対 20%という数値の意味だ。
このような揺らぎを体験しつつ、私たちはその先に起きるであろう事態に向けて心の準備をしていることになる。もう一度誘って断られると、おそらく今度は95%5%という割合でBさんとは縁がなかったという現実の重みが増し、それを受け入れていくことになるであろう。それを受け入れるような心の準備を行い始めるはずであるし、これが大方の私たちの心のあり方だ。そしてBさんから二回目のさらに希望を失わせるようなメールの返事を受け取ったた場合には、それに対してさらに食い下がることを当分は見合わせるのがふつうだろう。それはそもそもBさんからのメッセージが持つ曖昧さに対するリスペクトとも言える。対人関係でお互いの言葉の行間を読む、空気を読むとはそういうことだ。
それに比べて発達障害的な心性を持つA君はこのような動かし方をしない。「今度の日曜は予定がある」というBさんからのメッセージはまさに字義通りであり、裏に含まれている可能性のある意図は汲み取られない。黒は黒、白は白として理解され、どちらとも取れるメッセージについてはそれを明確にするための質問を畳み掛けるようにする。そしてこの畳み掛け方が、揺らぎの欠乏を反映している。というのも相手からのメッセージを揺らぎを持って体験することは、それに対する自分の返事のメッセージもまた相手に揺らぎを持って体験されることを想定することにつながり、そのための熟慮の時間も当然あってしかるべきだからだ。