2020年2月14日金曜日

揺らぎの欠乏と発達障害 推敲 2


この様に発達障害やその傾向は、一つの疾患というよりは、人間が本質的に持つある種の思考パターンを示しているとも考えられ、その意味では多くの臨床家の関心を呼ぶことは十分に理解されるのである。本章で私がこの発達障害の問題を取り上げるのは、この章の表題にも掲げたこと、すなわち心の揺らぎの欠如と発達障害傾向の関係性を示すことであるが、そのために先ほど名前を挙げたバロン=コーエンの議論を少し参照することから始めたい。ちなみに彼の議論は私が発達障害やアスペルガー問題を考えるうえで大きな刺激を与えてくれた人物である。
サイモン・バロン=コーエン(2005) は人の脳の機能を大胆に二つに分類する。それは彼が言う「システム化systematizing 機能」と「共感的empathic 機能」である。「システム化機能」とは物事を整理し、順序だて、枠にはめ込む機能である。また「共感的 empathic 機能」とは他人の気持ちに共感し、思いやりの感情を持つという機能だ。これらは両極端な機能というよりは別々のものであり、人の心はこの二つを併せ持つことで十分に機能できると考えてもいい。例えば前者は日常生活や仕事の上で必要な具体的な業務を能率よくこなすうえでとても大切であろう。また後者は社会生活の中で、あるいは家族や友人との関係で、他者とのかかわりを持つうえで必要不可欠な能力と言える。
さてバロン=コーエンの議論の中で注目するべきなのは、人はどうやらこれらの能力の持ち方にある種の偏りがある、という点を指摘したことだ。つまり「システム化機能」と「共感的機能」とは綱引きをしていて、どちらか一方が得意な場合は他方は苦手、という関係があるというのである。つまり両方の能力には負の相関があるというわけだが、これは実は不都合でかつ不思議なことと言えるだろう。
能力、ということに関してこのような例にはあまり出会わない。というのも普通人間の能力は綱引きをしないことの方が多いからだ。たとえばサッカーが得意な人は野球も得意だろう。サッカーが得意な人ほど野球が苦手、という傾向は普通は考えられない。運動神経がいい人は、大体どちらもうまくなるし、あとはどちらにより多くの時間を割いて練習をしたかということによる得手不得手の違いが生じるだけだ。
それに比べて、例えば学問と運動能力の場合には少しは綱引きの傾向がみられるかもしれない。学業が優秀な人はあまりスポーツは得意ではないかもしれない。またその逆も言えるかもしれない。しかしそれはむしろその人がどちらにより多くの時間を使い、努力を注いでいるかということに関連がありそうだ。一日6時間を運動の部活に費やす高校生と、勉学に費やす高校生の二種類しかいない学校では、生徒たちの学業成績と運動の技能とにはある程度の綱引きの関係があるだろう。それは一日に使える時間がそもそも綱引きの関係にあるからだ。しかしこと才能に関してはおそらく両者の関係はかなり希薄であろう。ある人の知能レベルの高さは、その人の運動能力とはおそらくほとんど相関関係を有しないであろうからだ。
ところがシステム化と共感の能力は、あたかも脳がそれを使う領域を争っているかのような、あるいは一方を働かせることが他方を抑制するかのような関係を有していることになるということをバロン=コーエンは主張したのだ。
これは脳科学的にもうまく説明できないことである。物事を秩序立てて理解する能力は、主として側頭、頭頂葉など大脳皮質の機能である。それに比べて共感能力は眼窩前頭前野や前部帯状回などの古い皮質及び皮質下の情動をつかさどる部位がかかわっている。つまり両者は直感的に考えれば競合せず、両者が優れていてもおかしくない。
ところが実際にシステム化の機能と共感の機能を調べるための質問紙「システム化指数(SQ : systemizing quotient)」と「共感指数(EQ : empathy quotient)」を多くの男女を対象として調べると、女性はシステム化機能より共感機能が優位であることが示され、男性ではその逆のパターンがみられるという。そして発達障害の中でも特にアスペルガー症候群・高機能自閉症は、一般男性よりさらにシステム化機能が優位である人が多いとされる。このことから、バロン=コーエンの「自閉症は極度な男性型脳を持っている」との仮説が生まれたのだ。そしてこれはもちろん自閉症が男性に多いことに関係がある。
さて私はこのバロン=コーエンの議論を揺らぎの観点から論じたいのだが、その論旨はシステム化脳が心の揺らぎの欠損と関係し、逆に共感化脳は揺らぎと深く関係しているということである。そのことを以下の事例を使って具体的に示そうと思う。