遊びの原点に立ち返る
ここで遊びの原点について少し考えたい。子供が積み木を積み上げる。3,4個なら難なく積めるかもしれない。しかし7、8個になると不安定になり、うまく上に載せていくことができずにガラガラと崩れるだろう。子どもはその音に驚き、あっけにとらわれるが、また二つから積み上げ始める。かなり高く積み上げた積み木が、最後の一つで崩れてバラバラに飛び散る。これを繰り返す。ここで起きているのは、自分が積み木を一つ積み上げることによる、ある種の急激な変化である。そしてそれを自分が起こしているという能動感がある。この二つの要素がないと遊びは成立しない。行動心理学では心理学者White,RW.(1959) が提唱した effectance motivation (効力動機)がこの能動感これに相当する。幼児は自分のちょっとした行動で世界が大きく変化したり、大きな音がしたりすることが楽しくてしょうがない。そしてそこにはおそらく適応的な意味がある。子どもは(そしておそらく動物の子供も含めて)自分の行動で世界が変わるというパターンをマスターせねばならない。そしてそれに快が伴うことで、繰り返し体験してマスターすることが促され、自立的な機能を高めていく。そしてそれがその個体の生存に役立つのだ。そして積み木遊びのみならず、フロイトのFort-Da もこの効力動機によるものだと考えるほうが自然だ。もちろんそれにより母親の別れを克服している、というフロイトの説も悪くない。というよりずっとそのほうが学者にはアピールするだろう。そしておそらくそのような治療的、辛さを克服するという意味もあるのかも知れない。ただしそこにはもっと単純で生物学的なメカニズムが働いているというほうが分かりやすいだろう。そしてそれが遊びの原点であるというのが私の主張である。
この文脈から見た遊びは、揺らぎの問題とも結びついてくる。
子どもの積み木積みも、フロイトのFort-Da も揺らぎを楽しむことと言えそうだ。積み木は order 秩序と disorder 無秩序の間を揺らぐ。糸巻は出現と消失の間を揺らぐ。そして両者は不可逆的ではなく、一度消えたものがまた出現し、一度崩れたものがまた秩序を取り戻す、ということ、すなわち同じものの状態像の違いでしかない、というのが揺らぎたる所以なのだ。そしてそれを知っているから積み木を崩すことができ、また糸巻をベッドの下に放り込むことができる。自分で崩したものを救出でき、救出したものを壊す、という出来事を生み出すということがたまらなく面白く、快につながるというのが遊びの本質なのだろう。
ところでこう考えると、アスペルガー的な遊びがどのように違うかも自然と理解されるだろう。砂の粒が手の間からこぼれ落ちるのを眺める。そして繰り返し手で砂を掬い、同じことを繰り返す。私はこれが病的だとは考えたくない。むしろこれは特殊な能力といえる。なぜなら砂粒の落ち方は一回ごとに微妙に異なるからであり、そこにも揺らぎが存在している。そしてそれを味わう特殊な能力が彼らには備わっていると考えることができる。さらにそれを調節しているのは自分の手であり、指であるとすれば、そこに効力動機も加わっているのだ。そして一般人はその砂の落ち方の微妙な違いを敏感に感じ取り、感動するだけの能力がないのではないか。臨床家はそれを常同行為と呼ぶであろうが、それは失礼な話だろう。それらは彼らにとっては決して一回ごとに「同じ」ではない可能性があるからだ。
例えば万華鏡を考えよう。筒をくるくると回すと、次々と新しい模様が目の前に広がる。特別視覚的な情報に敏感でなくてもそれに感動する人は多いだろう。これを私たちは常同行為とは呼ばないのだ。しかし発達障害の人が万華鏡よりは砂の落ち方に興味を示すとしたら、彼らには万華鏡や積み木による刺激はあまりにも情報が大きく、むしろ不快を起こさせるのかもしれない。彼らにとっては積み木がガラガラと崩れるときの音に耐えられないのかもしれない。だから彼らの感受性にちょうどあった程度の情報の揺らぎに惹かれるとも考えられるのである。
発達障害においては、情報が通常より過大に感じられる、という風に考えると、彼らの「こだわり」にも別の見方ができるだろう。ある発達障害の方が、アサリの模様の違いに魅せられたという。そして海岸でアサリの貝殻をたくさん拾ってきて、家に膨大な貝殻のコレクションを持っているという。アサリの模様はどれ一つとして同一なものはなく、微妙に揺らいでいるのだろうが、それに感動するためには極めて微妙な感性が必要となるだろう。そしてその人の家族は部屋の一角を占める、一見ごみのような膨大な貝殻に迷惑な思いしかしないかもしれない。そしてこれは、たとえば昆虫に魅せられる人が、種の違いによる羽の模様の微妙な違いに魅せられる一方では、大部分の私たちはその違いが分からないという事情と同じだ。
このように考えると、「イナイイナイバア」の面白さも、別の見方ができる。イナイイナイバアは、発達障害の人にとっては、揺らぎどころか大波過ぎて、情報過多でとても楽しめるような代物ではない、ということではないか。彼らは彼らで自分たちの身の丈に合った揺らぎを楽しみ、それと遊んでいるということになるのだろう。