2019年8月5日月曜日

揺らぎと死生学 1


 この章はかなり頭が痛くなる内容になる気がする。もともと学術誌用に書いたものだ。まあ書くだけ書いてみよう。
もともと揺らぎの議論は、結局どこに行くかわからない私たちの「酔っぱらいの歩行drunker’s walk」を表したものでもあった。行き先のわからない、私たちのいい加減なあり方を表してもいるのだ。そしてそれは私が30年前に学び始めた精神分析学の姿勢とはかなり異なるものなのである。私は1982年に正式に精神分析のイニシエーションを受けた。つまり精神分析セミナーというものに通って、当時の精神分析の大家であった小此木先生の指導の下にフロイトを読み始めたのである。
フロイトが描いていた精神分析の世界については、揺らぎといったものは問題にされなかった。むしろ表面的には揺らぎに見えるような、いい加減で予想もつかない心の動きにある確固たる法則が見られるという事を示していたのである。これは私にとってはとても心強いものであった。心の動きという一見つかみどころのないものにも一つ一つ理由があるという理論である。後は精神分析の理論を私たちの言動に当てはめればよい。そしてそれを見事に示していたのがフロイトの「夢判断」(1900年)だったわけである。
このフロイトの考えは、喩えているならば、ラプラスの悪魔の世界観だといえる。1700年代の終わりのフランスの学者だが、こんなことを書いている。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
— 『確率の解析的理論』1812

これまでに何回も出てきた例で申し訳ないが、5分遅れてくる患者さんの例である。
この様な考え方に従えば、そこにもその意識的、無意識的な動因がどこかにあり、れは理論的に導くことが出来ることになる。私がこの考えに少なくとも26歳からの数年間は夢中になったことは、そしてそうなることが特に当時の教育を受けた若い精神科医が信じることとしてさほどおかしなことでなかったとしたら(事実私はこの考えを精神分析の先生に説明しても、特に真っ向から否定されることはなかった)、今でもこの考え方はある程度は有効なのだろう。ちなみに、これはすでにどこかに書いているのだが、頭が非常に硬かった私は当時精神分析の権威と目された先生に訊いてみた。「5分遅れたことに、常に無意識的な意味を見出す、というのが精神分析の方針なのですね?」するとその先生はこう応えた。
「いや、常に、というわけではない。5分遅れたことに無意識的な意味がない場合もあるさ。」
「では5分遅れたことに無意識的な意味があるかないかは、どうやってわかるんですか?」その時の先生の答えを私は覚えていないが、想像はできる。こんな感じだ。
「分析家はその初学者の顔を見て、『やれやれ』と思った。『そこに無意識的な意味を見出すか否かを見極めるために必要なのが、教育分析を含めた分析のトレーニングではないか。まだ彼は基本的なことが分かってないようだな。』」
ところがそれから35年後、私は「患者さんが5分遅れるのも、揺らぎだよね。」などと言っているのである。私の精神分析音痴はすでにこの頃から始まっていた可能性がある。