しかしこれだけはどこに書き付けるまでもなく、絶対間違えてはいけない、ということを人は間違える可能性がある。実際とても几帳面で知られるある友人が、会社から帰宅してドアに向かって歩いている最中に、鍵をかばんの中から探ってなかなか見つけ出せないで冷や汗をかいた、という話を聞いた。そうしているうちに、彼はドア口に到着し、驚きの声を上げたという。なんと朝鍵をかけた後に鞄に入れたはずの鍵が、鍵穴に差し込まれたままキーホルダーごとぶら下がっていたのである!彼の自宅は、ご丁寧にも鍵穴に鍵が入ったままで、泥棒に「どうぞ入ってください」と言わんばかりの状態で十数時間が経過していたのである。(彼のマンションは幸いにも廊下の端のほうにあった。つまり泥棒さんにも見えにくかったのであろうが、私が泥棒だったら逆に警戒して入ることはなかったであろうと思う。)もちろんそれは彼が人生で始めて犯したその種の過ちであり、それから数年たった後も同じ過ちは犯していない。つまり彼にとっては本当にごく稀に起きた失敗だったわけだが、やはりこれも彼の注意が揺らいでいてその結果として起きてしまった失敗と言えるのだ。
私が言いたいのは次のことである。人間の注意力はそもそも常に揺らいでいるものであり、それはどれほどその人にとって重要なものに対しても同じなのだ。家を出るときは鍵をかける、という絶対に忘れてはならないし、おそらく認知症にでもならない限りは忘れない原則が、それでも時々忘れられてしまうのはどうしてか。それはその原則があまりにアタリマエで、それがあまりに別格であるために、その人のチェック事項から漏れてしまうからではないか。つまりそれについては揺らぎがおきないはずの認識や注意が、揺らいでしまうような事態が生じてしまうのだ。
家を離れるときに鍵をかけることがあまりに習慣づけられていて、それをしないことなどありえない、という人も、家のドアを閉めて鍵をかける間に何らかの形で割り込んだ侵入的な思考や知覚により注意をそらされるということはありうる。たとえば彼は仕事場ではオフィスの扉を閉めた時に鍵をかける習慣はなく、むしろそんなことをしたら他の同僚が入れなくなるという状況があるとする。仕事場に関しては「このドアを閉めても鍵はかけない」という習慣が徹底して身についていたとしたら、家の鍵との混同が起きる可能性は幾らでもある。おそらく彼はその仕事場で働き始めてから何度かは、ちょうど家を出る時のように、思わず鍵を閉めてしまいそうなミステイクを犯したかもしれない。あるいは家を出るときに鍵を敢えてかけないという間違いも繰り返した可能性がある。そして「仕事場ではドアを閉めても鍵をかけず、家はドアを閉めたら鍵をかける」というやや複雑な習慣を定着させる事で、その揺らぎを小さくすることができたはずである。ところが彼が家を出るときに、ちょうど職場で整理していた書類のことを考えていたとしたら(上に書いた侵入的な思考の例である)、職場のドアを閉めたときのような感覚にとらわれ、鍵をことさら閉めずにそこをあとにするということは偶然おきてしまいかねない。あるいはそれにすんでのところで気がついて、「家を出るときは、職場の仕事のことを考えていると鍵をかけずに出てしまう可能性があるので、それに気をつけよ!」を肝に銘じたものの、これがまだ確固たるものにならずに揺らいでいる状態では、それがふと頭から抜け落ちてしまうのである。
家を離れるときに鍵をかけることがあまりに習慣づけられていて、それをしないことなどありえない、という人も、家のドアを閉めて鍵をかける間に何らかの形で割り込んだ侵入的な思考や知覚により注意をそらされるということはありうる。たとえば彼は仕事場ではオフィスの扉を閉めた時に鍵をかける習慣はなく、むしろそんなことをしたら他の同僚が入れなくなるという状況があるとする。仕事場に関しては「このドアを閉めても鍵はかけない」という習慣が徹底して身についていたとしたら、家の鍵との混同が起きる可能性は幾らでもある。おそらく彼はその仕事場で働き始めてから何度かは、ちょうど家を出る時のように、思わず鍵を閉めてしまいそうなミステイクを犯したかもしれない。あるいは家を出るときに鍵を敢えてかけないという間違いも繰り返した可能性がある。そして「仕事場ではドアを閉めても鍵をかけず、家はドアを閉めたら鍵をかける」というやや複雑な習慣を定着させる事で、その揺らぎを小さくすることができたはずである。ところが彼が家を出るときに、ちょうど職場で整理していた書類のことを考えていたとしたら(上に書いた侵入的な思考の例である)、職場のドアを閉めたときのような感覚にとらわれ、鍵をことさら閉めずにそこをあとにするということは偶然おきてしまいかねない。あるいはそれにすんでのところで気がついて、「家を出るときは、職場の仕事のことを考えていると鍵をかけずに出てしまう可能性があるので、それに気をつけよ!」を肝に銘じたものの、これがまだ確固たるものにならずに揺らいでいる状態では、それがふと頭から抜け落ちてしまうのである。
結局失敗とは、外的な要因でも内的な要因でも「注意の揺らぎ」という現象がある以上は起きるべくしておきる。そしてそこにはおそらく冪乗則や、それに類する仕組みが絡んでくるのである。
私はここで将棋指しの「二歩」(成っていない歩兵を二枚同じ縦の列(筋)に配置することはできないという、将棋の禁じ手 ← Wiki から)のことを書きたかった。プロの棋士は百戦錬磨で、基本中の基本であるこの禁じ手を打つことは普通はありえないはずである。しかし「これはプロ高段者の対局においてさえしばしば発生する。2018年11月現在、公式戦では記録に残る限り二歩は88回起こっている。← Wiki から」
なぜこんなことがおきるかというと、時間に追われて切羽詰った状況では、実に様々な思考が交錯し、「二歩は絶対指してはいけない」と同じくらいの重要さで「ここは絶対打っちゃダメ!」「この手順を間違えたら頓死!」などが頭に押し寄せてくる。するとちょうど交差点で左折する際に、いくつかの不規則行動が同時に起きて、どれかが必然的に忘れられてしまうというのと同じことがおきるのではないか。するとこの「高段者の二歩問題」も、どんな人間でも体験する注意の揺らぎ、ということで説明が出来るのであろう。
なぜこんなことがおきるかというと、時間に追われて切羽詰った状況では、実に様々な思考が交錯し、「二歩は絶対指してはいけない」と同じくらいの重要さで「ここは絶対打っちゃダメ!」「この手順を間違えたら頓死!」などが頭に押し寄せてくる。するとちょうど交差点で左折する際に、いくつかの不規則行動が同時に起きて、どれかが必然的に忘れられてしまうというのと同じことがおきるのではないか。するとこの「高段者の二歩問題」も、どんな人間でも体験する注意の揺らぎ、ということで説明が出来るのであろう。