書くことと精神分析。執筆依頼をよくよく見ると、16000字、とある。ヒエー。まだ半分も書いていないことになる。A4で10ページ余りの論文って、よほどのことがない限り依頼を受けない。そんなに書いていいの? という感じだ。という事でもう少し素材を絞り出すことになる。
商品としての著作
学術論文と著作の一番の違いは、売れるかどうか、というファクターの有無である。率直に言えば、学術論文は売れ行きを一切考える必要がない。極端に言えば、商品価値が全くないと考えられる論文の方が価値があったりする。ただしこれは論文は「評価されたり引用されたりするかどうかを一切考える必要がない」という事では決してない。わかりやすく言えば、著作は商品価値があること、すなわち専門家や一般の読者によって購入される必要があるが、学術論文はそれが専門家集団の中で話題に上ったり、引用されたりすることが必要なのである。そしてこの「商品価値」の問題は、著作を出す際にかなり大きな問題を呈することになる。
そこで商品価値のある本とはどのようなものだろうか。本屋の専門書コーナーに最近の著作がいくつか並んでいる。購読者はそれを手に取り、ぱらぱらとめくって比較的短時間で購入するかどうかを決めていく。多くの場合手にとってほんの数秒で元のところに戻してしまったりする。その時読者はそれを読んである種の興味や心地よさを刺激されるかどうかを調べているのだ。そしてそれが手に取ってもらってもすぐ元の場所におかれてしまうようであれば、著書としての生命は失われてしまうのだ。結果として初版を売り切ることもできず、場合によっては出版元の倉庫で眠っていて、それ以上捌ける可能性もなく、裁断の憂き目にあう。裁断とは著作の初版の売れ残りが倉庫の一定の面積を占めることによる損益が大きいことから、機械で切り刻まれ、資源ごみとして出されることである。私はそれをひそかに著作が「処刑されること」と呼んでいる。長い時間と労力を費やし、出版社の期待を背負って世に出た著作が受ける処遇としては、これほど悲惨なことはないであろう。もちろん出版社もそのようなことがないように、初版の数から調整する。まずどう見積もっても数百部だろうと考えるとそれを初版の部数として印刷し、ともかくも数年かけて売り切ることを考える。運が良ければ初版が何年か後に売り切れ、再版がかかる。詳しい出版事情は分からないが、大体初版を売り切って再版がかかることで、著者は胸をなでおろす。少なくとも出版社にとっては赤字になって迷惑をかけることを意味し、これからも声をかけていただけるという期待が持てるからだ。
この様に書けば分かるとおり、本を書くとはそれが商業的に売れるかを真剣に考えながら制作することなのである。そしてそこに、著作と論文の決定的な違いが生じる。著作は読んで「面白く」なくてはならない。それに比べて論文は著者の専門分野における独創性、すなわち学問的な価値がなくてはならない。そして後者については、普通の意味で「面白く」なくても構わないのである。
例えで私がよく思い浮かべるのは、数学の論文である。歴史的に有名なポワンカレ予想は長年数学者たちを悩ませていたが、2002年にロシア人の数学者ペレリマンがそれを証明したとする論文を発表した。しかしその論文を読んでその是非を判定する数学者がごく限られ、4年の歳月をかけてその正しさが証明されたという。もしこのペレリマンのポワンカレ予想の証明が、薄手の著書という形で売り出されるという形で発表されたとしよう。それを購入してその内容を把握しようとする人はおそらく一握りの数学者という事になり、うっかり初版を多めに刷ろうものなら、ほとんどが裁断の憂き目にあうことは保証されているようなものだ。つまり著書としては決して成功しなかったはずである。(ただし興味本位で、あるいは記念に買おう、という人のことはここでは考えに入れていない。しかし興味本に買おうと手に取ってみても、内容のほとんどが意味不明の数式だけなら、やはり買うのをためらってしまうことも十分に想像できる。) ところがこのペレリマンの論文は学問的な価値ははかり知れなかったわけで、その意味では最高レベルの論文という事になるのだ。
さてそこでどのような本が売れるのか、ということについては、そもそもよく売れる本を書いたことがないという自負がある私にも、少しは分かっているつもりである。それではどうして売れる本を書こうとしないのか、と問われるかもしれないが、それを書けない複雑な事情もある。そのことについて次に書いてみたい。