2019年6月21日金曜日

書くことと精神分析 5

どうして売れない本を書き続けるのか

私は専門書をもう二十冊以上書いている。それらは専門書の類であり、大体は売れていないが、ただしその中でも多少は売れるもの、売れないものが出てくる。一つ言えるのは、売れるものがなぜ売れるかは、よくわからないことが非常に多いという事である。それはカバーのデザインのインパクトであったりもするが、その原因が特定できないことが多い。ただしあとになって「あー、そうだったのか」と分かることもある。たとえば最近出した「快の錬金術」はとにかく売れなかったが、その一つの理由は、タイトルを見ただけでは何の本だかわからないという事だったらしい。よく知り合いから「ユング派の本ですか?」などと問われたが、実は報酬系(快感中枢)から見た心の病、という内容である。明らかにタイトルの誤りという事になるかもしれないが、これ自体が売れないことの言い訳なのかもしれない。
ただどのような本が売れるかは大体わかってきた。それは私自身が本屋で手に取ったら買いたくなる本だ。つまり興味深い内容が書かれていて、読みやすく、勉強になりそうな本である。そんな本は手に取って「あ、この本買って帰りの新幹線の中で読もう」という気持ちになる。そして私の本は大部分はそのような本ではないから、売れなくても仕方ないとあきらめている。
その売れる本には、例えば心理学関係ではこれまで発表された論文や実験など、私が知らなかったような内容が読みやすく書かれているだろう。そしてここが重要なのだが、そこに著者の創造性や新しいアイデアなどはあまり求められていないという事である。要するに著者が興味をそそるようなテーマで過去に行われた事件や最近の新しい知見などをまとめてくれた本であればありがたい。読み終わって、「アーためになった」、「教養を身に着けることもできたな」、と思えるような本だ。もちろんそのような本には全体を貫くモチーフのようなものがあるはずだし、それ自身が著者のオリジナルな部分と言っていいだろう。しかしそのオリジナルな部分が皆無であっても読み物として面白ければその本は売れるのである。だからノンフィクション系の本の中には「○○編集部」が作者になっていたりして、その出版社や放送局の非専門家のスタッフ、ないしはライターが本を作成することがあるが、それなりに面白く、よく売れる本となることもあるのだ。
さて問題はそのような本を書くことを好まない著者がどうやって本を書いたらいいのか、という事である。「本を書きたい人が、でも売れる本を書きたくないとはいったいどういう意味か」と疑問に思う方もいるかもしれない。でもこれは論文を書く人の立場を考えるとわかる。論文を書く専門家は、読んで面白いことを書こうなどとは決して思わない場合が多い。これまで誰も思いつかなかったことをいち早く文章にしよう、という事を考えているだけである。先ほどのペレリマンの論文の例を考えればわかる通り、彼が数学界の中でも数人しか理解できないような、という事は全世界で数人しか理解できないような論文を執筆した際に、「沢山の人に面白いと思ってほしい」とは微塵も思っていないはずだ。ただ真理を伝えたい、それだけだったのだろう。その意味では彼は読まれることを特に望んでいなかったとも言える。事実彼は特に著書は書いていないようであるし、そもそも自分の説を公表しようとする意図も希薄だったらしい。「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞の受賞を辞退したというが、これは前代未聞のことである。
私がここで言いたいことは次のことである。書くという作業は、少なくとも私にとってはそこに思考や独創のプロセスが織り込まれることが心地よさを生む。論文を書くことの面白さはそこにあるのだ。もしすでに知られていることを面白おかしくまとめるとしたら、そしてそこに独創性を織り込まないとしたら、論文としての価値はなくなり、したがってそれを書くことの面白さは半減したり、全く失われてしまったりする可能性がある。だから論文を書くことが好きな人間が本を書くとしたら、それは面白い本ではなく、独創性のある内容の本を書くという事になるが、それは必然的に売れる本を書くという事とは違ってしまうのだ。独創的な本とはたいていは独りよがりな本だし、専門家以外はその価値が分かりにくいものだ。そのような作者が本を書きたいと思うならば、それこそ自分が発表した論文を集めて本にするしかなくなる。いわゆる論文集の形だ。しかしそれは大抵は一般大衆の興味を引くものとは異なる。そしておそらく私も本屋で手にとっても棚に戻してしまうだろう。
勿論論文集、アンソロジーというジャンルはある。すでに述べた博士論文はむしろそのような部類に属するかもしれない。だから博士論文をいかに書くかという事を論じていた際、実はこの「一般の読者にとっては読んでもつまらない」論文集としての著作のことを論じていたことになる。そして事実博論が著書になったものは、たいていは絶望的なまでに読みにくく、一般の読者はなかなか手に取らないのである。(博士論文は大抵はとても読みにくく、理解するのに骨が折れる。)
と言ってももちろん「売れる」論文集はある。それはその著者の評価がすでに定まっていて、読む人間がその硬質さを高尚さ、自分の読む力がまだ足りないことの証明と感じつつ、それこそ勉学のつもりで読んでいく本だ。いかにヘーゲルの「精神現象学」が難しくても、ラカンの「エクリ」が意味不明でも、それを押して読むのはヘーゲルやラカンが偉大だという評価がすでに確定しているからである。もし無名の学者が同じような内容の本を自費出版でもしたとして、一般の読者が買う可能性はゼロに近いだろう。もし店頭に並んだその本を手にして23行読んだ文章が頭に入ってこないとしても、読者はその分からなさを、自分の理解力の不足とは考えず、著者の論述の意味不明さや文章の未熟さと決めつけて、それ以上余計なエネルギーを注ごうとは思わないだろう。
そこで独創性を盛り込んだ著書を書き、それをある程度売ろう考えることがいかに難しいかという事になる。私はこれを書きながら、自分の本が売れて欲しいと願うことがいかに理不尽だったのかという事を痛感している。著書を発表できるというただそれだけでもいかに幸運かをかみしめなくてはならない。そしてもう私たちの世代は、独創的で面白くない著作を世に送り出すことが出来ないという宿命を一気に打破する手段に恵まれていることを心から感謝しなくてはならないと思う。それがネット出版である。