2019年6月19日水曜日

解離への誤解 推敲 5



2.自然軽快の可能性を重視する

これは正式には治療論とは呼べないかもしれないが、解離性障害の「自然経過 natural course」を十分把握することが重要であろう。解離は人格の複数化を伴う深刻なものはおそらく幼少時のトラウマ体験をきっかけにして形成されていくが、そうであってもその後の経過は個々人により大きく異なる。各人は通常は家族やパートナーと共に暮らす。彼らは当人をサポートし、治療的な役割を果たすことが多いが、同時に当人にストレスを与える存在ともなり得る。これは当人の同居する両親や加害的なきょうだいが存在する際に顕著となる。
端的に考えた場合、解離を有する人が人生を送っていく場合、その生活の中でトラウマ的なストレスを体験する際に解離が体験されやすいというのは事実である。逆に言えばそれが少ない場合に、解離は生じることが少なくなり、そのまま時間が経過していった場合にはそれだけ解離の病理からは遠ざかっていくことになる。それは人格が統合されていくプロセスというよりは、主要な人格をのぞいてほかの人格が「冬眠状態」に入っていくプロセスなのである。事実そのような形で思春期前期には顕在化していた人格の複数化が、その後思春期、青年期、と徐々に表面化しないようになって行くというケースをよく見かける。DIDの多くはこのような形で「自然治癒」していくという可能性がある。彼女たちは臨床例として同定されることすらないかもしれない。
しかしもちろん自然治癒のプロセスを踏まないケースも多くある。その場合は人格の複数化が慢性的に継続し、その中でも感情的な人格がその人の社会生活上の適応を難しくするという事が繰り返される場合がある。慢性的な鬱や引きこもり状態へと移って行った場合、DID状態は中年期以降も継続する可能性がある。そしてその場合にはストレスフルな同居者との生活が避けられない形で継続する可能性が非常に多い。さらにはそれなりの社会適応を送り、明確なストレッサーとは距離を置いて生活をしていても、過去の体験のフラッシュバックが延々と続き、人格交代が継続してしまう例もある。
解離の治療者は患者がこの様な「自然経過」の可能性を背景に持っていることを理解すべきであろう。心理療法家としてはこのような全体を見つつ治療を進めていくことになる。管理医としては環境調整や併存症としての抑うつやパニック障害への薬物治療が欠かせないであろう。管理医はたとえ薬物調整のための短い時間しか面会できない場合も、いくつかの人格の存在を受容する態度を決して崩してはならない。
治療上問題となるのは、すでに「自然治癒」プロセスが進んでいる際には、徐々に眠りについて行く人格にいかに関わるかが問題とされることが多い。結論から言えば、冬眠した人格を揺り動かすことには治療的な意味は少ない。ただしこれは「寝た子は起こすな」原則を厳密に守るべきである、という事とも違う。事実「寝た子が起きる」という現象は偶発的に起きうる。それまで順調に経過していた人でも、ある日夢で過去のトラウマの体験が蘇った場合には、その時の人格がしばらく起きだして活動するという事がある。あるいはかつて治療者の前では頻繁に出ていた人格が、間遠になりつつある心理療法の際に「顔を見せに」訪れることがある。その際に「心理療法は寝た子を起こす可能性があるので余計な刺激になっているから、やめた方がいい」と考える必要はない。その治療者が過去の虐待者を髣髴させる、などの原因がない限りは、その人格は何らかの理由で療法家に対して接触を求めていると考えて久しぶりの再会を懐かしむのもいいであろう。
ただ自然治癒過程にある患者に対して過去のトラウマ体験の洗い出しをすることは、それを禁忌扱いする必要はないであろうが、おそらく治療的な価値は少ないであろう。治療者の側が独自のこだわりを持って患者さんの過去の再構成をやり遂げるという態度は望ましくないという事である。ただしそれが禁忌ともいえないというのは、覚醒した人格はすでに確立しているはずのストレスの少ない生活環境の中では早晩冬眠状態に戻ることが予想されるからである。