2017年12月20日水曜日

関係精神分析(福岡版) 4

関係精神分析の今後の可能性

RPの可能性や限界についても触れたい。私がこれまでに述べた精神分析に関するさまざまな疑問や懸念は、今でも私の臨床上の中心テーマであり続けている。しかしそれらの問題に今ではさほど悩まされてはいない。「正しい精神分析をおこなっていないのではないのか?」という超自我的な声からは、最近はかなり解放されてきているし、私がこれまでに抱いてきた疑問や問題意識は生じる根拠があったのだと安堵がある。そしてその理論的な支えを提供してくれるのが、精神医学と精神分析との架け橋を試み続けるBayler CollegeGlen Gabbard、舌鋒鋭く伝統的な精神分析理論の批判を展開するOwen Renik、「自己の使用use of self」のTheodore JabocsWinnicottを援用しつつ独自の「自己と対象」に関する新たな境地を開くJessica Benjamin、そしてメンタライゼーションの議論を通して新風を注ぎ込むPeter Fonagyといった人々である。そして彼らは関係精神分析に直接、間接に貢献し、いわば同じ空気を共有しつつ精神分析のあるべき姿を追求している。
精神分析の基本原則に徹することで生じるさまざまな矛盾、中立性や匿名性が内包する諸問題、患者の側に立った視点の欠如、無意識の不可知性等の問題や視点は、関係精神分析の機関紙とも言える「精神分析的対話」を紐解けば、異なる論者により繰り返し取り上げられていることがわかる。彼らが異口同音に指摘するのは伝統的な精神分析理論の限界や問題点であるが、それらは患者主権の治療を目指すというヒューマニズムに一貫して裏打ちされているように感じられる。彼らの議論はいかに過激で偶像破壊的であっても、精神分析を侵害するのではなく、逆にそれに活力を与え、新しい精神分析を構築するというエネルギーに満ちているのである。
RPの文献を読むと、彼らの間にも様々な立場の相違があることがわかる。先述の通り、そもそもの関係精神分析の火付け役であるGreemberg, Mitchellは、「精神分析理論の展開」の刊行の後ほどなくして別々の道を追求しているように見える(7)。また理論的には非常に近いように思えるMitchell Robert Stolorowは互いの議論の相違点をことさらに強調する傾向も見られる。しかし私にとってはそれらは彼らが共有する「大同」のもとでの「小異」に属するもののように思えるのである。むしろその種の議論がRPをさらに活性化していると考えるべきであろう。
さいわいRP自体が様々な立場を含みこんだ「アンブレラ理論」であるために、その中心的な主張、譲れない基本的な論点を同定しにくいという事情がある。ただしRPにおいて頻繁にテーマとして取り上げられ、先駆者ミッチェルが強く主張した治療者と患者の二方向性、ないし二者性という概念は数多くの論者に共有されているように見受けられる。これらの概念は、治療者と患者の主観的体験は常に相互的に影響を及ぼし、決して互いが孤立した心としては存在しないという視点を強調するが、この論点を突き詰めれば、患者(ないしは同様に治療者)の内的体験にはことごとく関係性が反映されていることになりかねない。このことはすでに見たMills の議論には含まれていないが、ある意味では最も多く聞かれるRPに対する疑問ないしは懸念と言える。最後にこの点について言及しておきたい。
たとえば治療者が患者とのセッション中に眠気を感じたとする。二者心理学的にはそこには患者との関係性が常に影響していることになるだろう。しかしこの議論を推し進めることは、「何もかも関係性」というあまり生産的とはいえない議論へと陥りかねない。たとえば「眠気は結局は患者の側から投げ込まれたものであり、投影性同一化の産物である」という議論の極端さに通じてしまう危険性があることになる。しかし立場によってはその治療者の眠気を、もっぱら彼個人の生活上の不摂生や服用中のアレルギー薬の副作用ととらえる臨床家がいてもおかしくない。関係精神分析をどこまで念頭に置き、どこまで用いるかは、個々の臨床状況で常に問われ続けなければならない問題である。
この問題に関する私自身の立場はきわめて平凡で常識的なものと考えている。それは患者治療者間の二方向性という視点はあくまでも臨床上役に立つ限りにおいて用いるべきであるという立場である。患者の心に生じることがことごとく二者関係を反映しているとは、常識では考えにくいであろう。治療場面で患者が見せる言動には患者独自の病理がある程度は反映されているであろうし、生来の気質や欲動の強さも影響しているかもしれない。その意味では私は前出のグリンバーグのミッチェルに対する批判にも一理あると考える。それでも関係精神分析的な視点が意味を持つのは、治療状況において二者性への認識がしばしば治療者の前提から抜け落ちるという現実があるからだ。
実は同様の議論は古典的な分析理論にも成り立つと私は考えている。患者を前にした治療者が時にかなりの客観性発揮し、患者よりも現実を的確に見極めることもありえると思う。治療者が患者に比べて洞察力に優れ、情緒的にはるかに安定していて、患者の話を聞きながら、言外に含まれるメッセージやその無意識内容をかなり的確に聞き取ることが出来ることもあるだろう。そのような場合には治療は伝統的な精神分析理論にしたがった一者心理学の路線で治療が進んでも何ら問題はないと考える。ところが実際にはこのような理想的な治療過程はごくまれにしか生じないであろうことも私たち臨床家の多くは認識しているはずである。だからこそ常に古典的な分析理論に潜む危険性を常に問い続ける心がけが必要なのである。
関係精神分析の提示する視点は、ある意味では極めて常識的であり、かつ心の働きのリアリティを反映したものであるが、同時にかなり洗練され、それを維持するために常に知的な労力を必要する性質のものでもある。そしてその視点は、臨床家が患者を前にして感情の波に呑み込まれたり、自己愛の満足を体験したりする際に一番見失う性質のものでもあるという点は、実は関係理論を学ぶ上で明確に理解しておくべきものと考える。

なおこの文章は、筆者が「関係精神分析入門」(岩崎学術出版社、2009年)の第一章として発表したものに加筆修正を加えたものである。