今日はここら辺を直した。
抑圧という名の魔法は果たして可能なのか?
先ほどのべた政治家の心のプロセスをもう少し探ってみよう。この政治家が賄賂を受け取ったことを「忘れて」しまうということは起きるだろうか? もしそうなった場合は「嘘」や「弱い嘘」ではない。本当に「忘れて」しまい、あるいは偽りの記憶で置き換えられるのである。そうなると「賄賂は受け取っていません」と主張する政治家に、基本的には良心の呵責はないことになる。これは一種の魔法のようなものだ。
ただ人の心はそうやすやすと、この魔法を使わせてはくれない。心に置くことが苦痛だからといって、それを記憶から消去してくれるような装置は私たちの心の中には通常は備わっていないのである。
ここで「抑圧」の話をしなくてはならない。ある考えや衝動などをなぜ心から追いやることができるのか? 「出来る」とフロイトはそう考えた。フロイトは思い浮かべることが心に痛みを生じる場合、その内容は意識から押しのけられ、無意識に留められると考え、それを「抑圧」と呼んだのだ。わかりやすく言えば、思い出すのが嫌なことは、一時的に心から追い出すメカニズムがあると言ったのだ。忘れるという現象が生じることをつたえたのだ。そしてこの抑圧が生じるための心の痛みとして、フロイトは幾つかを考えた。それらは「ウンザリ感、恥、罪悪感、不安」であった。要するにさまざまな不快である。
具体例に則して考えよう。ある女性が職場でセクハラを受けた、という例を選びたい。フロイトもこの抑圧が生じる原因として主として考えたことは、性的な内容だったからだ。その女性はセクハラの記憶を思い出すたびに「ウンザリ感、恥、罪悪感」を体験する。つまりセクハラをしてきた上司のことを考えるとウンザリし、またそんなことをされて恥だと思う。また自分にもある程度の原因があったのではないかと思うと、罪の意識も感じるのだ。この恥とか罪の感情は、性的な内容を含んだものに特有かも知れない。それに性的な出来事はどこか隠微で、隠されなくてはならないという気持ちを私たちに生む。それで心の外に追いやる(抑圧する)ことができる、とフロイトは考えたのだ。
精神分析の理論は、この「思い出さないようにする」心の働きとして、様々なものを考えた。否認、否定、排除、抑制、解離 ・・・・・ とたくさん考案されているが、結局これらは「抑圧」という名前でひとくくりにされると言っていい。少なくともフロイトはそう考えた。
ただし抑圧により忘れられた記憶は、通常の「忘れてしまう」こととは違う、とフロイトは考えた。なぜならその本体は消えてなくなったわけではなく、無意識という心の別の部分に移ったと考えたのである。無意識とは通常私たちが思い浮かべることのできるもの以外の膨大な内容を蓄えた心の部分であり、通常はそれを意識化する、つまり思い浮かべる事が出来ない。
このフロイトの図式をもう少しわかりやすく表現してみる。意識とはスポットライトを浴びた舞台のようなものだ。そこで起きていることが意識されることだ。しかし舞台の袖や舞台裏では別のことが進行している。しかしそこにはスポットライトが当たっていず暗いままなので、観客にはそこでの動きが見えない。しかし、とフロイトは考えた。舞台裏で起きていることはさまざまな形で、「象徴的に」表舞台に影響を与えるのである。
ここまで私は「思い出したくないものは、思い出さなくなる」ことを当たり前のことのように書いているが、この問題は実はすごくややこしい。「いやなことを考えたくないので抑圧する」とフロイトはサラッと言ったが、それが果たして可能なのかという問題は、脳科学的にも結論を出すのが難しいのである。なぜならいやなことは「気になること」でもあり、心はそれを放っておかないかも知れないからだ。私たちにとっては、あるひとつのことを考え続ける、やり続けるというのは比較的シンプルな課題である。心はそこに戻っていけばいいのだから。ところがあるひとつのことを決して考えない、というのは決して単純な課題ではない。とくにそれが不快な考えの場合は、それが再び心に入り込みそうになると、それを押し出すという努力をする、ということの繰り返しとなる。そして心から押し出すための方法には具体的にどのようなものがあるだろうか? それを否認するような言葉を発したり、違う証拠となるような理屈を考え続けたり、その不快な事柄を思い出させた人に向かって怒ったりするだろうか。それらは本当に有効なのだろうか?