2015年8月24日月曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 13/50)

 6章 怒れる自己愛者たち

ここからしばらくは、怒れる自己愛者一般について論じる。つまりこれまでのようにタイプ分けした自己愛ではなく、それら一般に共通した怒りの問題について考えてみるのだ。
実はこのテーマは「恥と自己愛トラウマ」という昨年上梓した本(岩崎学術出版社)にかなり触れられているが、そこでの内容を要約して示したい。読者の方たちは、ナルな人たちは人を傷つけ、迷惑をかける人々と理解しているであろう。それはその通りなのだ。しかし彼らの自己愛的な振る舞いには、それなりの理由があり、そこには心の力動が背景にある。その点を理解しないと、なかなか彼らを理解し、うまくかわしたり、いなしたり、逆に操ったりすることが出来ない。まずは「汝の敵を知れ」、である。

自己愛の傷付きほど苦しいものはない

私たちの人生の中で最大の傷つきはなんだろうか? おそらく人前でひどい恥をかかされることである。社会に生きている限り、私たちの日常は、いかに恥をかかされないか、という思考に支配されていると言っていい。
 社会で生きていくためには、様々な行事があり、会議がある。そこに出て自分は一定の役割を演じなくてはならない。そこでの失態は、それがたとえどんな小さな場であっても、恥の経験、自己愛の傷つきにつながる。それが一対一での商談であっても、その程度は変わるものの傷付きの性質は変わらない。

ある仕事上の付き合いのある人と商談を計画する。相手も準備に時間を費やし、自分も資料作りに時間をかける。そしてようやく迎えた会談の場。あなたは鞄をあけて、大変な失敗をしてしまったことを知る。今朝机の上から、全然違う書類を取り上げて鞄にしまっていたのだ。あなたの面目はつぶれ、信用を失い、無駄な時間を費やすことになった相手に平謝りをするしかない。恥・・・・・。

この場合、恥をかく相手はたったの一人である。あなたはその失態が会社全体に迷惑をかけるということでもない限りは、一人の人間に対して恥じるだけで済むのだ。しかしこれだけでもあなたの心を数日間は憂鬱にさせるのに十分かもしれない。そう、自分にも恥じているのだ。
 では相手が大勢で、あなたのパフォーマンスに期待してきている場合はどうだろう? たとえば役者としてのあなたのセリフが、大事な場面で突然トンだら?舞台の真ん中で立ち往生するしかないだろう。その時の体験はトラウマになるはずだ。
私は記憶した内容が突然出てこないことでそのようなアクシデントに見舞われるのは真っ平である。特に自分の場合、そのようなことは起きやすいと信じる。だからそのような仕事についていないことに深く感謝をしている。しかしエピソードとしてそのような恐ろしい話を聞いたことがある。前著「恥と自己愛トラウマ」にも書いた内容だ。

ウィキぺディアの桂文楽の項から(https://ja.wikipedia.org/wiki/桂文楽_(8代目))。
最後の高座
高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していた。1971(昭和46年)8月31国立劇場小劇場における第5落語研究会42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった。
高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門」という台詞を思い出せず、絶句した文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。
舞台袖で文楽は「僕は三代目になっちゃったよ」と言った。明治の名人、3代目柳家小さんはその末期に重度の認知症になり、全盛期とはかけ離れた状態を見せていた。
以降のすべてのスケジュールはキャンセルされた。引退宣言はなかったものの二度と高座に上がる事はなく、稽古すらしなくなったという。程なく肝硬変で入院し同年1212日逝去した。享年79

想像しただけでも恐ろしい話である。桂文楽がその後急に衰えて亡くなってしまったのもよく理解できる。それまでの落語家としての人生が、最大の汚点を残して事実上終わってしまったのであるから。
実は私は同様の心配を現在のタイガー・ウッズにも持っている。
彼は歴代2位のメジャー選手権優勝14回、史上2人目のトリプルグランドスラム達成を果たした人間である。しかしあれほど一世を風靡したゴルファーが、2012年に大恥をさらけ出したスキャンダルにまみれ、その後復帰後も本調子といえず、今年(2015年)2月のフェニックス・オープンで自己最悪の「82」を喫し、最下位で予選落ちである。彼のプライドはズタズタであろう。(ちなみに彼はその後のトーナメントで、少し復活したようである。)
以上の桂文楽、タイガー・ウッズの例は、自己愛の傷つきを表しており、彼ら自身が自己愛人間であったと主張する意味はないことは誤解しないでいただきたい。ただしそれぞれの分野で名を成した人には、それに相応したプライドや自分自身への期待があるはずだ。彼らだってその例外だったとは考えられない。そしてそのプライドや自己愛にとって、彼らの失敗はどれほど痛手だったかは想像に余りあるだろう、ということだ。


恥による傷つきを自己愛トラウマとよぶ

これらの例が教えてくれること。それは自己愛の傷つきは、一種のトラウマであるということだ。これを「自己愛トラウマ」と呼ぼう。それは人の心を委縮させ、生きる力さえ奪いかねない。ちょうど桂文楽の身に起きたことのように。
 タイガー・ウッズの場合には少し事情が違うのかもしれない。ある情報によれば、彼はイップスに罹っている可能性があるという。とするとこれは重症であるし、完全回復の見込みは薄いことになる。しかしイップスは一種の身体の病気であり、それに陥ってしまったウッズは、運の悪さを認めこそすれ、恥じることなど何もないのだ。(イップスは一種の精神的な病気だというとらえ方をする人もいるが、そんなことはない。練習のし過ぎか、原因不明の理由により、脳の神経回路に混線が起きてしまい、順序立てた運動が出来なくなっているのである。プロのバイオリニスト、ピアニストにもこれは起こるのだ。) とすれば、ウッズはさっさとゴルフに見切りをつけて、解説者や実業家や政治家にでも転身すればいいだろう。彼の頭脳や知名度から見て、相当のアドバンテージを持っていると言えよう。
 しかしもしそうなるにせよ、ウッズが体験する心の痛みは計り知れない。彼はまだこれまで積み上げたプレイヤーとしての経験や名声が失われることになるとしても、とてもそれを受け入れられないのではないだろうか?
どうして恥の感覚はそれ程私たちの心にダメージとなるのだろうか? その詳細は不明である。しかしある意味では、それは体の傷つきと似たような意味を私たちに対して及ぼすから、と考えることができる。
 私たちが例えば電車の中で、近くに立っている女性のハイヒールに踏まれたり、隣の人の傘の先が太ももに刺さったらどうするだろうか? 声を上げたり大げさなジェスチャーで反応してその人を突き飛ばしたり、そこから身を遠ざけたりするだろう。身体はいわば私達自身であり、それが侵襲されることに対しては、私達は全身で防御するのだ。これは生物にとっての自己保存本能に由来する反応であり、それを行わない方がおかしいと言えるだろう。動物だって皆そうする。顕微鏡の下のアメーバでさえ、針の先でつつくと身をよじるようにしてそこから遠ざかるだろう。

しかし私たちの身体は、遠くに存在し直接危害を及ぼされる危険性のないものには、反応することはない。その意味で身体はある大きさを持ち、皮膚という境界を持つ。皮膚を破って侵入してくるものに対しては、先ず痛みや違和感が生じ、それを回避したり撃退するという反応を起こす。そして相手の身体に対しては、その境界を犯さないように、侵襲しないように、という配慮を持つ。同様の反応を相手に与えてしまい、撃退されないためなのだ。
 さて心を持っている人間は、自分の心についても一種の自己愛的なスペースないしは境界を設ける。これは一種のプライドや矜持と言い換えてもいい。そこに入り込んでくるような言葉、それを侵害するような振る舞いには精神的な痛みを感じる。
例えばあなたが学校で最上学年、例えば中学3年生だったとする。部活をしに部室に行くと、そこには下級生の部員がいて、彼らには丁寧な言葉で接してくることが期待されるだろう。部室の掃除やゴミ捨てを下級生に命令されること等ありえないはずだ。むしろ自分がそれを命令する立場なのである。そこで誰か生意気な下級生の部員、例えば中学一年の新入りの部員がため口でなれなれしく接してきたとしたら、きっとあなたはプライドを傷つけられた痛みを感じるだろう。それはちょうど自分の自己愛と言うスペースに傘の先を突き立てられたのと同じくらい強烈な痛みに違いない。

先ほどの桂文楽やタイガー・ウッズのことを考えよう。彼らは落語界の巨匠として、ゴルフ界のスーパースターとして、自分たち自身の存在をとても大きく感じ、周りもそのように扱うことを期待するだろう。エレベーターに乗れば、人は「まあ、こんな有名人と乗り合わせるなんて!」と驚くだろうし、街を歩けば道行く人は驚いたり顔を見合わせたり、サインを求めてきたりするだろう。彼らは次第にそれに当たり前になっているはずだ。するとある日突然自分のプライドが散り散りになるようなパフォーマンスをし、それをメディアを通してみなに知られたらどうなるだろうか? それこそ街を歩くのでさえ、コンビニに立ち寄って雑誌を買うのでさえ苦痛になってしまうのである。これほどの心の傷つきの体験は、ほかにあまりないであろうし、それを私がトラウマと呼ぶ意味も分かるであろう。
この種の自己愛トラウマは、前の章で扱ったアスペルガー障害の人々にも同様にみられる。アスペルガー障害とはスキゾイド・パーソナリティのように、対人関係で心があまり動かず、したがってあまり感動も傷つきもないだろうと思うのは大変な誤解である。確かに彼らは他人の気持ちを読み取ることが不得手かもしれない。しかし自分の心の痛みは普通に、あるいはそれ以上に感じるのである。