2015年8月25日火曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 14/50)

 自己愛トラウマは怒りで処理されるークリントン氏の例

私にとって気になる米国の元大統領がいる。第42代大統領ビル・クリントン氏である。それは彼の8年間の任期(1992年~2000)が私が米国に滞在中の期間にかぶっていたから、ということもある。つまり彼のスキャンダルは、あの頃毎日アメリカのメディアを賑わし、私はそれを毎日聞かされていた。そのうちにクリントン氏が体験したであろう恥を想像し、他人ごとではなくなってしまったのである。そして彼がこの本に登場するということは無論・・・・彼が比較的典型的ともいえるナルシシストだからだ。
クリントンはチャーマーであり、かつきわめて頭脳明晰である。IQ 137と言うのだから大統領としては普通かもしれないが、結構なものだ。スピーチで聴衆の心をつかみ、魅了する技に非常に長けている。どこで何を強調し、どのような抑揚で話すか、そのことをよく自覚しており、利用しようともする。またいわゆるウーマナイザーであることは周囲も一様に指摘している。つまり相手の女性に付け入って利用し、自分の自己愛を満たそうとすることがある。発言にウソが多く、それが彼が偽証罪に問われるきっかけにもなった。
 確かに大統領時代の行為、つまり当時49歳の彼が任期中に当時22歳の実習生モニカ・ルインスキーと不倫関係に陥り、あろうことかオーバルオフィスで性的な関係を持ったことは恥ずべきであろう。しかしそれはこんなことを言っては問題かもしれないが、彼の男性としての魅力を表しているといえないこともない。最近のルインスキー女史のTEDでのスピーチを聞いても、そこにセクハラとしての要素はなかったようである。
  しかし彼のスキャンダルやそれによる彼の恥の体験は計り知れない。彼は一生、どこで誰にあってもあの「青いドレス」の問題と結びつけられる。彼がいかに優秀な大統領として8年間アメリカの政界に君臨したとしても、彼の姿を目にして人の心に最初に浮かぶのはあのスキャンダルなのだ。何という不名誉。誰がそんなことに耐えられるだろうか? おそらく彼くらいのものかもしれない。そして彼が自殺することもなく、今度は奥さんの大統領選に精力的に、あるいは過剰な援護射撃をしつつ助けて飛び回っているということは、彼は相当の「厚皮」だということになるだろう。
大統領としての彼は、癇癪持ちでも有名であったという。Frontline と言うサイトに、クリントン大統領の時代の出来事が書いてる。http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/clinton/interviews/myers2.html
それによれば、彼は毎朝スタッフに当たり散らすというのが普通になっており、それはSMO (the standard morning outburst. つまり「通常の朝の癇癪」)と呼ばれていたそうだ。その頃テレビによく登場していた補佐官のジョージ・ステファノプロス青年などは、真っ先い怒られる役だったらしい。ちなみにこの癇癪は、現在のヒラリーさんの選挙活動にとっても一つのネックにさえなっているという。ヒラリー陣営が批判にさらされると、夫のビルは癇癪を起してしまい、それが却ってヒラリー陣営の印象を悪くしているというのだ。
クリントン氏が最も落ち込んでいる時期であったと言われる1998年、つまり彼の不倫スキャンダルがピークを迎えたころも、一方での彼の怒りは相当のものであったという。もともとは関係ない問題から始まっていたケネス・スター特別検察官による捜査で、どうして関係ないはずのルインスキー嬢との関係について証言されられることになってしまったかについて、怒り心頭であったと言われる。
しかしそのような中で大統領としての仕事は極めて有能に淡々とこなし、あたかもスキャンダルなど起きていないかの印象を周囲に与えた。これもまた彼の「厚皮」に関係していたのかもしれない。


自己愛的な人がなぜ怒るのかーそのメカニズム

ナルな人間がなぜ恥をかかされて怒るのか。ビル・クリントン氏はなぜいつもカッカしていたのか。そのことを説明しよう。その際これまで出てきた「自己愛トラウマ」という概念が重要となる。なぜなら怒りとは、自己愛トラウマによる痛みを癒すのに最も効果的な手段だからだ。自己愛な人は特に傷付きに弱い。そして怒鳴り散らすこと、人を痛めつけることは、彼らにとって何よりも特効薬なのだ。
ここであるニュースを思い出そう。

【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢(チャン・ソンテク)朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。 (201312211041  読売新聞)

私は北朝鮮の政情について特別コメントするつもりはない。ただこれほどの怒りの表現の背後にあったのが、私がいう「自己愛トラウマ」であろうと主張したいのである。自分が出した命令に対して「張成沢部長に報告する」と部下に即答を避けられた時、おそらく金正恩は激しい自己愛的な傷つき、「自己愛トラウマ」を体験したのだ。それが彼にこのような決断をくださせたのであろう。自己愛トラウマはそれだけに恐ろしく、またパワフルである。特に誰にとって何が自己愛トラウマにつながるかが読めない場合が多いことも、事態を複雑にする。それだけに私たちはこのトラウマと怒りの関係を十分に理解しておかなくてはならないのである。
私がこのように言うと、
「強権を振るう独裁者がトラウマを体験している?それでは彼がまるで被害者であるかのようではないか?」
という感想を持つ方がいるかもしれない。しかしここでは自己愛トラウマを体験する人の正当性とか、加害性、被害者性といった問題はいったん脇に置いておく。自己愛トラウマが体験される際、そのトラウマの加害者はしばしば曖昧であったり、加害の意図がなかったり、むしろ立場としては正当であったりする。独裁者が、自己愛的な人間が、凶悪な心を持った人間が、それでも、いや、それだけに自己愛トラウマを抱えてしまうことに不幸が生じる。なぜならそこで生じる途方もないエネルギーは加害行為に向かってしまうからだ。
この北朝鮮での出来事も、もちろん処刑された二人が最大の被害者である。でもこの二人の返答の仕方にトラウマを受けてしまったことが、このような取り返しのつかない出来事に発展した。その意味では自己愛トラウマは、全く理不尽なものと言わざるを得ない。

人の怒る仕組み - 怒りの二段階説

ここで怒りが生じるメカニズムに関して少し説明したい。それは「怒りの二段階説」と言い表される。つまり怒りは、第2段階で生じる。ということは第1段階として何かが生じ、その反応として起きるのだ。そしてその第一段階に起きるのが、自己愛トラウマによる心の痛み、というわけだ。
このプライドを傷つけられた痛みが急激で鮮烈なものであることはすでに述べた。そしてそれこそ物心つく前の子供にはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさら出来ない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの怒りの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常的に見られる自分やクライエントの怒りを検討していくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。
私たちは日常生活でイライラすることが多い。それこそ並んで電車を待っていて、急に誰かに横入りされただけでも怒りが生じることがある。そしてその種の怒りでさえも、結局はこの自己愛やプライドの傷つきに行き着くことが出来る。さらには明白な形で自分の存在が無視されたり、軽視されたりしたと感じられた時には、この感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められた感じがしたなら、それがすでに深刻な心の痛みを招くのである。

健全な自己愛、病的な自己愛

さて以上で怒りの二次的、防衛的な意味合いについては一応強調出来たつもりである。私たちは怒りの背後にはある自己愛の傷つきがあるのだ、ということを自覚することで、自分が他人に向けている感情の正当性に疑いを差し挟むことが出来、結果的に怒りを鎮めることができる場合もあろう。「俺って、なんでこんなに怒っているんだろう?よほど自分が傷つけられたのだ」という反省が生まれるからである。そしてその怒りが表現されてしまい、他人の自己愛を傷つけ、それだけでなく精神的に見でも「処刑」してしまい、さらなる怒りの連鎖を招くといった事態もある程度は防げるかもしれない。
 しかしこの種の自覚を深めることで人は最終的には怒ることがなくなり、社会は平和になるのだろうか? おそらくそう簡単には行かないだろう。多くの防衛機制について言えることだが、それには何らかの本質的な存在理由が伴うことが多い。怒りの必然性や正当性についても検討しておかなければならない。恥の反転としての怒りにも、その人自身のプライドや社会的生命を守るという役割は消えてはいないというわけだ。 
自己愛を正常範囲まで含めて考えるのは現代の趨勢でもある。一つの連続体として自己愛を考え、そこには中心に健全な部分を持ち、周囲に病的に肥大した部分を持つというイメージを考えればよいであろう (1)。ここで健全な自己愛とはわが身を危険から守るという一種の自己保存本能と同根だと考えればよい。そしてその具体的な構成要素としては、自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安全な環境といったものが挙げられよう。

(図は省略)
 

また周囲の病的に肥大した部分には、偉い、強い、優れた、ないしは常に人に注意を向けられて当然であるという自分のイメージが相当することになる。
この自己愛の連続体を考えた場合、怒りとは、そのどの部分が侵害されてトラウマが生じた時も発生することになろう。病的に肥大した自己イメージの部分が侵害された場合についてはすでに論じたが、正常の自己愛が侵害された場合には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生じる。その際は恥よりもさらに未分化な、一種の反射ないしは衝動が怒りに転化するのだ。そしてこちらは一次的な感情としての怒り、と考えるべきなのである。
ただしここに問題が生じる。自己愛が連続体である以上、それが侵害を受けたと感じたのが健全な部分が病的な部分かは、しばしば当人にさえも区別がつかないことがあるのだ。
混んでいる電車で足を踏みつけられた時の怒りという例を再び取り上げよう。その人が自分の存在を無視されたと感じ、大して痛くもないのに踏まれた相手に大げさに咬みつくとしたら、これは病的といえるだろう。しかし実際に足の甲に鋭いヒールが食い込んだ際の耐え難い痛みのために、反射的に声を上げて相手を突き飛ばしてしまう場合もあるだろう。こちらは誰の目にも明らかなトラウマであり、それに対して生じた怒りは正当なものとして映るはずだ。以上の例は両極端でわかりやすいが、大概の場合、足を踏まれて腹を立てた際の私たちの怒りはどちらの要素も伴った複雑な存在であることが多い。