2015年8月23日日曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 12/50)

特殊能力が彼らを自己愛的にする
アスペルガーの人たちは、実際に自己愛を満足させてもおかしくない事情がある場合がある。それは彼らがしばしば知的なレベルが高く、学校で好成績を修めたり、趣味の世界で傑出していたり、芸術等で特異な才能を発揮したりするからである。それらが極端な場合はサバン症候群と呼ばれるが、それほどではなくても通常の人々よりかなり優れた力を発揮する、いわばプチサバンともいえるアスペルガーの方は非常に多い。アスペルガーの人たちがしばしば発揮するオタク性は、いわばその片鱗なのである。
 彼らの高い知的レベルに関しては、良く知られたことである。与えられた知識を整理して頭に詰め込む作業は、彼らにとってはしばしば快楽的な活動となる。学校の成績に優れるということは、子供にとって大きな意味を持ち、進学校においては大きなステイタスとなる。成績に優れることで、担任から目をかけられることであり、クラスメートからも一定の敬意を向けられることになる。それが彼らの自己愛を満たすことも多い。
 私が大学時代に身近に接することができた友人Cは、ある有名進学校の高3になるまでは勉強もせず、クラスにもなじめず、劣等生扱いを受けていたという。このころは自信もなく、クラスでも隅で大人しくしていたというが、たまたま顔を出した化学クラブでDNAについての話を聞いてから生命科学にのめりこみ、たちまち学術書を読みふけるようになった。それとともに英語も一気に語彙数が増え、高3の最後の半年で一気に受験勉強を仕上げて有名大学に入学した。Cにはこれが実に大きな成功体験となったようである。たまたま受けた知能テストでも150(自己申告)を叩き出し、「アタマがいい」は彼にとっての一つのアイデンティティになった。それ以降大学でも定期試験に対する勉強を徹底して一種のゲームと認識し、いかに授業に出ずに最小限の勉強で合格するかについて絶対的な自身を獲得したようであった。大学時代はその頃等に下火になっていた学生運動の活動家の部屋に入り浸る一方では、単位獲得のためにあくせく勉強をするクラスメートを完全に軽蔑しきっていた。試験では直前になり彼が「がり勉」と称するクラスメートのノートを借りまくっては最低の点数でパスするということを繰り返した。Cは時々大学の飲み会に出没しては、空気の読めない、「俺はアタマがいいんだ」オーラを発し続け、「あいつの態度は何だ!」と総スカンを食らうという状況になった。結局大学生活でも学生運動でも仲間になじめないでいたが、大学は無事卒業した。しかし卒後に入った企業では案の定不適応を起こし、半ば自宅に引きこもりのような状態で過ごすこととなった。

アスペルガー障害が特異な才能を発揮するという現状はどのように考えるべきだろうか?IQ148以上の人が属するというメンサという組織でも、そこにいる人のアスペルガー障害を持つ割合は、一般人に比べてかなり高率とされる。きわめて大雑把な言い方になるが、アスペルガー障害には、一部の脳の機能低下の二次的な結果として何らかの機能が促進されるという傾向がある。明確な科学的な根拠はないながらも、十分な傍証がある。なぜ盲目の人に音楽の特異な才能を有するサバンが生じやすいのだろうか? 脳梗塞により一部の皮質の機能が損なわれた後に美術の才能を開花させるということが生じるのはなぜだろうか?
 アスペルガーに見られるような脳の局所的な機能低下、具体的には上側頭溝、紡錘状回、扁桃体、内側前頭前野、といった部位の活動の低下が、脳のそのほかの部位の機能の向上に貢献している可能性がある。この種のシーソー関係は良くあり、機能低下を起こしている皮質に別の領域からのニューロンの進入が生じたりする。大脳の皮質でも機能同士が領土の取り合いをしているというところがあるが、アスペルガー障害を持つ人は、社会脳の機能不全ゆえにその働きが高まるという事情が彼らの特殊能力を支えているというところがある。そのためかアスペルガー障害は他の精神科的な障害に伴うようなスティグマ性がやや低いというところがある。自分がアスペルガーであるということは、その分「アタマガいい」というところが若干あり、その成果発達障害の専門家と言われる人々が、「いやあ、実は僕も30%アスペルガーが入っているんです」などと自虐的に言ったりすることにもつながるのだ。
 アスペルガーの彼らの特殊能力が花開くのは、当然のことながら幼少時、ないしは遅くても思春期前である。サバン症候群の場合には、ごく幼い頃から傑出した能力が明らかである場合が多い。そしてアスペルガー障害自身がそれほど深刻ではなく、むしろそれらの能力の高さを前面に押し出して他人に影響力を発揮することができるのであれば、彼らは自己愛的な満足を得ることもできるであろう。
前出の「ぼくはアスペルガー症候群」の著者Gさんは、小学生のときはいじめにあうこともなく、むしろクラスのリーダー的な存在であったという。発達障害イコールいじめられっこ、という図式が成り立たないことは実は少なくないのである。

孤高であることも、彼らをナルシシストに見せる
アスペルガー症候群を有する人の中には、特殊能力を有するわけではなく、特に傲慢に他人に接しているつもりもなく、自分なりに一生懸命生きていても、自己愛的に見えてしまう場合がある。以下に、本当は自己愛的ではないにもかかわらず、そう見えるアスペルガー者の人たちについて書いてみる。
アスペルガー症候群という概念が一般の人の間に、ある意味で過剰なまでに浸透したのはこの20年くらいであるが、それ以前には、彼らはどのように扱われていたのか? 一部の人たちは「ちょっと変わった人」「変人」「オタク」などと呼ばれ、別の一部は、一種の「パーソナリティ障害」という見方をされていた。その中でも代表的なのが、いわゆるスキゾイド(ないしシゾイド)・パーソナリティ障害である。
スキゾイド・パーソナリティの概念には古い歴史がある。少し古い精神医学の教育を受けた私のような人間には、むしろ「分裂気質」という古い訳語がピッタリくる。「分裂」とは心の機能がバラバラになってしまうことであり、「精神分裂病」、すなわち現在は統合失調症と呼ばれている深刻な精神の病気に通じる概念である。一部の精神科医はこの分裂気質こそが統合失調症の病前性格ではないかと思われていた。分裂気質とは、孤独を好み、あまり対人関係で感情をあらわさない、孤独な人たちの性格傾向を指したものである。この人を寄せ付けない、自分の世界で完結する傾向が統合失調症の世界に近いと考えらえていたのである。
 ここでスキゾイド・パーソナリティの特徴について、例によって「バイブル」であるDSM-5に掲げられた診断基準を見てみよう。
l         家族を含めて、親密な関係をもちたいとは思わない。あるいはそれを楽しく感じない
l         一貫して孤立した行動を好む
l         他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても少ししかない
l         喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない
l         第一度親族以外には、親しい友人、信頼できる友人がいない
l         賞賛にも批判に対しても無関心にみえる
l         情緒的な冷たさ、超然とした態度あるいは平板な感情

このようにスキゾイド・パーソナリティ障害を有する人々は、生き生きとした感情があまり感じられず、人との関係によるぬくもりを知らず、または好まない人というイメージが感じられるだろう。いわばロボットのような人たち、スタートレックのミスター・スポックのようなイメージを思い浮かべればいいだろう。
 このスキゾイド・パーソナリティに該当する人たちとアスペルガー障害とはどのような関係があるのか。その詳細は不明ながらも、現在ではスキゾイドと従来診断されてきた人々の中にかなりアスペルガー障害が混じっていたという可能性が指摘されている。もちろんパーソナリティ障害と発達障害とは概念の成り立ちが全く異なる。パーソナリティ障害は人格の成り立ちであり、成長とともに徐々に形成され、思春期以降になりおおむね固まるものと考えられる。他方アスペルガー障害は発達障害であり、基本的には生まれつきのものである。しかしアスペルガー障害における対人関係上の問題が社会生活上の支障をきたすようになるのは、職場での活動を通してであり、それ以降になって初めて精神科を訪れ、そうとわかる場合が少なくない。それまでは学校では受身的な立場を守り、学業もそこそこにこなしている場合にはあまり明確にそれと同定されないという事情もある。結局幼少時にそれと診断されることがなく経過してきたアスペルガー障害の多くは、以前なら成人になってスキゾイドパーソナリティとして分類されてきたという可能性があるわけだ。
 ここまでスキゾイドパーソナリティとアスペルガー障害の重複部分について、あるいは相互の混同について論じてきたのは、このスキゾイド様の表出、つまり対人接触を苦手とし、人と会ってもニコリともせず、マイペースで事を進めようとするという様子が、見方によっては典型的なナルシシストと誤解されかねないということがあるからである。一つ例を挙げてみよう。
事例)

21歳の女子大生Hさんは、最近付き合いだしたという24歳の男性I君との関係について語ってくれた。I君は某有名大学の大学院の数学科に籍を置き、日々勉学と研究の毎日であるという。これまでに数回デートしたことがあるが、しかしその様子がどうも普通の男性と異なる気がし、相談に来たという。Hさんは天真爛漫な女子大生で、可愛らしく愛嬌もある方だが、中学、高校の間、放課後は近所の塾に通いつめて受験勉強に励んでいたこともあり、男性経験は全くない。大学入学後に、初めての学園祭で声をかけてきたのがそのI君だというが、本当は自分が彼を好きかどうかもよくわからなくなっているという。しかしこれまでの短い付き合いから、I君の振る舞いがとても傲慢で、これから一緒にやっていけるのかが心配だそうだ。ちょうど本で読んだ自己愛パーソナリティに、I君が典型的に当てはまる気がし、ますます一緒にやっていける自信がなくなっているという
 筆者も話を聞いた最初のうちは、I君は典型的なナルの自己チュー人間だと思っていたが、話を聞いていくうちに、少し違う側面が見えてきた。彼はおそらく自分の持つアスペルガー傾向のせいで、Hさんにそう思われているらしいということがわかったのである。
 I君は有名国立大に現役合格し、数学科の大学院に進むほどの成績優秀な青年である。これまで女性とのお付き合いはないが、たまたま訪れた女子大の学園祭でHさんに一目ぼれをし、決死の思いで声をかけたらしい。I君のデートの場所の選び方や、そのぎこちない振る舞いから、彼が全く不慣れな状況で四苦八苦している様子が伝わってくるしかしHさんももともと男性経験がないので、そのようなI君の側面を「男性は皆こういうものなのか」と受け取っていた様子がある。Hさんの話によると、I君はとにかく大学院での研究が優先で、デートの時間も授業の合間の一時間半などを指定してくる。時間が来ればそそくさと大学に戻るそうだ。服装や髪形などにも相当無頓着そうで、いつもほとんど同じアイロンの当たっていないシャツを着てくる。デートでは難しい数学の理論について一方的に話されてしまい、Hさんは全くついていけない。またメール交換なども何時も決まりきった短文でしか返事をしてこない。Hさんがバレンタインデーに手作りチョコをプレゼントしたが、ちょうど次の月に迎えたHさんの誕生日に、I君からは何の誘いもなく彼はどうやらHさんが様々に期待したり気をもんだりしていることに全く無頓着のようであった。大学院のレポートの期限が近づくと、直前になりデートをキャンセルするくせに、一度は別れ際に突然ギラギラした目でキスを求めたり体を触ってくることがあり、まったくムードを大切にしてくれないI君の様子にひどくがっかりしたという。
 Hさんは初めての恋人でもあり、また数学科で将来は学者になるというI君の優れた頭脳や知性を神秘的に思う一方では、「とても強引で自分のことしか考えない人」、としてI君をとらえているようであった。彼女の頭には、発達障害ということが発想になく、その可能性を説明することで、少しはI君の振る舞いを理解した様子であった。