2015年4月11日土曜日

精神分析と解離(5)

ヴァンデアハート先生によれば、(Dbook,P1019世紀、20世紀と、解離の議論は分析でも非分析の世界でもあったが、微妙にニュアンスが違っていたのだという。後者は二つの点を前提としていた。
1.ストレスに出会うと、心の統合能力が一時的に損なわれる。
2.同時に、スプリットオフされた心の部分が発達する。
バンデアハートさんによれば、このうちの1しか認めないのが、分析であるという。この1は、防衛として用いられると説明されたが、2の方は考えなかった。彼によると、この違いは決定的であり、したがって両者の理論的な応用は無理であるといういい方もしている。私はこのヴァンデアハートさんの意見はよくわかるが、一つ問題が生じる。もし2.を認めないとしたら、分析家にとっての別人格は、意図的なお芝居として扱われるか、あるいは患者の側のある種の注意を引くための目論見であると指摘棄却されるということか?
彼はもう一つ重要なことも言っている。ブロイアーもフロイトも、ジャネには反対していて、「ジャネは生まれつきの心の弱さが問題だ、と言ったが違う。むしろ解離が心の弱さを導くのだ」と言った。でもジャネもしっかり、体験が持つ解離への影響も言っているのだ、と。これもその通りだろう。このあたりの議論もやはりフロイトの方が分が悪い、ということだ。でもそのフロイトがそれから一世を風靡するのであるから世の中わからない。

フェレンチも、フェアバーンも、ウィニコットもフロイトに反対だった

 ここで一つ助けとなるのは、フロイト以外の分析家たちは、どうやら本心は違っていたであろうということだ。フロイトの同時代人に限っても、フェレンチも、フェアバーンも、ウィニコットも解離をもう少しまともに扱っている。むしろこの3人はフロイトほどあっさりと解離の概念を棄却しなかったというわけだ。

もっとも早くから声を上げたのは、フェレンチということらしい。すでに1933年に、意識のスプリッティングは幼児期のトラウマに由来するのだ、と述べている。そしてトラウマが繰り返されると、そのスプリッティングがより複雑となり、別々のパーソナリティが形成される、ということまで言っているというのだ。これがいわゆ「言葉の混乱」の論文か。Ferenczi, S. ( 1 933/1 949). Confusion of tongues between the adult and the child. International Journal of Psychoanalysis, 30, 225-230. ここら辺はマッソンの本に書いてあったな。少し読んでみるか。