2014年1月19日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(1)

◆メニューづくり

   初めに
  1.    自己愛とは何か。
  2.     自己愛の風船モデル
  3.     恥と自己愛との関係性
  4.     理想自己と現実自己
  5.     NPDの二類型(カンバーグ型、コフート型)
  6.     獲得されるPDとしてのNPD
  7.     NPDにおける怒りの問題
  8.     NPDの二次元モデル
  9.     複雑な人間としての混合型
こんなかんじか。

1.初めに
自己愛の概念は難しい。わかったようでわからない。ナルキッソスが水面に浮かんだ自分の姿に惚れ込んだ、だから自分を愛するのが自己愛だ、というのは一見わかりやすい。あの人は「ナルシストだよね。」という言い方でもだいたい人は同じようなイメージを浮かべるだろう。でも精神分析の概念に親しむ私たちとしては、フロイトの「リビドーが自分に向いた状態」という考え方あたりから既に混乱する。自己愛的な人間はあれだけ他人を巻き込むのに、そのリビドーが内側に向いているってどういうことだ?というのは私たちが持つ素朴な疑問と言えるのではないだろうか?
最初に混乱を避ける意味で一言。自己愛、ナルシストには二種類のニュアンスがある。「うちの子はナルシストです」と母親が言う息子が、一日中鏡に向かってポーズを取り「俺ってなんて美しいんだろう?」とため息をついているとしたら、これはナルシストと呼んでいいだろう。ナルシストの語源としてはこちらが先である。一者関係的な自己完結的な自己愛。一人で満足しているから周囲はあまり困らない。問題は二者関係的な、対人的な自己愛である。自己満足に対象を要求する。人から褒められる、人を支配するという形で快感を味わうタイプである。私たちが現在自己愛について論じる場合には、この後者を中心に考える。
 もともと水面に映った自分の姿に恋焦がれたギリシャ神話のナルキッソスの話に由来するナルシズムの概念。しかしそれが対人的な病理として主として注目されるのはなぜだろうか? それは「自分はすごいんだ、素敵なんだ」という感覚が具体的な問題となるのは、結局は他者との関係においてそれを実現しようとするからだ。「自分はすごいんだ」と思っている人間が現実の世界で「ほかの人に比べて自分は決して特別ではないのだ」という体験を持ち、それに従って謙虚に振る舞うのであれば、全く問題がない。そうではなくて、周囲を「自分はすごい」という感覚を保証したり、増幅させるために用いるようになると、本格的なPDとなるのだ。
自己愛の議論が難しいのは、対象と自分のイメージの同一視という考え方や、対象喪失により、失った対象への攻撃性が自分に向け変えられる(フロイトの「悲哀とメランコリー」)など、自分と対象のあいだに反転現象や同一化といった現象が起きるというところだろう。リビドーという一種のベクトルを持った心の働きを考えたためにそれがあたかもホースの先から出る水のごとく、その方向を反転させたりする。自分に向かったら自己愛、というわけであるが、本当にそんな風に心が働くのかわからない。第一自分を愛する、というのがわからない。「自分が可愛い」、「自分を大事にする」というのは、誰か他人を可愛がり、大事にするというのとは全く別の心の働きだと私は考える。生身の肉体を備え、その痛みや快適さを直接に味わう運命にある私たちは、それこそ自己保存本能として「自分を可愛がる」運命にある。他人を愛することで、自分に向かうリビドーが減ったり、他人への攻撃が自分に向かう、などということが本当に起きるのかはわからない。単なるレトリックという気がする。
この種のレトリックないしは比喩は英国の対象関係論において盛んに用いられるようになるが、他方ではそれがわかりにくく、抽象的であるという立場も、たとえば米国には存在する。
2.自己愛とは何か
その中で一つ分かりやすいコフートの考えを上げておこう。コフートはもともと伝統的な精神分析から出発したこともフロイトによる自己愛理論を全否定はしない。フロイトの理論に加えてもうひとつの自己愛の発達ラインを考えたのだ。フロイトにとっての自己愛は、自体愛から対象愛に向かう途上にある。まずは自分を対象とみなしてリビドーを向ける状態。その次の段階として、それが外に向かっていく。それが対象愛であるが、病的な状態で退行すると、それが再び自分に向かってきて自己愛神経症(統合失調症)が生まれるという考え。この場合の自己愛は病的なものということになる。それをコフートは否定するわけではなく、対象に向かっていかないけれど正常な自己愛のラインがある、と唱えたわけだ。こちらの方は対象(自己対象)との関わり愛の中で育っていかなくてはならない。
このコフート的な意味での自己愛の考え方が、むしろ一般的に論じられている自己愛といっていいだろう。それは言葉にしにくいけれど、自分を自分として受け入れ、自分を自然に好きになれている感覚。そしてそれは他社と無関係に生じるのではなく、むしろ幼少時から養育者により育てられるもの。愛着とか程よい母親により与えられる環境により育まれる自己の感覚。もしこれが十分に育てられないと自己愛的な障害、コフート的に言えば「自己の障害」が生じてくる。これはわかりやすい。これでいいじゃないか、とも思える。