2013年12月15日日曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題 (14)


昨日から「突出型」ということを書いている。今日で終わる予定なのに。
私がこの思考過程を「突出型」としたのは、人の思考ないしは行動パターンというのは徐々に進んで行く場合には、他人から見たら突出し始めていても、本人の歯止めはかからなくなってしまうことが往々にしてあるということだ。すると自分のやっていることは全然おかしくなくて、周囲の人の言っていることがおかしい、ということになる。
 私たちはよく町で、あるいは職場で、あり得ない服装、あり得ない髪形、あり得ない癖を持っている人に出会う。それを周囲の人は面と向かって注意できずに、その人は突出を続ける。人はある路線に沿った思考や行動を徐々に極端に推し進める際、そこにおかしさ、不自然さを感じない傾向にある。それが長期間にわたって生じたり(長期間かかって完成するアリエナイ髪形、服装など)、短期間に一気に完成したり(おかしな論理、おかしなクレーム、おかしな要求)するが、それに気が付かず、むしろその説得力により周囲の合意を取り付けたりする。
 ではどうして「突出」するのか? 程度は低いが類似の現象が社会ですでに見られているから。すると快や満足体験がその路線に沿う形で形成されるから。(最近穴あきジーンズを見かけるが、あれだって既にそれを履いている誰かがいたから、まねたというのが始まりだろう。)それとその種の「突出」が可能とされるような、つまり突出の凸の部分に対して凹となるような社会の事情があるのだろう。それが顧客や学生の主張や権利を優先し、アカハラ、パワハラ、セクハラの存在を明らかにし、それを無くしていこうという社会の動き。その為に顧客や学生の主張に疑いを挟まず、全面的に聞きいれようという社会情勢が関係しているはずだ。
書いているうちにまたネーミングの変更だ。「突出型」を「突っ走り型」にしよう。ボーダーライン反応を、「アクティングアウト型」と「突っ走り型」に分類するわけだ。アクティングアウト型は、相手に暴言を吐いたり、相手にしがみついたり、手首を切ったり、自殺願望を口走ったりして周囲が動揺したり不安になったりするようなタイプ。突っ走り型は、これまで突出型と言っていたもの。考えているうちに極端になってしまうが本人はその「異常さ」が意識できずに突っ走ってしまうタイプ。
最後に疑問。これらのボーダーライン反応は「未熟さや他罰傾向」の表現なのだろうか?
結論としてはあまり関係ないだろう。他罰傾向と言えないことはないが、今度はそれを受ける側は逆に凹の役割を果たすわけであり、それはむしろ自虐的な傾向と言えるだろう。
 未熟傾向については、そもそも未熟であるということはどういうことかがわからなくなってくる。いつまでも子供のような依存傾向やわがままを発揮する、ということか? でもMPはむしろ自己の権利を堂々と主張するという意味では依存とは異なる。これは要求なのだ。もし未熟になる、の逆が大人になる、ということで、それが個人としての責任を取る、ということを意味するのであれば、現代社会は責任を取る立場に置かれることが特別遅くなっているとは限らないだろう。
 同じことを繰り返す様だが、クレーマーの社会は、「被クレーマー社会」でもある。大学生が取りあえずアルバイトでもと思い、コンビニのレジに入ると、もうすでにお客様に失礼のないような「オトナ」の対応をしなくてはならない。若くして未熟さの許されない社会へのイニシエーションを通過しなくてはならないのである。私は時々自分がコンビニのレジのアルバイトをしたらどうなるだろうと思う。「あの店員は態度が横柄で挨拶もろくにできない」、たちまちクレームがつくのではないかと思う。
というわけでMP現象を現代人の未熟傾向と結びつけ、パーソナリティ障害の表れとして論じることは結局できなかったわけだ。一言で言ってしまえば、不可解な現象である。でも人類は不可解な突出を「流行」という名前で繰り返しているのである。あの不可解な「穴あきジーンズ」やシャツの裾出し(私の世代には決してなれることのない、奇妙な習慣である)のように。(おしまい)