2013年12月16日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(1)

これから少し長い連載が始まる。それは「超」オトナの事情があるからだ。テーマは「恥から見た自己愛パーソナリティの問題」である。パーソナリティ障害とはみなさんもよくご存知のとおり若い頃に形成されることになっている。ちょっと極端に言えば、「三つ子の魂」というわけだ。こんどのDSMVにも書いてある。「[パーソナリティ障害における]これらの行動パターンは、典型的には思春期や成人期のはじめに見られ、時には子供の時期に見られる。」でも本当にそうなの? 自己愛パーソナリティの場合、人生の後に見られるんじゃないの、というのが、まあわかりやすく言えば私の主張なのである。 

そこでこの「パーソナリティイコール三つ子の魂」説について。私はこの考え方にちょっと疑問があるのだ。と言って全面的に反対ではない。
 4,5年前に中学時代の同窓会に出た。結構衝撃的な体験だ。最初はどこのオヤジやオバサンかと思っていた人たちが、話しているうちにタイムスリップでもしたかのように、昔のクラスメートになっていった。その時であった何人かの友人の立ち居振る舞いが、中学時代とほとんど変わっていないのに驚いた。もちろんすごく変わったと感じる連中もいた。しかし何人かについては、変わったのは体重や皺の数や髪の毛の量だけであり、あとは中学時代とそっくりそのままという印象があった。人柄ってもう中学時代にはかなり出来上がっている部分が大きいのだ、と考える理由である。この点に関してはDSM-Vに賛成だ。
 しかしそうでない場合も少なくない。大人になってすっかり化けてしまうということもある。よく後に政治家や芸能人になった人の母校を尋ねるという企画があるではないか。すると近所の年配の人々から「あの子が政治家になるんて、全然想像もつかなかった」などというリアクションに出会ったりする。そう、人は思春期以降大きく変貌を遂げてしまうことがあるのだ。
 もちろん話し方や仕草などについては思春期以降人はあまり変わらないのかもしれない。でも話のコンテンツや迫力が違ってくるのだ。例えば先ほど述べたクラス会で、中学時代には非常におとなしく、はにかみがちなある女性が大変貌を遂げていたのには驚いた。彼女は結婚して子供を持ち、ご主人との関係でいろいろ悩んでいた。そのうえ子どもの教育のことでもいろいろ考えるところが多かったらしく、自分の人生経験について話すときはとても饒舌で自信に満ち、その意味で別人に変貌していた。でも目線のやり方や優しい感じ、独特の気配りは中学時代と少しも変わらなかった。