2014年3月5日水曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲)(6)


いじめの章を、「自己愛トラウマ」の路線でリライトする、ということ
だが、ここもほとんど手を加えたところ(大文字)以外は無し。しか
し「自己愛トララマ」は、少しは定着する可能性がある概念なのだ
ろうか?

2部 いじめ、うつ病、災害と自己愛トラウマ
 第5章 いじめと自己愛トラウマ
1980年代ごろよりわが国でもしばしば問題となっているいじめの問題。それが根本的に解決する方向にあるとはいえない。それは昨今のいじめ自殺に関する数多くの報道から感じられることである。これまでのいじめに関する分析や考察がいまだ不十分なもので解決の糸口がつかめていないことを意味するのであろう。またいじめの性質や特徴は、その時代背景により様々に異なり、いじめの質そのものが変化してきている可能性ある。
 いじめを受けるという体験は現代日本人がこうむる自己愛トラウマの主要なものの一つと考えていい。集団の中でからかわれる、あるいは誰からも相手にされない、そこに存在していないかのように扱われる…。これほど本人のプライドを傷つけられることがあるだろうか?いじめの中でも特に無視は、直接罵声を浴びせられるよりも深刻な自己愛トラウマを生む可能性がある。自己の存在そのものを震撼させる可能性があるからだ。
まず「いじめ問題」を考える私自身の立場を示しておきたい。私は海外生活が長く、異文化体験を通して、集団の中での日本人のあり方についても深い関心を持つようになっている。さらには私自身集団にうまく染まらずに排除されかけるという体験も持ってきた。その立場からいじめの問題を考えた場合、やはりそこに日本文化の影響を否定できないと考える。いじめは深刻なトラウマをもたらす。誰もいじめの対象になろうとは決して望まない。しかしいじめはまた日本人的な心性に深く根ざしたものであり、半ば必然的に起きてしまうのではないか、というのが、本章を通しての私の主張なのだ。
私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることはさびしく、また恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言えるが、そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。
 ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちを排除するという力もしばしば働くようになる。いわゆるスケープゴート現象であるが、本章ではその仕組みを「排除の力学」と呼び、以下に考察していく。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それが犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、病的なのである。
いじめを生む「排除の力学」
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも二つある、と私は考える。一つはメンバーが明白な形で利害を共有しているということだ。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。
もう一つは、集団のメンバーが共に敵ないしは仮想敵を持っている場合である。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」というネガティブな要素が書きこまれることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。そしてその仮想敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。
昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと思う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学は、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。上に述べた二つの条件はそのまま、仲間はずれや村八分を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ(後述)。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与える。そのリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、上記の二番目の条件にしたがって強い「排除の力学」が働き、仲間外れはあっという間に生まれるのだ。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して、別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか? みんな仲良くやろう!」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くやろう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
この「排除の力学」は実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。
 ここで少し前の大津市の事件を例にとって考えよう。この事件は201110滋賀県大津市内の市立中学校の当時2年生の男子生徒が、いじめを苦に自宅で自殺するに至り、いじめと自殺について大きな議論を巻き起こした事件である。
 この事件で問題になったいじめを起こした当事者である生徒たち、それ以外の生徒たち、学校の教員たち、教育委員会の委員たち、それ以外のどのレベルの集団にも同じ力学が働いている。「排除の力学」はすべての集団に共通だからだ。たとえばいじめを目にしても積極的に阻止することが出来なかった中学の教師たち。そこには教師という集団における「排除の力学」が生じていて、いじめを注意する、やめさせるという行為がなぜかその空気に反するという状況があったはずである。しかもここでは生徒と教師の全体という、より大きな集団の中での力学が生じていたことが伺える。いじめを真剣にやめさせるという行為は、生徒教師という集団から排除されることを意味していた為に、それをあえてできなかったのだ・・・・。
 しかも教育委員会もこの生徒教師と利害を共にしていたふしがある。いじめがあったことを認めることは、その大きな集団における共通の「利益」に反することになる。すると学校と歩調を合わせて、教育委員会もまた「いじめはなかった(あるいはあっても自殺の原因ではなかった)」と主張することになる。それに対して疑問を持っても、それをあえて口にできない委員たちはたくさんいたに違いない。皆ある意味ではこの「排除の力学」の犠牲者ともいえる。
さて私はこの「排除の力学」をあらゆる集団のレベルについて論じていることをここで繰り返したい。ということはマスコミも、その影響を受けながら生活をしている私たちも入っている。これを書いている私も該当することになろう。例えば私はこの原稿を書いている今、私は日本の出版の世界のことを意識している。出版社の意に大きく反してはいないだろうか。この本が店頭に並んで、私の文章を読んだ人が、「これってどうかな」と思われないようにするにはどうしたらいいか、など。
この「排除の力学」について考えることは、いじめのトラウマについて「だれが加害者か?」という問題を一気にあいまいになる。ある意味ではこの力学自体がいじめの加害者を生み出す原因ということになる。そこではいじめを受けた側にも同じ力が(逆方向に)及んでいるわけであり、状況が変ればそのベクトルが反転して自分が他者をいじめる側になる、ということはいくらでも起きうる。というよりその反転を恐れる心理が、いじめる側の力となっているのだ。
このように考えた場合、いじめる側の大半は、自分が犠牲になるのを回避する目的でいじめの側に回るわけであり、それなりに心苦しい体験をすることになる。いじめが生じていることを外部から指摘されたら、その人は否認したり、口をつぐんだりせざるを得ないし、いじめが露呈したら「本当にどうしてこんなことが起きるんでしょうね」という人ごとのようなコメントをするしかない。ある雑誌で、大津市の教育長は、「なぜお役所仕事の対応しかできないのか?」という問いに、「わかりませんね・・・・。私もなぜなのかな、と思っている」と答えたというが、実際にそれが彼の本音に近いと考える。
ちなみにこの「排除の力学」はその集団の外部にまでその影響力を及ぼしかねないということも重要である。本来会社に対して第三者的な立場であるはずの会計監査人さえも、この種の力のためにまともな仕事ができないことも少なくない。外部から来た人も、その集団に属した瞬間に外部性を失ってしまうほどに「排除の力学」は強力に働くのだ。このように書くとき、私は2011年に解雇されたオリンパスの元社長マイケル・ウッドフォード氏の事を考える。同社の改革を目指して乗り込んだものの、抵抗勢力の強大さからそれをあきらめたという経緯と理解している。彼が体験したことも別バージョンの「排除の力学」だったのだろうと思う。
「排除の力学」への文化の影響
「排除の力学」への文化的な影響はどうだろうか?「排除の力学」は日本社会の集団に独特の現象なのだろうか? そしてその顕著な結果として生じるいじめもまた日本文化に特異的な現象なのか? 私が長年滞在したアメリカの例を考えよう。アメリカのいじめは個人と個人の間に生じるというニュアンスが強い。クラスの生徒の多くが特定の生徒をいじめるという形を取りにくいのだ。そしていじめ対策に力を注ぐのは、クラスを担当する教師というよりは、学校専属の心理士やソーシャルワーカーである。その意味でアメリカのいじめは、学校という場で生じた個人間の加害-被害体験というニュアンスがある。
実際日本とアメリカでは、暴力事件が起きた際の学校側の対応はかなり異なる。学校で学生同士が暴力を働いた場合は、警備員や警察が呼ばれるのが通例である。現にSchool Resource Officer” (SRO)と呼ばれる警官を常駐させている学校も多い。暴力は、身体的、言語的を含めて放っておかれることは普通はない。日本のいじめのように、教師も含めた学校全体の雰囲気が、いじめを見てみぬフリをするというところがやはり日本的なのではないか?そしてそれが「いじめを公然と批判すると、自分が排除されてしまう」という「排除の力学」の最も際立った特徴なのである。
日本の均一性こそが、いじめによる自己愛トラウマを生む
いじめの問題を考える時、私がそれと関連した日本の集団の特徴として考えるのが、その構成メンバーの均一性である。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせ、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。そのことが翻って私たち日本人の体験するいじめによるトラウマの一つの大きな原因になっているというのが私の考えである。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。その目立ったこと・・・・。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して違和感を感じたのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと似た者同士の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げている。そしてそもそも彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。
 私が米国で精神分析のトレーニングを行っていたときのことも思い出す。クラスを構成していたのは、40歳代白人男性(アメリカ生まれ)、20歳代白人女性(アメリカ生まれ)、30歳代パキスタン人の男性、30歳代メキシコ人男性、20歳代後半のコロンビア人男性、そして30歳代日本人の私である。人種もアクセントもバラバラ。こんなグループではメンバーのそれぞれが違っているということを、初めから前提とすることでしかまとまらない。アメリカ生まれで白人男性であることはこのクラスではマイノリティーを意味してしまうのである。このような集団にいると、日本語のような敬語の存在しない、いわば究極のタメ語である英語は極めて便利だ。英語を用いることが、さらにメンバー間の格差をならしてしまう効果を持っているからである。
「場の空気を乱してはならない」
十数年間のアメリカでの集団のあり方にある程度順応してしばらくぶりに日本に帰ると、そこでの集団生活に私は大きな違いを感じ、またそれに当惑した。お互いに似た者同士ですぐに生じる場の空気の読みあい。そしてその空気を読み、それを乱すまいとする強い自制が必要となる。これに関する私の「異文化体験」を一つ例にあげよう。米国から帰国して最初の一年間、私はある精神科の病院で働いた。そこでは一つの病棟に配属され、40人程度の患者さんのうち約半分を担当したが、かなり頻繁に病棟に出入りしていたので担当以外の患者さんたちとも顔なじみになった。そこでの予定の一年間の期間の終了があと3ヶ月に迫ったので、その旨を病棟全体にアナウンスメントをしたい、とスタッフ会議で申し出た。実は私が一年で去ることは最初は病棟の患者さんたちに伝えていなかったのだ。(これはこれで問題かもしれないが、ここでは論じないでおく。) アメリカではこのような場合、それがかなりはっきりした予定であれば、3ヶ月ほど前にはその予定を伝えるということがよくあった。人は別離の際に、十分なモーニングワーク(喪の作業)が必要だということだが、この3ヶ月という期間自体に深い意味はないものの、まあまあ適切な配慮と思っていた。そこでスタッフに、私が去る3月の3ヶ月前の12月ごろに、そろそろアナウンスメントをしたいと申し出た。しかしスタッフからの反応は全体として消極的なものだった。「いや、まだいいでしょう」という反応が大半だったのである。そこで私もその時はあきらめ、年が明けて1月になり、「そろそろ・・・」と言い出したが、「まだ駄目だ」という。結局退職の予定日の3週間前になって、患者たちに「実はあと3週間で、私はこの職場を去ります」と伝えたわけだが、スタッフの中には「出て行く一週間前に伝えるのでもいい」という意見もあった。
 私はこの日米の顕著な違いに興味を持ち、その理由を病棟のスタッフに尋ねたが、はっきりとした答えは返って来なかった。しかしなんとなくわかったのが、「何もそんな前から、「退職をするということを早く言うことで、患者に混乱を与えることはない」という理由だった。「無用な混乱を与えたくない」、つまり「場の空気を乱してはいけない」というわけだ。私はこの考えを極めて新鮮なものとして受け止め、同時に一種の逆カルチャーショックを味わった。そして気になりだすと、実は同様の場面に頻繁に出会うことに気が付いた。2011年の福島県の東電における事故の際も、深刻な事態が起きているにもかかわらずそのアナウンスが遅れた理由を突き詰めると、「無用な混乱を避ける」ということらしい。最近のいじめの被害者の自殺の問題で、学校側や教育委員会が、その存在を明確にしなかった理由についてもそのようなニュアンスが感じられる。
この「場の空気を乱さない」の特徴は、その結果生じることはさておき、今、ここでの場の空気を最優先するという点だ。私が退職することを急に知ったときの患者さんたちの混乱はまだ先のことであり、現在の場の空気を乱さないことが最優先される。
ところで内藤朝雄氏(2009)はその著書で私たちが従う秩序を「群生秩序」と「普遍秩序」に分け、特に前者についていじめとの関連で論じている。私がここで言う「場」とはまさに彼のいう「群生秩序」に相当するだろう。内藤氏はそれを「『今・ここ』のノリを『みんな』で共に生きる形が、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である」、と表現しているが、この「今、ここのノリを守る」という点がまさに場の空気を考える上で重要なのだ。
とにかくこの「集団を混乱させてはいけない」、「場の空気を乱してはいけない」というのは極めて日本人的であり、おそらくは日本人の対人場面における「皮膚感覚」に関係しているというのが私の考えである。日本人は集団でいる時、あるいは単に誰かと二人でいる時、相手の気持ちへの感度が高く、場を読む(感じる)力が強すぎて、それにより自分を抑えたり、相手に迎合したりということがあまりに頻繁に起きるのではないか。証明のしようがないが、体験上そう思える。この件については後ほどもう一度論じたい。

上下関係がいじめの素地にある?「ジャングルの掟」
私が日本での集団に再適応する過程でもう一つ印象に残ったことがある。それは日本の集団にごく自然に格差、ないしは上下関係が発生していることである。すでに日本における集団の均一性や、場の空気を読む傾向について述べたが、それはメンバー間が平等ではないということと表裏一体なのだ。集団の中に気を使わなくてはならない相手がいるからこそ、空気を読む必要が生じるのである。このことは私にとっては逆カルチャーショックであった。
 仕事上の上司と部下の関係はもちろんだが、先輩後輩関係、年上と年下の関係、正社員か派遣か、などの「上下関係」は人が集まれば自然発生的に生じ、それが敬語や丁寧語の用い方にすぐ反映される。それを無視する言葉遣いは「タメ語」と言うわけだが、これには決していいニュアンスはない。
 もちろん上下関係がはっきりしている中で、先輩が後輩を教え、指導するという関係が成立するのであれば、それでいい。しかし時には上司や先輩はかなり無理な注文を部下や後輩に持ちかけるように見受けられる。そこに上司や先輩の側の一種のサディズムを感じることすらある。人間が他者との関係で体験する苛立ちの自然な表現が、先輩の側だけには許容されているというニュアンスもある。日本社会での先輩後輩関係は、この種の気安さ、それゆえの一方的な感情表現、批判、叱責といったことが比較的制限なくパワハラの方向に進んでしまう可能性を持っているのである。そしてこれがいじめの原型の一つのように思えてしまうのだ。そしてこの種のパワハラにより生じたいじめには、「排除の力学」に見事に作用することになる。
 本来は上下関係がないところにも、無理やりそれを作り上げてしまうのが、いじめの恐ろしいところである。自己表現の強弱、身体的な優劣などが根拠になることもあれば、「すでにいじめられている」ということが理由になるかもしれない。そうしてその結果として生じるのは、まさに弱肉強食の世界としか言いようがない。私がいじめの現場の描写などを読んで思うのは、これはまるで動物界の出来事だと同じだということだ。弱肉強食のことを英語でrule of jungle (ジャングルの掟)というが、まさに野生のサルの世界で起きているような事態が学校でも生じている。そこで特徴的なのは、教師もその一員であり、ある意味ではボスザルだと言うことだ。ボスザル(教師)は力の強い子ザル(いじめを行う生徒)には甘く、時にはおもねるような態度をとる一方で、それ以外の子ザルには厳しい。また力のない大人のサル(教師)は子ザル(生徒)以下の扱いを受けかねないのである。
 似た者同士の集団では半ば約束事のように上下関係が生じるというパラドクスが存在するわけだが、そこには日本人の均一さが関係しているように思う。日本人はある程度気心が知れていて、互いに多少は違っていても高が知れていると感じる傾向があり、それだけ他者に対して侵入的になりやすい。
他方のアメリカ社会では、個人個人がお互いを警戒し合い、そのためにかえって尊重するというところがある。敬語が存在しないから、会話はことごとく「タメ語」が標準である。非常にざっくばらんで気安い会話を、身分の差を越えて行なうように見えて、しかしプライベートなことには決して不用意には踏み込まないような慎重さが要求される。
 ではジャングルにもなぞらえることのできる日本の学校にとって必要なのは何か? そこでできるだけいじめトラウマが生じないようにするためには? それは外部の秩序の導入なのであろう。私が通っていた小学校は秩序が保たれ、いじめなどはあからさまに起きる余地はなかった。それは教師が圧倒的に怖かったからだ。しかし教師は怖いばかりではなく、やさしくもあった。少なくとも毅然としていた。人の集団はそのような外部の力により秩序を保つ。外部の強制力がなくなったらすぐにでも野生に戻るようでは情けないが、外部の強制力は、少なくとも秩序を破ろうという発想を奪ってくれる為に、ある程度は平和な生活を保障してくれる。現在のわが国で生じている学校のいじめの元凶は、その圧倒的な閉鎖性にあるだろう。そこでは教師も権威を失い、その内部に取り込まれてしまっているのである。学校に警官を常駐させるような外部性の導入は、残念なことではあるが、いじめの対策として必要ではないだろうか?
日本人の対人感受性もまた、いじめの元凶か?
ここで私がこれまで主張したことをいったん整理して、私の仮説に向かおう。
人間は社会的な動物であり、集団から受け入れられることで安心し、孤立することで大きな不安を抱く。そしてそこに関わって来るのが、「排除の力学」であり、おそらくそれがいじめの原型となる。そしてそこには日本における集団のメンバーの均一性が大きな影響力を持つと考えられる。
ではどうしてこれほど日本の集団では「排除の力学」が働くのであろうか?そしてここからが私のかねてからの持論であり、本章における仮説なのだが、これは日本人が対人場面で持つ感受性の高さが関係しているように思えるのだ。日本人はたとえ個人の意見や感情を持っていたとしても、他人の前ではその直截的な表現を控えることが多いが、それは相手の感情を感じ取り、たとえ二者関係においてさえも空気を読んでしまう、ないしは「読めて」しまうからではないだろうか? 
 先ほど述べた群生秩序の話にしても、それが「今、ここのノリ」を重んじるのは、それが今現在の対人的な皮膚感覚を刺激しているから、ということになる。それが痛みを発している以上、それを宥めてやり過ごすしかないのだ。
 私が米国人の集団にいていつも感じていたのは、この種の感受性の希薄さ、なのである。彼らは他人の前で自己主張をするとともに、相手を非難し、厳しい言葉を投げかけることがある。それは傍らで聞いていてハラハラするほどである。ただしお互いが直接的な表現を交わすということに慣れている社会なので、簡単に気色ばむことはなく、むしろ理詰めで相手を説き伏せる、説得するという習慣が出来上がっている。
米国の軍人病院で、ある上級医師ドクターDに神経内科の手ほどきを受けていた時のことである。米国での研修を始めて間もない頃だった。神経内科の病棟を回診していたら、ある悪性の脳腫瘍を病んでいた患者が、その医師のもとにやってきて「先生、私の脳腫瘍はひょっとしたら良性、ということはないでしょうか?」と尋ねた。彼はいかにも頼りなげで不安そうであった。するとその患者の主治医でもあるドクターDは極めてきっぱりと「いや、この前説明したとおり、あなたの腫瘍は悪性です。」と言い切った。患者はいかにも悲しそうな表情で、すごすごと去って行った。私は「こんな時、日本だったら少しは言葉を濁すか、もう少し柔らかい言い方をするのではないか? やはり文化の違いだな。」と思った。
 ドクターDはラテンアメリカからの移民の子孫で強い南部なまりを持っていた。それからさらに彼の事を知ることになったが、その気持ちの通じなさ加減は相当のものであった。いつもニコリともせず、冗談の一つも通じないのだ。ロボットと一緒にいるような感じで何を考えているのか分からない。しかしそれでいて彼と一緒の研修が終わると、食事に連れて行ってくれたりもする。アメリカ社会ではこんなレベルの交流が普通なのだ、と思った記憶がある。お互いある程度以上には相手の気持ちをわかろうとせず、それでも均衡が保たれている関係。それはそれで悪くない、とそのうち思うようになった。少なくともドクターDは、患者に嘘はついていないという意味では自分の役割を果たし、ある種のマナーを守っているのだな、と思うようにもなったのである。
 ところでこのような日本人の対人感受性の高さに貢献しているのが、実は日本人の均一さといいたい。皆が同じような顔立ちをし、同じ髪の色と眼の色をしているから、相手を数段高いレベルで感じ取り、理解してしまう。もちろんそれでも相手を十分には理解しえないかもしれない。しかしアメリカ社会のように、相手を得体のしれない、何を考えているか分からない人と感じて、身構えてしまうようなあの緊張感は私たちの社会にはない。何しろ向こうは、ハイスクールでクラスメートと喧嘩をすると、相手がカバンからピストルを取り出すかもしれないような社会なのだ。もし日本の外国人がこれからますます増え、職場でもクラスでも3人に一人が外国人という社会になれば、おそらく「排除の力学」の働き方は違ってくるであろう。
最後に 「解除キー」の効用
以上いじめによるトラウマの問題について論じた。最後にいじめの対策について繰り返して述べておきたい。「ジャングルの掟」を破る一つの有力な手段は、外部を導入することだ。場の空気に影響を受けないような存在の力を借りるということである。このことはしかし次善の手段だということも申し述べておきたい。おそらく最も勧められるのは人々の内部告発的な動きである。理不尽なかたちでいじめによるトラウマを受けているという自分の存在を外部に知らせることだ。
しかし日本社会では内部告発をしたものを保護する習慣はあまりない。逆に彼らが裏切り者として扱われてしまうほど、日本の群生秩序は強いのだ。するとそれを打破するだけの装置を外的に作るしかないのであろう。前出の内藤朝雄氏は学校に警察や法を持ち込むことを「解除キー」と呼んでいるが、それは群生秩序が外部の秩序を意識することで解体する方向に向かうための決め手のひとつといえるだろう。
参考文献
内藤朝雄「いじめの構造」(講談社新書、2009年)



2014年3月4日火曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲)(5)

もうこの章も全然変えずに済んだ。アップするのもおこがましいから、小文字にして色も薄くしよう。

4章 「モンスター化現象」とトラウマ
 いま「モンスター化現象」なるものが我が国のいたるところで起きている。生徒が、保護者が、部下が、カスタマーが、患者が、無理難題を押し付ける。モンスターたちに無理難題を押し付けられ、責め立てられる教師や管理職や店員や医療職従事者は、それによる被害や、場合によってはトラウマを受けている。教師や管理職や医療従事者の中にはそれでうつ状態に陥ったり、仕事を休んだりするということも起きている。一体日本で何が起きているのだろうか。俺は一種のいじめと関係あるのだろうか?どうして日本人はこのような形でトラウマを与え合っているのだろう?
モンスター現象のひとつの説明としてよく出会うのが、第 章の「現代型うつ」の際に聞かれる説明である。つまりそれは現代人の未熟さや他罰性のせいだというわけだ。
 たしかに現代の日本人の親たちが未熟化し、そのために駄々っ子のようにわがままなふるまいをするのがモンスター化現象ではないか、という議論には一定の説得力がある。これに対する私の姿勢をひところで言えば、次のようになる。
モンスター化は、むしろひとつの社会現象として理解すべきであろう。そこに表れる一見他罰的、依存的、あるいは未熟なふるまいは、実は私たち個々人が潜在的に備えているものであり、それが顕在化するような状況が社会で整っているということを意味するのではないか?
私がこう考える根拠を以下に順を追って説明したい。

モンスターたちを未熟とする論拠
モンスター化は人格の未熟さだという説はどのような理論的な根拠を持っているのだろうか? モンスター化現象の一つとして、いわゆるモンスターペアレントを例にとってみよう。モンスター的なふるまいを見せる親御さんたちのことだ。そしてこのテーマでしばしば引用される文献として嶋崎政男氏の「学校崩壊と理不尽クレーム」(1)を読んでみる。
嶋崎氏によれば、モンスターペアレントの問題が生じ出したのは1990年の後半か、あるいは公立学校で学校選択制が導入された2000年の可能性もあるとする。ただ社会の耳目を集め、マスコミがこぞって取り上げるようになったのは2007年であったという。「投石での窓ガラス破損に弁償を要求したら、親が『そこに石があるのが悪い』と言った」とか「学校で禁止されている携帯電話を没収したところ『基本料金を支払え』と親が言った」という例は有名らしく、他の関連書にもしばしば登場する。
本書で目に付いたのは、医療現場の崩壊と教育現場の崩壊を比較し、ほぼ同じ現象が現在起きつつあることを示している点である。小松秀樹氏の「医療崩壊」(2)は、この10年で医療関係訴訟は倍増したという事実を伝えている。そして「崩壊しているのは、医療だけではありません。教育現場の崩壊は医療よりももっと大きな問題です」と記しているという。このことはこの現象が日本のあらゆる場面で生じている可能性を示唆している。
嶋崎氏の著書では、モンスター化現象の「原因」について触れている。彼はまずモンスターペアレントの問題が、彼らの年代にあるとする。この問題が深刻化した1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼ばれ、共通一次世代とも言われた人々でもある。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説(3)を引用している。つまり「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。
 嶋崎氏はさらに1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことにも言及している。それを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、「教師への反発、反抗は当たり前」という感覚を持つようになったことは容易に頷ける、とも書かれている。
 モンスターペアレントに関する論述は多いが、その原因についての論調はこの嶋崎氏や諸富氏のそれと類似しているという印象を受ける。そこでこれを「未熟なパーソナリティ説」とでも名づけておこう。

 モンスター化を社会現象としてとらえる

この章はさしあたり「未熟なパーソナリティ説」の検証を主たる目的とするわけであるが、少し話を戻して、モンスターペアレント現象についての基本的な捉え方について考えたい。
 ある時代の社会においてその頻度や程度が目立つ現象を捉える方法としては、大きく二つあると筆者は考える。一つは社会現象としてとらえる方針であり、もう一つは個人の持つ障害や疾患の蔓延と見る方針である。両者はもちろん共存していいし、その方がむしろ普通かもしれない。
 前者については、社会でその時代に顕著となっている問題について多くの社会学者や評論家が取る見方だ。また後者を取る場合には、現代人の身体や脳のレベルでの何らかの機能異常が増加しているとみなすわけである。
 前者の例としては、60年代、70年代に日本に蔓延した学生運動や1990年代から問題化している学級崩壊の問題が挙げられるであろう。あるいは昨今のいじめの問題や教員のうつ病や退職の問題など数多くの問題がこの例として考えられることになる。
後者としては、例えばアスペルガー障害(広汎性発達障害の一種)がある。ここ20年で圧倒的に目につくようになっている。しかし実数が増えているのか、それについての社会の関心が増したせいかは不明だ。発達障害の代表であり、遺伝的な影響の強いアスペルガー障害は、もちろん精神医学的な障害の一つとして数えられる。
ところである現象が社会現象なのか、精神の病なのか、という区別は実は決して単純ではない。むしろ両方が共存する方が普通だと私は述べたが、それは精神の病が社会の影響を受ける場合が多いからだ。
 例えばアスペルガー障害の例では、マスコミ関係がこの問題を取り上げ、出版業界が関連書籍を出すことが、人々がこの病気に関心を持つことに拍車をかけ、見かけ上の症例数を結果的に押し上げている可能性があろう。ある時代にその社会に特有の子育ての仕方というのがあって、その障害の発生率に関わっているかもしれない。
 こうなると社会現象(Aとしよう)か精神の病(こちらはBとしよう)かは、ABか、という議論ではなく、ABか、あるいはその逆のABか、という相対的なものになることがわかるだろう。そして「未熟なパーソナリティ説」はどちらかといえばABという主張なのだ。パーソナリティの未熟さとは、精神の病とまでは行かないが、個人が持っている問題や病理を意味するからだ。しかし私はそれについては否定的で、むしろABではないか、という提案をしているのだ。
 その根拠を二つ挙げよう。ひとつは社会現象は急速に移り変わることが可能だが、人間の精神の病理は簡単には変わらないからだ。人間の脳の機能が未熟になるという変化が、この20年くらいで急に起きるとはとても思えない。むしろ社会の変化が個人の病理をうき立たせる役割をしている、と見るべきであろう。
 そうしてもう一つの根拠。モンスターペアレント達が、モンスターぶりを発揮するような場面以外では、普通の社会生活を送っているということだ。その意味では彼らは私たちと変わらぬ人々であるという事実によるものである。
以上の二つの根拠について以下に順を追って述べたい。

クレイマー社会は、被クレイマー社会、被トラウマ社会でもある
私が特に注目しているのは、現在の日本にモンスターが多く存在しているということは、社会がそれを許容する様な培地を提供しているという事実だ。これを私は「クレイマー社会は被クレイマー社会でもある」と表現したい。何しろ両方が同じ社会に住み、ある人はクレイマーとなる立場と、クレイマーを受ける立場を両方体験している可能性がある。父兄として厳しい要求を学校につきつける男性が、勤務先のカスタマーサービスで手ごわいお客の前で冷や汗を流しているのかもしれないのだ。
人が自分に与えられた権利を主張するという、ある意味では当然のことが、ここ2030年で日本社会でもようやく行われ始めた。他方では、それに対して主張をされる側がどのように対応していいかわからないのであろう。ちょうど人々が一斉に柔道の技を教わったものの、受身の仕方を知らずにいるように。結果として主張をする側がエスカレートするという事態が生じているのだ。
 そのために例えばクレイマーからの電話を長々と切れないというような現象が生じる。そしてそのクライマーの態度が激しければ激しいほど、その対応に当たる人はそれをトラウマとして体験し、一部はうつになり、一部は「新型うつ」の形をとり、そしてまた一部は・・・自分自身がモンスター化するのかもしれない。
先日も近くのコンビニで、店員の対応が悪いと猛烈な勢いで食って掛かっている客を見かけた。若い店員は平身低頭だったがそれでも埒があかず、困り果てていた。このような時、かつてのアメリカでの生活が思い出される。米国では誰かが声を荒げた時点で、「力の誇示 show of force」となるのが普通だ。つまり警備員や警察が呼ばれることが多い。怒鳴ることは「言葉の暴力」であり、人を殴ったり物を壊したりする「身体的な暴力」と同等の反社会的な行為とみなされる。
一般にアメリカでは人前で怒鳴るのは覚悟がいることだ。人はすぐ「力の誇示」に訴えようとする。結果として制服の人々が現れればあっという間におとなしくなるしかない。下手をすると逮捕されてしまうからだ。
 それに比べて日本では怒った市民への対応が非常に甘い。まず別室に招いて宥めようとしたりする。酷い時は派出所で暴れる酔っぱらいを警官がなだめようとしていたりする。
 実は私はそのような平和な日本が好きなのだ。それに一時的に激昂した客や患者も、なだめすかされ、謝罪することで、大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はクレイマー化、モンスター化するのである。

「お・も・て・な・し」とも関係している
もう少し言えば、このモンスター化の問題、日本人のおもてなしの心ともかなり関係しているのだ。たしかに私が「もてなしの精神とモンスター化は表裏一体の関係にある」と言えば、奇妙に感じられるかもしれない。しかし他人をもてなすことが、モンスター化の誘因となる、ということは十分考えられることなのだ。もてなすという善意に基づく行為が、それによりトラウマを受けてしまう原因となるというのは何とも矛盾した現象といえよう。
 日本はもともともてなしの文化と考えられ、サービス業の質は極めて高いレベルにあることが知られている。そしてその上に昨年の流行語大賞に「お・も・て・な・し」が候補として挙げられることにはどのような意味があるのだろうか? 現代の日本人の精神性が最近になってさらに高められ、愛他性や博愛の精神が日本人の行動の隅々まで行き届くようになったのだろうか? いや、そう考えるのは全然甘いだろう。
 「おもてなし」は、一種の戦略としてとらえられるべきなのだ。飲食業そのほかのサービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかということへの調査研究が進み、顧客がより心地よさを感じるような対応を各企業が目指すようになったわけだ。つまりは市場経済の原則に従ったものである。ちょうどコンビニ間の競争が激化したおかげでお弁当がよりおいしくなり(あるいは少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じである。今のコンビニのパン売り場に何種類の、それでも厳選された菓子パンが並んでいることだろう?私が小さい頃は、パン屋さんに行っても丸いアンパンと楕円形のジャムパンと、グローブ型のクリームパンと渦巻き型のチョコレートパンの4種類しかなかったと記憶している。
 昔は人のサービスは今ほど行き届いてはいなかった。JRの前身の、「国鉄」といわれていた時代の改札口で、切符切りバサミをパチパチやっていた駅員さんは、いつも愛想がなく仏頂面だった。近距離のタクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺ったものだ。
それでも諸外国よりはましだったのであろう。私は米国に留学している間には、店員に愛想よく扱われるという発想はあまり持たなくなっていた。彼の地での客の扱いはかなり大雑把である。客を待たせて店員同士がおしゃべりをするということはよく見かけるシーンだった。
 2000年代に帰国して再び暮らすようになった日本は、サービス向上の努力や民営化の影響で、以前よりさらに改善されたという印象を持った。お店の従業員はみな顧客にとても愛想がいいのである。コンビニで100円のアイスを買っただけで手を胸の前に合わせて最敬礼されるなど、留学前にはなかったことだ。
 こうなるとお店間のマナーの良さは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員のいる店はそれだけで目立ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことを至上命令として刷り込まれている店員は、モンスター・カスタマーからとんでもない要求を突きつけられて一瞬絶句しても、「大変申し訳ありませんでした」とまず受けてしまうことで、無理難題を受け入れる方向性を定められてしまうのである。
 今の時代に「お・も・て・な・し」が改めて流行語になることは興味深いが、これも日本にオリンピックを招致するための戦略から発していたことを忘れてはならない。そしてその時点で私たちは諸外国からの訪問客からの無理難題を聞かざるを得ない立場に自らを追い込んでいるのではないかと、少し心配になる。「お・も・て・な・し」は確実に、カスタマー増長の一因となっていると思う。
本書をこれまでお読みの方は、この問題は自己愛トラウマとも結びついていることを理解されるかもしれない。「おもてなし」を受けて当然と思っているカスタマーは、ちょっとやそっとでは満足しない。高いお金を出してファーストクラスに乗った時のことを想像していただきたい。搭乗後、何かの都合で飲み物がエコノミークラスの人たちに先に配られているのを知ったとしたら、きっと大憤慨するだろう。「高いお金を出したのに何だよ!」とファーストクラスとしてのプライドを痛く傷つけられるに違いない。人より先に飲み物を飲めないので怒る、とはいかにも子供っぽいが、プライドを傷つけられた人間には極めて重大な問題なのである。モンスター化している人はこの、本来受けるべきサービスを受けさせてもらえないことから来る自己愛的な傷つきに反応している可能性があるのだ。

モンスター化は普通の人に生じる
「未熟なパーソナリティ説」について考えて、さらに考える。果たして彼らの訴えは病的パーソナリティと言えるレベルなのだろうか?モンスターペアレントの持ちかける要求はそれほど突拍子もなく、非常識極まりない、ありえない発想なのか? 
 尾木直樹の「馬鹿親って言うな!」(4)には次のような例がある。2007年に放映されたある番組の中で、小学校教員が、「遠足があった時、ある子の母親から「自分は作れないので、先生もうちの子の弁当を作ってくれないか」「どうせ先生だって自分のを作るんだから、もう一つ作るのは簡単でしょ?」と言われたという。しかしスタジオにいる人たちが一層驚いたのは、その先生が「それを引きうけた」と言った時であった。「だってその子が遠足に来られなくなるから・・・・」というのがその理由であったという。
 もちろん「先生に子供のお弁当を作ってもらう」ことを要求する事が、常識はずれであることは確かなことだろう。だが、私たちは日常的に極端な発想を持つことは決して珍しくなく、時には口に出すこともあるものだ。実際にそれを教師に本気で要求するとなると話は別かもしれないが、それでも先生との話の流れや関係の持ち方によってはあり得るかも知れない。
もし先生が子供のお弁当作りについて相談された母親に「お母さん、お弁当を用意するのは思ったほど面倒ではありませんよ。私も毎日自分のものを楽しんで作っていますよ。」と言ったとしよう。「ではぜひ、うちの子供の分も・・・・」と言い出す母親がいてもおかしくないのではないか。それにそれを言われた先生もふと優しい考えを持ってしまったのかもしれない。「このお母さんはとんでもないことを言っているけれど、○○ちゃん(子どものこと)に罪はないわね。そしてこのお母さんのせいで遠足の時に一人だけお弁当なしになったらかわいそうね。いざという時のために余分に作っていこうかしら。」こうなるとこの教師の反応はさほど極端ともいえなくなってくるのである。
モンスターペアレント達が普通の人々であると私が考えるもうひとつの根拠は、何より彼らが少なくとも社会適応が出来ていているからだ。例として紹介されるモンスターペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子供思い」で「熱心な」親を演じている。少なくとも家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はない。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのだから。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしているのだ。それらの人たちを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。私の印象では、モンスター化する人たちはもっと普通で、あえて言えば私たちの中にもたくさん存在するような人々のである。彼らが学校を巻き込んだ特定の状況で「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているという印象を私は持つのである。

社会現象と「人の未熟化」は両立しない
「現代人の未熟化」という考えがあまり合理的でない点についてもう少し論じよう。私は昔から「近頃の若いもんは...」というセリフは常に口にされていたと想像する。人生の黄昏時にある老人が、若さも健康も備えた若者に羨望の目を向ける際に決まって出てくるのがこの言葉のはずだからである。縄文時代の老人(といっても40歳くらいだったはずだが)が若者を見て「近頃の若いもんは...」とため息をついている姿を想像して欲しい。それから途方もない時間が流れ、何世代にもわたって同じことが言われているのだ。今頃は若者は赤ちゃんよりも未熟になっていておかしくない。
 一般に時代によって人間の成熟度はさほど変わらないと考えられる。もちろん昔は社会における禁制や様々な因習に従う必要があったことは確かである。それに比べて現代社会に生きる人々は自分の願望や感情をより自由に表現できるため、それだけ依存傾向や他罰傾向が目立つということはあるだろう。また女性が十代で結婚して子どもを産んでいた時代と、現在とでは、20歳の女性の持つ責任感や社会的な役割は全く違うのであろう。しかしそれがここ1020年間で急に変わることはまずありえない。そしてモンスター化はまさにここ1020年の間の変化とされているのである。そんなに急に人間は未熟になれないのだ。
ましてや最近の若者は社会に出ると、モンスター化しつつあるカスタマーを扱う最前線に置かれ、一気に責任重大な立場に置かれてしまうのである。先程も述べたように、クレイマー社会は、被クレイマー社会でもあるのだ。逆説的なことだが、むしろこの10~20年のあいだに新社会人はより大きな責任を負えるだけの成熟度を求められていると考えたほうがいい。

学生運動の闘士たちは「未熟」だったのか?

私がモンスターペアレントの現象を現代人の未熟さと結びつけることに消極的であることのもうひとつは、学生運動の顛末を見ていたことと関係している。1960年代、70年代に日本で、あるいは世界で学生運動という名の大変なモンスター化現象があった。学生が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして大学に立てこもったり国会を取り巻いたりするという大変な時代があったことを、現在五十歳代やそれより上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。あれは当時からすれば現代の学生の未熟さ、他罰傾向として説明されたであろう。実際にそのような論評を聞いたことも多かった。
 しかし時代は変わり、あの運動はすっかり過去のものになっている。当時未熟だったはずの学生たちは社会では普通に管理職の側に回ったり、すでに引退をして孫を抱いたりしている(ちなみにかの元都知事も学生運動の闘士であったという)。彼らはすっかり普通の市民として社会に溶け込み、その一方では現在の学生たちは学生運動世代以前よりさらにノンポリになっている傾向すらある。彼らは未熟な性格、一種のパーソナリティの異常をきたしていたのだろうか? 否、であろう。今から思えばあの運動は時代の産物だったのだ。
以上「モンスター化現象とトラウマ」と題して論じ、「未熟なパーソナリティ説」を批判する立場から意見を述べた。
結論から言えばモンスターたちは実は普通の人たちであり、その人たちが「魔が差す」ことを許容するような社会環境が生じてきているというのが私の主張である。ただし文中でも断ったとおり、これはいわばABの議論なのであり、モンスター化する人々の一部に何らかの精神医学的な問題が存在する可能性を否定するものではない。事実どのような状況でも決してモンスター化しない人もいれば、簡単にモンスターになってしまう人もいるだろう。この後者の多くは、他人の行動をとりこんでしまう日暗示性の強い人々であると考えるが、パーソナリティ上の問題をより多く抱えている人たちも含まれるようだ。私はそれをかつて「ボーダーライン反応を起こしやすい人」と表現している(5)ので、そちらのほうも参照していただきたい。

【文献】
(1)嶋崎政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 集英社新書、2008
(2)小松秀樹 『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 朝日新聞社、2006
(3)諸富祥彦 『子どもより親が怖い カウンセラーが聞いた教師の本音』 青春出版社、2002
(4)尾木直樹 『バカ親って言うな! -モンスターペアレントの謎-』 角川Oneテーマ212008
(5)岡野憲一郎 「ボーダーライン反応で仕事を失う」『こころの臨床アラカルト Vol. 25, No1. 特集ボーダーライン(境界性人格障害)』星和書店、2006



2014年3月3日月曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲)(4)

特に変わるところはないよ。だから全部小文字。

3章 凶悪犯罪と自己愛トラウマ-秋葉原事件を読み解く

はじめに
本章では、2008年に起きたいわゆる「秋葉原通り魔事件」を考える。この事件で犯人が無差別殺傷に至った直前に見られ他心の動きを、この自己愛トラウマという概念からある程度読み取れるであろうというのが私の立場である。
この事件は2008年6月東京秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のために、おそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性KTで、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
この事件の直後、当時の官房長官は刃物の所持規制強化を検討すると述べた。また千代田区は秋葉原の歩行者天国を当分の間中止することを決め、区立の小中学校に子供達の精神ケアを行うカウンセラーを派遣することを決めている。さらに犯人が派遣社員であったことから、若者の雇用環境が厳しくなっていることが将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。事件後複数のサイトにおいて、殺人などの犯罪予告が相次いだ。ほとんどが悪戯とされているが、小中学生が行ったものもあるという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について私が考察する理由がある。それは犯人が最近になり獄中から手記を発表したからだ。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」である。そしてその手記を読む限り、犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。
ところで本章では、私は犯人でもあり筆者でもある男性をそのイニシャルである「KT」とだけ記すことにする。もちろん彼は加藤某という実名でこの「解」を書いているわけだが、なぜか私は本章で彼の実名を出すのがはばかられる。また秋葉原で起きた事件についてもできるだけ詳述を避け、「事件」と書くことにする。それはこの事件の直接の内容に触れることに抵抗を感じるからだ。軽々しく論じられないほどに多くの人々が犠牲になっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。多数の人々を殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現の機会を与えられていいのだろうか。この種の自己表現は、KT自らが認めているように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することが可能になる為に彼にとっての癒しとなる部分があるのである。だからこのような本は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。その意味で彼の「解」を読んで考察をする私もある意味では「同罪」かもしれない・・・・。
本書はKTが事件に至るまでの体験の記述であるが、その細部にわたり解説を加えることは紙数の関係で不可能である。そこで本章ではKTについての精神医学的な診断に基づいた議論を主に行おうと思うが、その前に彼が「事件」を起こすまでの人生についての記述の中で、二つ注意を引いた点を述べておきたい。
一つはKTの人生の中で特徴的な、極端でおそらく病的な「寂しがりや」の傾向である。彼は「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」(p.16)とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。
 KTはその後埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」(p.16)であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだという。
 もう一つは、KTが心に人を思い浮かべる際の特徴である。彼は寂しさを紛らわすために、心の中に誰かを思い浮かべればよかったのではないか? これについて彼自身が書いている。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」(p.17)。そしてそのようなKTが、やがて孤独感を癒す方法としてインターネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して投稿すると、それに対して即座にメッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じることが出来、一息つけたのである。こうしてKTはインターネットの掲示板に依存し、心の支えとして行く。そしてその支えの破綻が秋葉原での「事件」を生む間接的な原因ともなるのだ。
以上の二点はKTの診断を考える上で大いに参考になる。そこでその問題に移りたい。

KTの診断は何か?

診断とひとことで言っても、それを実際の人間に下すことは容易ではない。ましてやKTに直接対面したことのない私が安易に診断を口にするのは不用意かもしれない。だから私の論述はあくまでも本書「解」を読んだ上での「診断的な理解」についての考察であることをお断りしておきたい。
人間の心理は複雑である。誰ひとりとして一定の決まったパターンに合致した思考や行動を示す人はいない。しかしある深刻な事件が生じた時に、私たちはそれが起きた原因を知りたいと欲し、犯行の動機を一元的に説明しようとする。
「何かの原因があるはずだ。」
そして「解」を読み始めた私も同様に「事件」の「解(答)」を求めて読み進めた。しかし「解」を読み終えて、それも幻想であったことをあらためて思う。「解」そのものがさまざまな、一元的には説明不可能な情報を伝えているし、「解(答)」もそれだけ複雑でファジーなものにならざるを得ない。そしてそれは私の心にある「解(答)」でしかなく、本書に登場するほかの方々のそれも、それぞれ独自なものとなっているはずだ。
人を一元的に理解し説明する試みのひとつが、精神科的な診断というラベリングである。ラベリングは一種の決めつけであり、レッテル貼りであるが、少しは理解の役に立つ。「ラベルは、剥がすために貼るものである」と私はいつも言っているが、とりあえず貼って、貼り心地を見るだけでもいいのだ。気に入らなかったらいつでも剥がせばいい。
<いわゆる境界パーソナリティ障害か?>
その心づもりでKTの精神医学的な診断の可能性を考えてみよう。おそらく境界パーソナリティ障害(以下BPD)は比較的容易に当てはまるように思う。慢性的な自殺願望、孤独の耐えがたさ、攻撃性、「自分のなさ」、白か黒かの考え、感情の激しさ・・・。DSMがBPDについて挙げている結構な数の診断基準を満たしている。「KTがボーダーライン(BPDの別の呼ばれ方)だって?」と言われるかもしれないし、私も自分に「本気かな?」と問うている部分がある。しかしそれは診断がラベリングであるということを思い起こせば消える疑問である。もちろんKTは一般的なBPDのプロフィールには合致しない。BPDは女性に多いことが知られているが彼は男性であり、またリストカットや自殺企図があるわけではない。しかしそれでも彼は診断基準を結構満たすのである。
<反社会的パーソナリティ障害か?>
二つ目の診断としては、反社会的パーソナリティ障害(以下ASD)が思い浮かんでもおかしくない。しかしこれは意外に当てはまりにくい可能性がある。ASDは、DSM的に言えば、法律を遵守しないなどの違法性、人をだます傾向、攻撃性、良心の呵責のなさ、の4つの柱があり、これらがその人の行動にパターン化している必要がある。このうち法律を守らない、人をだます、という傾向はKTにはあまりなさそうなのだ。借金を踏み倒すどころか、むしろ遠路はるばる返済しに行き、相手に感謝されるというエピソードが紹介されているくらいである(p.42)。KTは人と関係を結ぶためには正直にもなるというところがあるのだ。
攻撃性や良心の呵責のなさにしても、あまりすっきりとは当てはまらない。多くの人々を殺傷するなどは攻撃性の最たるものではないかと思われそうだし、それらを根拠に攻撃性の基準を満たすと考えたとしても、彼の場合それが彼の日常的な行動の中にパターン化したかといえば、そうとも言えないのである。(ただし彼のあからさまな攻撃性は中学時代にも見られたことが「解」で述べられている(p.164)。KTは中学生のころ、クラスメイトを思いっきり殴り、失明させる危険があったほどだったという。そして半年後に彼は再び同じクラスメイトに対して暴力的行為をとったという。)
良心の呵責のなさについては、これこそはKTに典型的に当てはまりそうだが、これ一つではASDの根拠としてはあまり説得力がない。
ここで念のためDSM-IVのASDの診断基準の一部を示そう。
A.他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こっており以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
1. 法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
2. 人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。
3. 衝動性または将来の計画をたてられないこと。
4. 易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
5. 自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
6. 一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
7. 良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京)

どうだろうか? KTに関しては1は微妙。2も微妙。3は満たし、4も満たすとしよう。しかし5も微妙、6もイマイチ。7は満たす、となるとギリギリ3つとなる。いちおうASDと診断してよさそうだが、あまり典型的ともいえないのだ。
<やはり可能性の高いアスペルガー障害>
さて三番目の診断は、当然ながらアスペルガー障害である。KTの精神鑑定の進捗状況は知らないが、アスペルガー障害ないしは広汎性発達障碍(PDD)の可能性についてはおそらく問われることになるであろう。私はこれを一応KTの診断とする。しかし「仮の」としておこう。というのは以下のとおり、この診断は実は微妙な問題をはらむのである。
まず以下に参考のためにDSM-IVにおけるアスペルガー障害の診断基準を示そう。

A.以下のうち少なくとも2つにより示される対人的相互反応の質的な障害:
(1)目と目で見つめ合う,顔の表情,体の姿勢,身振りなど,対人的相E反応を調節する多彩な非言語的行動の使用の著明な障害
(2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗
(3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如(例:他の人達に興味のある物を見せる,持って来る,指差すなどをしない)
(4)対人的または情緒的相互性の欠如
B.行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式で,以下の少なくともlつによって明らかになる
(l)その強度または対象において異常なほど,常同的で限定された型のlつまたはそれ以上の興味だけに熱中すること
(2)特定の,機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである.
(3)常同的で反復的な街奇的運動(例:手や指をばたばたさせたり,ねじ曲げる,または複雑な全身の動き)
(4)物体の一部に持続的に熱中する.
(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京 から引用)

このように見る限りでは、KTはこれらの基準を十分に満たさないようにも思える。少なくとも「解」から私たちが知る限り、彼は学校を卒業するまでは、「常に友達と一緒に過ごしていた」ことになっているのである。もし彼に「(A2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗」が見られるとしたら、彼の社会的な孤立は学生時代のかなり早期から起きていたはずである。しかしKTの記述からは、かなり友達にサービス精神を発揮し、友達が喜ぶのであれば自己犠牲的に物や情報を提供していた様子が伺える。
 「(A3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如」については、それどころか、KTは自分の趣味に関することではあるが、それらを積極的に友達と分かち合うことで、孤立を避けていた可能性がある。
Bの「行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式」については不明である。KTはインターネットでのゲーム等に精通しているようであり、その意味ではこのBを満たしている可能性はあるが、それを積極的に伺わせるようなエピソードは、「解」を読んでも特別浮かび上がってこない。むしろKTの頭にあったのは、いかに他人との交流を維持し続けるか、いかにそのために他人の関心を保ち続けるかということのみにあったようである。
PDDの診断基準には直接かかわってこないながら、KTの場合おそらく言語的なコミュニケーションもあまり得意でないはずだ。彼は文中で自分で相手に気持ちを伝えることがなく、いきなり行動に移ってしまうという点を自省しているが(p.93)、それがおそらく証左だろう。そのかわり彼の文章は達者な方と言っていいだろう。(もちろん「解」がゴーストによらず実際に彼の手によるものと仮定した場合である。)インターネットの掲示板への書き込みも、その思い入れの詰まった表現や、他人の書き込みのもつ微妙なニュアンスの読み取り方も、かなり芸が細かい。
それではKTはアスペルガー障害ではなかったかといえば、私の理解するアスペルガー障害には合致する面があるのである。私はアスペルガー障害の主たる病理は、共感性の障害であると理解している。共感性とは相手の気持ちを感じ取る能力である。目の前にいる人の喜びや痛みを自分の心のスクリーンに映して感じ取る力。他人を精神的身体的に傷つけることに対する抵抗もそこから生じる。人を傷つけることは、自分にとっても「痛い」ことなのだ。逆に相手の喜びは自分のものとして感じることが出来るために、相手を喜ばせ、心地よくさせることも自然に行なうことができる。そうやって対人関係が成立し、継続していく。
 共感能力には、相手が「考えていること」もその対象に含まれる。私たちがコミュニケーションをする際、相手が何を思って話しかけてきているのかを直感的に感じ取り、それに対応することが出来る。それが出来ないと「空気が読めない」ということになり、集団から仲間はずれになる。
KTの病理を考える際、ここで精神医学の専門家は引っかかることになる。彼の手記には、彼が友達づきあいをし、時には人にサービスをする為に自己犠牲精神を発揮することをいとわない点に注目し、この種の共感能力は不足していないのではないかと考える。その点は私も同感であり、したがってDSMによるアスペルガー障害の診断というラベルも「貼りつき」にくいことは認める。そのために「他に分類されない広汎性発達障害PDDNOS」あたりが無難ではないかとも思う。つまり準アスペルガーとしてその病理を位置づけるわけである。

KTに見られる怒りの特質-アスペルガー障害の「自己愛トラウマ」

それにしてもKTの凶行は凄惨であった。命をなくした7人の方々やご遺族、10人が負傷した方々にとっては、まさに耐え難い体験であったはずだ。「どうして自分立ちや自分たちの家族がこんな目に遭わなければならなかったか・・・」とさぞかし無念であったろう。KTはこうして怒りを表現した。しかし理不尽にも犠牲になった方々の怒りはどう表現され、どう処理されるべきなのだろう・・・・。
このようにのべたからと言って、アスペルガー障害の人々は危険であるという一般化は決してできない。それだけははっきりさせておこう。しかし彼らが時に示す激しい怒りの背後には、彼らの発達障害の病理が深く関係しているお思わざるを得ない。それが人の気持ちを推し量ることの困難さである。
一般にアスペルガー障害の人々は他人の気持ちを読み取ることが不得手である。ただしそれは不可能、ということとは違う。事実アスペルガー障害という診断をつけることにあまり躊躇しないケースに関しても、多くの場面で他人の気持ちを読み取り、感じ取ることが出来ることは確かだ。アスペルガーの人たちの大部分は、対人関係を求め、それが得られないことを苦痛に感じる「寂しがり屋」である。
 ところがやはり彼らの一部においては、対人コミュニケーションには特徴、いや欠損があると考えざるを得ない。それはしばしば彼らの猜疑心や被害念慮という形で現れる。それは彼らが持つのはコミュニケーションの微妙なレベルの障害であることも関係している。全く通じないのであればまだわかりやすいのだろう。しかしそれが一見気持ちが通じているようで実は通じていない対人関係を築くということが大半なのだ。はじめは微小だった人との関係の齟齬は常に生じては徐々に、あるときは劇的に拡大していくのである。それがこの「事件」につながったと考える根拠は十分にある。そして徐々に周囲から去られる運命にある。時には明白に、時には微妙なかたちで拒絶を受ける。KTの場合には多くの友人の離反であり、最終的に頼りにしていたインターネットの掲示板における人々の無反応であった。それはKTの自己愛に対する痛烈なトラウマとなるのである。そしてそれが途方も無い攻撃性の発露に至ってしまったのだ。

KTを「自己愛トラウマ」から救えたのか?

私たちはKTに対して何かの形でのかかわりを持つことで、事件を未然に防ぐことが出来たのだろうかという問題について考えたい。これほどの事件を起こした男に「治療」は論外かもしれないが、少なくとも同様の事件の防止策については考えるに値するだろう。
「解」の最後でKTが「事件」の原因として3つあると自己分析している部分がある(p.159)。それらは彼が掲示板に依存していたこと、掲示板で実際に起きたトラブル、そしてトラブル時のKTのものの考え方(間違った考え方を改めさせるために相手に痛みを与える、という、「解」で繰り返して登場するロジック)である。そしてこれら3つが重なることで「事件」は起きたのだから、防止策はそれを防ぐこと、という風に彼は説明している。ここで一つ気が付くのは、これらの問題はあたかも彼の行動や思考上の誤りとして説明されているが、そこに感情の要素が言及されていないことだ。
「対策とは」という項目の冒頭(p.150)で、KTは次のように述べている。あくまでも再発を防止しなくてはならないのは、「むしゃくしゃして誰でもいいから人を殺したくなった人が起こす無差別殺傷事件」ではなく、「一線を越えた手段で相手に痛みを与え、その痛みで相手の間違った考え方を改めさせようとする事件」である、と。つまり彼の起こした「事件」は後者であり、そこに怒りやそれに任せた殺傷という要素を否認するのだ。そして、「(正常なら)ふつうは事件なんか起こさない、という言われ方」に反対し、「普通か否かは思いとどまる理由の有無でしかない」という。
KTのこの主張は、「事件」に至った経緯にはある種の必然性の連鎖があり、それがたまたま途中で中断されることがなかったために「ドミノ倒しのよう」に最後の「事件」に行きついたというものである。そしてそのような事態は、彼が挙げた三つの誤りを犯し、そのプロセスを止められない場合には、ほかの誰にも生じうると訴えているかのようである。
 そのプロセスを止めるために必要な策としてKTが挙げているのが「社会との接点を確保しておくこと」であるという。そしてさらに具体的には、ボランティア活動を行ったり、サークルや教室に通ったり、何かの宗教に入信することであり、さらには「自分の店を持てば『客のために』と、社会との接点を作ることが出来ます」(p.158)と述べる。
このKT自身の語る防止策を読んだ私の感想を少し述べてみよう。KTの心の動きにはいくつもの病的な傾向がみられる。特に「事件」に関連して何が決定的に問題かと言えば、それは生身の人間をナイフで無差別的に刺殺するという行為に尽きる。あるいはもう少し言えば、そのような行為を自らが行ったということに対する彼自身の自責や反省の希薄さである。それは彼がそれなりに一生懸命取り組んだであろう「自己分析」が触れていない部分であり、それゆえに彼の病理の核心であるといえよう。
 仕事がうまく行かず、だれからも顧みられず、怒りや復讐心が高まって暴力行為に及んでしまう、ということは、ファンタジーのレベルでは多くの人が体験するのだろう。「事件」の直後に、KTの気持ちがわかると述べた人々が少なからずいたという話も聞く。しかし彼らとKTとの決定的な違いは、やはりそれを実行するかしないかということだ。そしてそれを実行したKTについては、それはゆがんだ攻撃性の発露であり、そのことを彼自身が否認する傾向とも関連した深刻な病理の表れといえる。
彼の攻撃性の否認傾向を示す上で、「解」の最終項目「反省の考え方についての補足」における記述をあげたい。先に見た中学時代の殴打事件についてである。詳しい記載は避けるが、この事件についてのKTの記載の中で一つ明らかな矛盾がある。それはこの事件が「相手に間違った考えを改めさせようとした」と言いながらも同時に、「かっとなって」行った行為でもあると言っている点である。KTはこのエピソードはインターネットの掲示板における「成りすまし」とのトラブルとは異なると言っているが、殴打事件と秋葉原の「事件」の動因を同様のものとして説明している以上は、むしろ「事件」が結局は「かっとなって」行った可能性を示唆しているといえないだろうか。後者の方がもちろん冷静沈着に事件を計画したという面もあろう。しかしその背後にあるのは、成りすましからの攻撃を受けて「完全にキレ」「ケータイを折りそうになった」(p142)ほどの怒りに端を発しているとみていい。そしてその部分が否認されているのだ。
 しかし私はKTが激しい怒りを暴発させた結果がこの殺傷事件だったのであり、その尋常でないほどの怒りの度合いこそがKTの病理であると主張するつもりはない。通常の怒りは、それを直接起こした対象に主として向けられるのであり、たとえそれが暴力を伴ったとしても、その相手への攻撃が反撃を引き起こし、格闘のような形で結果的に相手を殺傷してしまうという形が一番典型的と言える。しかも相手への怒りは、相手が傷ついたことを目にすることで急速に醒め、激しい罪悪感と自己嫌悪が襲うというのが通例である。復讐を遂げた後に自殺をするという経緯がよく見られるのはそのためであろう。
 ところがKTの場合、その攻撃性の背景にあったのは怒りや恨み、復讐の念でありながら、それらの感情の存在自体は否認される一方では、歩行者への攻撃は無差別的かつ執拗で、あたかも機械的に、感情を伴わずに行われているというニュアンスがあるのだ。
 私はここに見られるKTの性質は犯罪者性格のそれと同類とみなしていいと思うが、もしそうであるとするならば、彼の示す「防止策」も、反省内容もことごとく見当外れということになりかねない。KTが中学時代にこの種の行動をとっていたということは、その時に対策を取っていればよかった、というたぐいの問題ではなく、むしろ彼は思春期の時点で犯罪者性格の条件をおそらく備えていたであろうことを意味しているのだ。そしておそらく幼少時からその兆候はあったであろうと想像する。
それでは彼は生まれつきの精神医学的な問題を抱えており、手の施しようがなかったのだろうか?
「解」を読み進めて一つ印象深かったのは、たとえ彼の病理がいかなるものであろうと、KTは他人からの肯定を強烈に求めていたということだ。他人がいて、他人の視野に入ってこそ自分が生き延びることが出来るかのようである。そして他人から無視された時には強烈なトラウマ(自己愛トラウマ)を味わっていたということである。
 彼がそばに自分を肯定してくれる存在を持っていたなら、事態はずいぶん違っていた可能性は否定できないと思う。何人もの刺殺という悲惨な「事件」をどこまで食い止められたかはわからないが。そしてそのような存在を常に持つ一つの方法としては、心理士による支持的なカウンセリングがあげられる。KTには特異な思考プロセスや、人がものにしか見えなくなってしまうという病理がある。それらを根本的に変えることはできない。しかし心の病理はある程度心が充足している場合には発現しにくいものである。その意味で支持的なカウンセリングの効果はそれなりに期待できるだろう。
もちろんカウンセリングを受ければそれでいい、というわけではない。KTが安定した治療関係を維持できていたという保証はないからだ。しかし彼が定期的に通って自分の気持ちを表現できるような場所、そこに週に一度通うことが期待されている場所を確保していたら、あれほど悲惨な結果にはならなかったのではないか。少なくとも「事件」に対する強力な抑止効果はあったのではないだろうか、と私は考える。なにしろの「肯定された」感は、友達からの「半年後に遊びに行く」という一通のメールだけで充足されてしまうという性質を持っていたのだから(p.37)。
ただしカウンセリングを受けるためには、普通は一回に数千円から一万円あるいはそれ以上のお金がかかる。それが払えずにカウンセリングをあきらめている人も多いであろう。精神科の通院精神療法を利用するという手もあるが、その為には敷居の高い精神科外来を訪れる必要がある。これは多くの方には抵抗があるだろう。KTがこれらのハードルを乗り越えることが出来たかどうかはわからない。

以上で私の考察をひとまず終えるが、この「事件」を考えることはアスペルガー障害を持つ人とかかわる意味をいくつか示唆していることを示せたと思う。しかし何度も繰り返させてほしい。ほとんどのアスペルガー障害を持つ人はこのような犯罪にかかわるほどの自己愛トラウマを体験しないのであり、彼らに対する差別的な見方を提供するのが私の意図ではないということである。