2014年3月5日水曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲)(6)


いじめの章を、「自己愛トラウマ」の路線でリライトする、ということ
だが、ここもほとんど手を加えたところ(大文字)以外は無し。しか
し「自己愛トララマ」は、少しは定着する可能性がある概念なのだ
ろうか?

2部 いじめ、うつ病、災害と自己愛トラウマ
 第5章 いじめと自己愛トラウマ
1980年代ごろよりわが国でもしばしば問題となっているいじめの問題。それが根本的に解決する方向にあるとはいえない。それは昨今のいじめ自殺に関する数多くの報道から感じられることである。これまでのいじめに関する分析や考察がいまだ不十分なもので解決の糸口がつかめていないことを意味するのであろう。またいじめの性質や特徴は、その時代背景により様々に異なり、いじめの質そのものが変化してきている可能性ある。
 いじめを受けるという体験は現代日本人がこうむる自己愛トラウマの主要なものの一つと考えていい。集団の中でからかわれる、あるいは誰からも相手にされない、そこに存在していないかのように扱われる…。これほど本人のプライドを傷つけられることがあるだろうか?いじめの中でも特に無視は、直接罵声を浴びせられるよりも深刻な自己愛トラウマを生む可能性がある。自己の存在そのものを震撼させる可能性があるからだ。
まず「いじめ問題」を考える私自身の立場を示しておきたい。私は海外生活が長く、異文化体験を通して、集団の中での日本人のあり方についても深い関心を持つようになっている。さらには私自身集団にうまく染まらずに排除されかけるという体験も持ってきた。その立場からいじめの問題を考えた場合、やはりそこに日本文化の影響を否定できないと考える。いじめは深刻なトラウマをもたらす。誰もいじめの対象になろうとは決して望まない。しかしいじめはまた日本人的な心性に深く根ざしたものであり、半ば必然的に起きてしまうのではないか、というのが、本章を通しての私の主張なのだ。
私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることはさびしく、また恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言えるが、そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。
 ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちを排除するという力もしばしば働くようになる。いわゆるスケープゴート現象であるが、本章ではその仕組みを「排除の力学」と呼び、以下に考察していく。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それが犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、病的なのである。
いじめを生む「排除の力学」
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも二つある、と私は考える。一つはメンバーが明白な形で利害を共有しているということだ。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。
もう一つは、集団のメンバーが共に敵ないしは仮想敵を持っている場合である。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」というネガティブな要素が書きこまれることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。そしてその仮想敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。
昨今は日本の政治家の発言に対して中国や韓国が反発して声明を発表するということが頻繁に起きているが、反日であるということはそれらの国民の間の凝集性を高める上でさぞかし大きな意味を持っていることと思う。そして集団がまとまる、凝集力を発揮するという力学は、その中の一部の人々を排除するという方向にも働くということが問題なのだ。上に述べた二つの条件はそのまま、仲間はずれや村八分を生む素地を提供しているのである。なぜなら集団の共通の利益に反した行動を取ったり、集団の仮想敵とみなせるような集団に与したり、それと敵対することを躊躇しているとみなされたメンバーが排除されることによっても、集団の凝集性が高まるという条件が成立するからだ。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、人為的に作られることすらある。これがいじめによるトラウマを負わされるのきっかけとなることも多いのだ(後述)。
ここで私たちは次のような疑問を持っても不思議ではない。
人は「どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? そうしなくても集団の凝集性を高めることができるのではないか?」
 確かにそうかもしれない。互いを励ましあい、助け合うことで和気あいあいとした平和的な集団となることもあるだろう。しかしそこでリーダーの性格が集団の雰囲気に大きな影響を与える。そのリーダーが若干でもサディスティックな性格を持っている場合は、上記の二番目の条件にしたがって強い「排除の力学」が働き、仲間外れはあっという間に生まれるのだ。
そしてそのような時、仲間外れをされそうになっている人に関して、別のメンバーが「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか? みんな仲良くやろう!」と訴えるのは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在とみなされてしまうからだ。「みんなが仲良くやろう」というメッセージは事態を抑制するどころか逆方向に加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバック・ループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。
この「排除の力学」は実際には排除が行われていない時も、常に作動し続けることになる。メンバーはその集団内で不都合なことや理不尽なことを体験しても、それらを指摘することで自分が排除の対象になるのではないかという危惧から、口をつぐむことになる。私がこの集団における「排除の力学」についてまず論じたのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめによるトラウマを生み出していると思えるからである。
 ここで少し前の大津市の事件を例にとって考えよう。この事件は201110滋賀県大津市内の市立中学校の当時2年生の男子生徒が、いじめを苦に自宅で自殺するに至り、いじめと自殺について大きな議論を巻き起こした事件である。
 この事件で問題になったいじめを起こした当事者である生徒たち、それ以外の生徒たち、学校の教員たち、教育委員会の委員たち、それ以外のどのレベルの集団にも同じ力学が働いている。「排除の力学」はすべての集団に共通だからだ。たとえばいじめを目にしても積極的に阻止することが出来なかった中学の教師たち。そこには教師という集団における「排除の力学」が生じていて、いじめを注意する、やめさせるという行為がなぜかその空気に反するという状況があったはずである。しかもここでは生徒と教師の全体という、より大きな集団の中での力学が生じていたことが伺える。いじめを真剣にやめさせるという行為は、生徒教師という集団から排除されることを意味していた為に、それをあえてできなかったのだ・・・・。
 しかも教育委員会もこの生徒教師と利害を共にしていたふしがある。いじめがあったことを認めることは、その大きな集団における共通の「利益」に反することになる。すると学校と歩調を合わせて、教育委員会もまた「いじめはなかった(あるいはあっても自殺の原因ではなかった)」と主張することになる。それに対して疑問を持っても、それをあえて口にできない委員たちはたくさんいたに違いない。皆ある意味ではこの「排除の力学」の犠牲者ともいえる。
さて私はこの「排除の力学」をあらゆる集団のレベルについて論じていることをここで繰り返したい。ということはマスコミも、その影響を受けながら生活をしている私たちも入っている。これを書いている私も該当することになろう。例えば私はこの原稿を書いている今、私は日本の出版の世界のことを意識している。出版社の意に大きく反してはいないだろうか。この本が店頭に並んで、私の文章を読んだ人が、「これってどうかな」と思われないようにするにはどうしたらいいか、など。
この「排除の力学」について考えることは、いじめのトラウマについて「だれが加害者か?」という問題を一気にあいまいになる。ある意味ではこの力学自体がいじめの加害者を生み出す原因ということになる。そこではいじめを受けた側にも同じ力が(逆方向に)及んでいるわけであり、状況が変ればそのベクトルが反転して自分が他者をいじめる側になる、ということはいくらでも起きうる。というよりその反転を恐れる心理が、いじめる側の力となっているのだ。
このように考えた場合、いじめる側の大半は、自分が犠牲になるのを回避する目的でいじめの側に回るわけであり、それなりに心苦しい体験をすることになる。いじめが生じていることを外部から指摘されたら、その人は否認したり、口をつぐんだりせざるを得ないし、いじめが露呈したら「本当にどうしてこんなことが起きるんでしょうね」という人ごとのようなコメントをするしかない。ある雑誌で、大津市の教育長は、「なぜお役所仕事の対応しかできないのか?」という問いに、「わかりませんね・・・・。私もなぜなのかな、と思っている」と答えたというが、実際にそれが彼の本音に近いと考える。
ちなみにこの「排除の力学」はその集団の外部にまでその影響力を及ぼしかねないということも重要である。本来会社に対して第三者的な立場であるはずの会計監査人さえも、この種の力のためにまともな仕事ができないことも少なくない。外部から来た人も、その集団に属した瞬間に外部性を失ってしまうほどに「排除の力学」は強力に働くのだ。このように書くとき、私は2011年に解雇されたオリンパスの元社長マイケル・ウッドフォード氏の事を考える。同社の改革を目指して乗り込んだものの、抵抗勢力の強大さからそれをあきらめたという経緯と理解している。彼が体験したことも別バージョンの「排除の力学」だったのだろうと思う。
「排除の力学」への文化の影響
「排除の力学」への文化的な影響はどうだろうか?「排除の力学」は日本社会の集団に独特の現象なのだろうか? そしてその顕著な結果として生じるいじめもまた日本文化に特異的な現象なのか? 私が長年滞在したアメリカの例を考えよう。アメリカのいじめは個人と個人の間に生じるというニュアンスが強い。クラスの生徒の多くが特定の生徒をいじめるという形を取りにくいのだ。そしていじめ対策に力を注ぐのは、クラスを担当する教師というよりは、学校専属の心理士やソーシャルワーカーである。その意味でアメリカのいじめは、学校という場で生じた個人間の加害-被害体験というニュアンスがある。
実際日本とアメリカでは、暴力事件が起きた際の学校側の対応はかなり異なる。学校で学生同士が暴力を働いた場合は、警備員や警察が呼ばれるのが通例である。現にSchool Resource Officer” (SRO)と呼ばれる警官を常駐させている学校も多い。暴力は、身体的、言語的を含めて放っておかれることは普通はない。日本のいじめのように、教師も含めた学校全体の雰囲気が、いじめを見てみぬフリをするというところがやはり日本的なのではないか?そしてそれが「いじめを公然と批判すると、自分が排除されてしまう」という「排除の力学」の最も際立った特徴なのである。
日本の均一性こそが、いじめによる自己愛トラウマを生む
いじめの問題を考える時、私がそれと関連した日本の集団の特徴として考えるのが、その構成メンバーの均一性である。一般に集団においては、お互いが似たもの同士であるほど、少しでも異なった人は異物のように扱われ、「排除の力学」の対象とされかねない。日本は実質上単一民族国家に非常に近いといってよく、メンバーは皆歩調を合わせ、何よりも「ほかの人と違っていないか」に配慮をする傾向にある。そのことが翻って私たち日本人の体験するいじめによるトラウマの一つの大きな原因になっているというのが私の考えである。
ほかの人と違ってはいけない、という発想は、すでに学校生活が始まる時点で生じている。私が小学校に上がった年、学校に制服はなかったものの、みな判で押したように、男子は黒のランドセル、女性は赤のランドセルだった。その中で一人だけ黄色のランドセルだったU子ちゃんのことは、いまでも鮮明に覚えている。その目立ったこと・・・・。幸いU子ちゃんはいじめの対象にはならなかったが。なぜU子ちゃんのランドセルのことを私はそれほど鮮明に覚えているのだろう。おそらく6歳の私の中には、既に「みんな同じでなくてはならない」があったのだ。だから黄色のランドセルを背負っているU子ちゃんに対して違和感を感じたのだろう。「よくみんなと違う色のランドセルで平気なんだな。」
6歳ないしはそれ以前から日本人の心の中にある「皆と同じでないと・・・」という気持ち。このような現象はもともと似た者同士の集団においてより生じやすいはずではないか? アメリカなどでは、所属する集団の構成員のどこにも目立った共通点が見出せないということは普通に起きる。小学生達は色も形もまちまちのカバンを背負い、あるいはぶら下げている。そしてそもそも彼らの皮膚の色も人種も体型も最初から全く異なっているのである。
 私が米国で精神分析のトレーニングを行っていたときのことも思い出す。クラスを構成していたのは、40歳代白人男性(アメリカ生まれ)、20歳代白人女性(アメリカ生まれ)、30歳代パキスタン人の男性、30歳代メキシコ人男性、20歳代後半のコロンビア人男性、そして30歳代日本人の私である。人種もアクセントもバラバラ。こんなグループではメンバーのそれぞれが違っているということを、初めから前提とすることでしかまとまらない。アメリカ生まれで白人男性であることはこのクラスではマイノリティーを意味してしまうのである。このような集団にいると、日本語のような敬語の存在しない、いわば究極のタメ語である英語は極めて便利だ。英語を用いることが、さらにメンバー間の格差をならしてしまう効果を持っているからである。
「場の空気を乱してはならない」
十数年間のアメリカでの集団のあり方にある程度順応してしばらくぶりに日本に帰ると、そこでの集団生活に私は大きな違いを感じ、またそれに当惑した。お互いに似た者同士ですぐに生じる場の空気の読みあい。そしてその空気を読み、それを乱すまいとする強い自制が必要となる。これに関する私の「異文化体験」を一つ例にあげよう。米国から帰国して最初の一年間、私はある精神科の病院で働いた。そこでは一つの病棟に配属され、40人程度の患者さんのうち約半分を担当したが、かなり頻繁に病棟に出入りしていたので担当以外の患者さんたちとも顔なじみになった。そこでの予定の一年間の期間の終了があと3ヶ月に迫ったので、その旨を病棟全体にアナウンスメントをしたい、とスタッフ会議で申し出た。実は私が一年で去ることは最初は病棟の患者さんたちに伝えていなかったのだ。(これはこれで問題かもしれないが、ここでは論じないでおく。) アメリカではこのような場合、それがかなりはっきりした予定であれば、3ヶ月ほど前にはその予定を伝えるということがよくあった。人は別離の際に、十分なモーニングワーク(喪の作業)が必要だということだが、この3ヶ月という期間自体に深い意味はないものの、まあまあ適切な配慮と思っていた。そこでスタッフに、私が去る3月の3ヶ月前の12月ごろに、そろそろアナウンスメントをしたいと申し出た。しかしスタッフからの反応は全体として消極的なものだった。「いや、まだいいでしょう」という反応が大半だったのである。そこで私もその時はあきらめ、年が明けて1月になり、「そろそろ・・・」と言い出したが、「まだ駄目だ」という。結局退職の予定日の3週間前になって、患者たちに「実はあと3週間で、私はこの職場を去ります」と伝えたわけだが、スタッフの中には「出て行く一週間前に伝えるのでもいい」という意見もあった。
 私はこの日米の顕著な違いに興味を持ち、その理由を病棟のスタッフに尋ねたが、はっきりとした答えは返って来なかった。しかしなんとなくわかったのが、「何もそんな前から、「退職をするということを早く言うことで、患者に混乱を与えることはない」という理由だった。「無用な混乱を与えたくない」、つまり「場の空気を乱してはいけない」というわけだ。私はこの考えを極めて新鮮なものとして受け止め、同時に一種の逆カルチャーショックを味わった。そして気になりだすと、実は同様の場面に頻繁に出会うことに気が付いた。2011年の福島県の東電における事故の際も、深刻な事態が起きているにもかかわらずそのアナウンスが遅れた理由を突き詰めると、「無用な混乱を避ける」ということらしい。最近のいじめの被害者の自殺の問題で、学校側や教育委員会が、その存在を明確にしなかった理由についてもそのようなニュアンスが感じられる。
この「場の空気を乱さない」の特徴は、その結果生じることはさておき、今、ここでの場の空気を最優先するという点だ。私が退職することを急に知ったときの患者さんたちの混乱はまだ先のことであり、現在の場の空気を乱さないことが最優先される。
ところで内藤朝雄氏(2009)はその著書で私たちが従う秩序を「群生秩序」と「普遍秩序」に分け、特に前者についていじめとの関連で論じている。私がここで言う「場」とはまさに彼のいう「群生秩序」に相当するだろう。内藤氏はそれを「『今・ここ』のノリを『みんな』で共に生きる形が、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である」、と表現しているが、この「今、ここのノリを守る」という点がまさに場の空気を考える上で重要なのだ。
とにかくこの「集団を混乱させてはいけない」、「場の空気を乱してはいけない」というのは極めて日本人的であり、おそらくは日本人の対人場面における「皮膚感覚」に関係しているというのが私の考えである。日本人は集団でいる時、あるいは単に誰かと二人でいる時、相手の気持ちへの感度が高く、場を読む(感じる)力が強すぎて、それにより自分を抑えたり、相手に迎合したりということがあまりに頻繁に起きるのではないか。証明のしようがないが、体験上そう思える。この件については後ほどもう一度論じたい。

上下関係がいじめの素地にある?「ジャングルの掟」
私が日本での集団に再適応する過程でもう一つ印象に残ったことがある。それは日本の集団にごく自然に格差、ないしは上下関係が発生していることである。すでに日本における集団の均一性や、場の空気を読む傾向について述べたが、それはメンバー間が平等ではないということと表裏一体なのだ。集団の中に気を使わなくてはならない相手がいるからこそ、空気を読む必要が生じるのである。このことは私にとっては逆カルチャーショックであった。
 仕事上の上司と部下の関係はもちろんだが、先輩後輩関係、年上と年下の関係、正社員か派遣か、などの「上下関係」は人が集まれば自然発生的に生じ、それが敬語や丁寧語の用い方にすぐ反映される。それを無視する言葉遣いは「タメ語」と言うわけだが、これには決していいニュアンスはない。
 もちろん上下関係がはっきりしている中で、先輩が後輩を教え、指導するという関係が成立するのであれば、それでいい。しかし時には上司や先輩はかなり無理な注文を部下や後輩に持ちかけるように見受けられる。そこに上司や先輩の側の一種のサディズムを感じることすらある。人間が他者との関係で体験する苛立ちの自然な表現が、先輩の側だけには許容されているというニュアンスもある。日本社会での先輩後輩関係は、この種の気安さ、それゆえの一方的な感情表現、批判、叱責といったことが比較的制限なくパワハラの方向に進んでしまう可能性を持っているのである。そしてこれがいじめの原型の一つのように思えてしまうのだ。そしてこの種のパワハラにより生じたいじめには、「排除の力学」に見事に作用することになる。
 本来は上下関係がないところにも、無理やりそれを作り上げてしまうのが、いじめの恐ろしいところである。自己表現の強弱、身体的な優劣などが根拠になることもあれば、「すでにいじめられている」ということが理由になるかもしれない。そうしてその結果として生じるのは、まさに弱肉強食の世界としか言いようがない。私がいじめの現場の描写などを読んで思うのは、これはまるで動物界の出来事だと同じだということだ。弱肉強食のことを英語でrule of jungle (ジャングルの掟)というが、まさに野生のサルの世界で起きているような事態が学校でも生じている。そこで特徴的なのは、教師もその一員であり、ある意味ではボスザルだと言うことだ。ボスザル(教師)は力の強い子ザル(いじめを行う生徒)には甘く、時にはおもねるような態度をとる一方で、それ以外の子ザルには厳しい。また力のない大人のサル(教師)は子ザル(生徒)以下の扱いを受けかねないのである。
 似た者同士の集団では半ば約束事のように上下関係が生じるというパラドクスが存在するわけだが、そこには日本人の均一さが関係しているように思う。日本人はある程度気心が知れていて、互いに多少は違っていても高が知れていると感じる傾向があり、それだけ他者に対して侵入的になりやすい。
他方のアメリカ社会では、個人個人がお互いを警戒し合い、そのためにかえって尊重するというところがある。敬語が存在しないから、会話はことごとく「タメ語」が標準である。非常にざっくばらんで気安い会話を、身分の差を越えて行なうように見えて、しかしプライベートなことには決して不用意には踏み込まないような慎重さが要求される。
 ではジャングルにもなぞらえることのできる日本の学校にとって必要なのは何か? そこでできるだけいじめトラウマが生じないようにするためには? それは外部の秩序の導入なのであろう。私が通っていた小学校は秩序が保たれ、いじめなどはあからさまに起きる余地はなかった。それは教師が圧倒的に怖かったからだ。しかし教師は怖いばかりではなく、やさしくもあった。少なくとも毅然としていた。人の集団はそのような外部の力により秩序を保つ。外部の強制力がなくなったらすぐにでも野生に戻るようでは情けないが、外部の強制力は、少なくとも秩序を破ろうという発想を奪ってくれる為に、ある程度は平和な生活を保障してくれる。現在のわが国で生じている学校のいじめの元凶は、その圧倒的な閉鎖性にあるだろう。そこでは教師も権威を失い、その内部に取り込まれてしまっているのである。学校に警官を常駐させるような外部性の導入は、残念なことではあるが、いじめの対策として必要ではないだろうか?
日本人の対人感受性もまた、いじめの元凶か?
ここで私がこれまで主張したことをいったん整理して、私の仮説に向かおう。
人間は社会的な動物であり、集団から受け入れられることで安心し、孤立することで大きな不安を抱く。そしてそこに関わって来るのが、「排除の力学」であり、おそらくそれがいじめの原型となる。そしてそこには日本における集団のメンバーの均一性が大きな影響力を持つと考えられる。
ではどうしてこれほど日本の集団では「排除の力学」が働くのであろうか?そしてここからが私のかねてからの持論であり、本章における仮説なのだが、これは日本人が対人場面で持つ感受性の高さが関係しているように思えるのだ。日本人はたとえ個人の意見や感情を持っていたとしても、他人の前ではその直截的な表現を控えることが多いが、それは相手の感情を感じ取り、たとえ二者関係においてさえも空気を読んでしまう、ないしは「読めて」しまうからではないだろうか? 
 先ほど述べた群生秩序の話にしても、それが「今、ここのノリ」を重んじるのは、それが今現在の対人的な皮膚感覚を刺激しているから、ということになる。それが痛みを発している以上、それを宥めてやり過ごすしかないのだ。
 私が米国人の集団にいていつも感じていたのは、この種の感受性の希薄さ、なのである。彼らは他人の前で自己主張をするとともに、相手を非難し、厳しい言葉を投げかけることがある。それは傍らで聞いていてハラハラするほどである。ただしお互いが直接的な表現を交わすということに慣れている社会なので、簡単に気色ばむことはなく、むしろ理詰めで相手を説き伏せる、説得するという習慣が出来上がっている。
米国の軍人病院で、ある上級医師ドクターDに神経内科の手ほどきを受けていた時のことである。米国での研修を始めて間もない頃だった。神経内科の病棟を回診していたら、ある悪性の脳腫瘍を病んでいた患者が、その医師のもとにやってきて「先生、私の脳腫瘍はひょっとしたら良性、ということはないでしょうか?」と尋ねた。彼はいかにも頼りなげで不安そうであった。するとその患者の主治医でもあるドクターDは極めてきっぱりと「いや、この前説明したとおり、あなたの腫瘍は悪性です。」と言い切った。患者はいかにも悲しそうな表情で、すごすごと去って行った。私は「こんな時、日本だったら少しは言葉を濁すか、もう少し柔らかい言い方をするのではないか? やはり文化の違いだな。」と思った。
 ドクターDはラテンアメリカからの移民の子孫で強い南部なまりを持っていた。それからさらに彼の事を知ることになったが、その気持ちの通じなさ加減は相当のものであった。いつもニコリともせず、冗談の一つも通じないのだ。ロボットと一緒にいるような感じで何を考えているのか分からない。しかしそれでいて彼と一緒の研修が終わると、食事に連れて行ってくれたりもする。アメリカ社会ではこんなレベルの交流が普通なのだ、と思った記憶がある。お互いある程度以上には相手の気持ちをわかろうとせず、それでも均衡が保たれている関係。それはそれで悪くない、とそのうち思うようになった。少なくともドクターDは、患者に嘘はついていないという意味では自分の役割を果たし、ある種のマナーを守っているのだな、と思うようにもなったのである。
 ところでこのような日本人の対人感受性の高さに貢献しているのが、実は日本人の均一さといいたい。皆が同じような顔立ちをし、同じ髪の色と眼の色をしているから、相手を数段高いレベルで感じ取り、理解してしまう。もちろんそれでも相手を十分には理解しえないかもしれない。しかしアメリカ社会のように、相手を得体のしれない、何を考えているか分からない人と感じて、身構えてしまうようなあの緊張感は私たちの社会にはない。何しろ向こうは、ハイスクールでクラスメートと喧嘩をすると、相手がカバンからピストルを取り出すかもしれないような社会なのだ。もし日本の外国人がこれからますます増え、職場でもクラスでも3人に一人が外国人という社会になれば、おそらく「排除の力学」の働き方は違ってくるであろう。
最後に 「解除キー」の効用
以上いじめによるトラウマの問題について論じた。最後にいじめの対策について繰り返して述べておきたい。「ジャングルの掟」を破る一つの有力な手段は、外部を導入することだ。場の空気に影響を受けないような存在の力を借りるということである。このことはしかし次善の手段だということも申し述べておきたい。おそらく最も勧められるのは人々の内部告発的な動きである。理不尽なかたちでいじめによるトラウマを受けているという自分の存在を外部に知らせることだ。
しかし日本社会では内部告発をしたものを保護する習慣はあまりない。逆に彼らが裏切り者として扱われてしまうほど、日本の群生秩序は強いのだ。するとそれを打破するだけの装置を外的に作るしかないのであろう。前出の内藤朝雄氏は学校に警察や法を持ち込むことを「解除キー」と呼んでいるが、それは群生秩序が外部の秩序を意識することで解体する方向に向かうための決め手のひとつといえるだろう。
参考文献
内藤朝雄「いじめの構造」(講談社新書、2009年)