2014年3月4日火曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲)(5)

もうこの章も全然変えずに済んだ。アップするのもおこがましいから、小文字にして色も薄くしよう。

4章 「モンスター化現象」とトラウマ
 いま「モンスター化現象」なるものが我が国のいたるところで起きている。生徒が、保護者が、部下が、カスタマーが、患者が、無理難題を押し付ける。モンスターたちに無理難題を押し付けられ、責め立てられる教師や管理職や店員や医療職従事者は、それによる被害や、場合によってはトラウマを受けている。教師や管理職や医療従事者の中にはそれでうつ状態に陥ったり、仕事を休んだりするということも起きている。一体日本で何が起きているのだろうか。俺は一種のいじめと関係あるのだろうか?どうして日本人はこのような形でトラウマを与え合っているのだろう?
モンスター現象のひとつの説明としてよく出会うのが、第 章の「現代型うつ」の際に聞かれる説明である。つまりそれは現代人の未熟さや他罰性のせいだというわけだ。
 たしかに現代の日本人の親たちが未熟化し、そのために駄々っ子のようにわがままなふるまいをするのがモンスター化現象ではないか、という議論には一定の説得力がある。これに対する私の姿勢をひところで言えば、次のようになる。
モンスター化は、むしろひとつの社会現象として理解すべきであろう。そこに表れる一見他罰的、依存的、あるいは未熟なふるまいは、実は私たち個々人が潜在的に備えているものであり、それが顕在化するような状況が社会で整っているということを意味するのではないか?
私がこう考える根拠を以下に順を追って説明したい。

モンスターたちを未熟とする論拠
モンスター化は人格の未熟さだという説はどのような理論的な根拠を持っているのだろうか? モンスター化現象の一つとして、いわゆるモンスターペアレントを例にとってみよう。モンスター的なふるまいを見せる親御さんたちのことだ。そしてこのテーマでしばしば引用される文献として嶋崎政男氏の「学校崩壊と理不尽クレーム」(1)を読んでみる。
嶋崎氏によれば、モンスターペアレントの問題が生じ出したのは1990年の後半か、あるいは公立学校で学校選択制が導入された2000年の可能性もあるとする。ただ社会の耳目を集め、マスコミがこぞって取り上げるようになったのは2007年であったという。「投石での窓ガラス破損に弁償を要求したら、親が『そこに石があるのが悪い』と言った」とか「学校で禁止されている携帯電話を没収したところ『基本料金を支払え』と親が言った」という例は有名らしく、他の関連書にもしばしば登場する。
本書で目に付いたのは、医療現場の崩壊と教育現場の崩壊を比較し、ほぼ同じ現象が現在起きつつあることを示している点である。小松秀樹氏の「医療崩壊」(2)は、この10年で医療関係訴訟は倍増したという事実を伝えている。そして「崩壊しているのは、医療だけではありません。教育現場の崩壊は医療よりももっと大きな問題です」と記しているという。このことはこの現象が日本のあらゆる場面で生じている可能性を示唆している。
嶋崎氏の著書では、モンスター化現象の「原因」について触れている。彼はまずモンスターペアレントの問題が、彼らの年代にあるとする。この問題が深刻化した1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼ばれ、共通一次世代とも言われた人々でもある。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説(3)を引用している。つまり「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。
 嶋崎氏はさらに1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことにも言及している。それを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、「教師への反発、反抗は当たり前」という感覚を持つようになったことは容易に頷ける、とも書かれている。
 モンスターペアレントに関する論述は多いが、その原因についての論調はこの嶋崎氏や諸富氏のそれと類似しているという印象を受ける。そこでこれを「未熟なパーソナリティ説」とでも名づけておこう。

 モンスター化を社会現象としてとらえる

この章はさしあたり「未熟なパーソナリティ説」の検証を主たる目的とするわけであるが、少し話を戻して、モンスターペアレント現象についての基本的な捉え方について考えたい。
 ある時代の社会においてその頻度や程度が目立つ現象を捉える方法としては、大きく二つあると筆者は考える。一つは社会現象としてとらえる方針であり、もう一つは個人の持つ障害や疾患の蔓延と見る方針である。両者はもちろん共存していいし、その方がむしろ普通かもしれない。
 前者については、社会でその時代に顕著となっている問題について多くの社会学者や評論家が取る見方だ。また後者を取る場合には、現代人の身体や脳のレベルでの何らかの機能異常が増加しているとみなすわけである。
 前者の例としては、60年代、70年代に日本に蔓延した学生運動や1990年代から問題化している学級崩壊の問題が挙げられるであろう。あるいは昨今のいじめの問題や教員のうつ病や退職の問題など数多くの問題がこの例として考えられることになる。
後者としては、例えばアスペルガー障害(広汎性発達障害の一種)がある。ここ20年で圧倒的に目につくようになっている。しかし実数が増えているのか、それについての社会の関心が増したせいかは不明だ。発達障害の代表であり、遺伝的な影響の強いアスペルガー障害は、もちろん精神医学的な障害の一つとして数えられる。
ところである現象が社会現象なのか、精神の病なのか、という区別は実は決して単純ではない。むしろ両方が共存する方が普通だと私は述べたが、それは精神の病が社会の影響を受ける場合が多いからだ。
 例えばアスペルガー障害の例では、マスコミ関係がこの問題を取り上げ、出版業界が関連書籍を出すことが、人々がこの病気に関心を持つことに拍車をかけ、見かけ上の症例数を結果的に押し上げている可能性があろう。ある時代にその社会に特有の子育ての仕方というのがあって、その障害の発生率に関わっているかもしれない。
 こうなると社会現象(Aとしよう)か精神の病(こちらはBとしよう)かは、ABか、という議論ではなく、ABか、あるいはその逆のABか、という相対的なものになることがわかるだろう。そして「未熟なパーソナリティ説」はどちらかといえばABという主張なのだ。パーソナリティの未熟さとは、精神の病とまでは行かないが、個人が持っている問題や病理を意味するからだ。しかし私はそれについては否定的で、むしろABではないか、という提案をしているのだ。
 その根拠を二つ挙げよう。ひとつは社会現象は急速に移り変わることが可能だが、人間の精神の病理は簡単には変わらないからだ。人間の脳の機能が未熟になるという変化が、この20年くらいで急に起きるとはとても思えない。むしろ社会の変化が個人の病理をうき立たせる役割をしている、と見るべきであろう。
 そうしてもう一つの根拠。モンスターペアレント達が、モンスターぶりを発揮するような場面以外では、普通の社会生活を送っているということだ。その意味では彼らは私たちと変わらぬ人々であるという事実によるものである。
以上の二つの根拠について以下に順を追って述べたい。

クレイマー社会は、被クレイマー社会、被トラウマ社会でもある
私が特に注目しているのは、現在の日本にモンスターが多く存在しているということは、社会がそれを許容する様な培地を提供しているという事実だ。これを私は「クレイマー社会は被クレイマー社会でもある」と表現したい。何しろ両方が同じ社会に住み、ある人はクレイマーとなる立場と、クレイマーを受ける立場を両方体験している可能性がある。父兄として厳しい要求を学校につきつける男性が、勤務先のカスタマーサービスで手ごわいお客の前で冷や汗を流しているのかもしれないのだ。
人が自分に与えられた権利を主張するという、ある意味では当然のことが、ここ2030年で日本社会でもようやく行われ始めた。他方では、それに対して主張をされる側がどのように対応していいかわからないのであろう。ちょうど人々が一斉に柔道の技を教わったものの、受身の仕方を知らずにいるように。結果として主張をする側がエスカレートするという事態が生じているのだ。
 そのために例えばクレイマーからの電話を長々と切れないというような現象が生じる。そしてそのクライマーの態度が激しければ激しいほど、その対応に当たる人はそれをトラウマとして体験し、一部はうつになり、一部は「新型うつ」の形をとり、そしてまた一部は・・・自分自身がモンスター化するのかもしれない。
先日も近くのコンビニで、店員の対応が悪いと猛烈な勢いで食って掛かっている客を見かけた。若い店員は平身低頭だったがそれでも埒があかず、困り果てていた。このような時、かつてのアメリカでの生活が思い出される。米国では誰かが声を荒げた時点で、「力の誇示 show of force」となるのが普通だ。つまり警備員や警察が呼ばれることが多い。怒鳴ることは「言葉の暴力」であり、人を殴ったり物を壊したりする「身体的な暴力」と同等の反社会的な行為とみなされる。
一般にアメリカでは人前で怒鳴るのは覚悟がいることだ。人はすぐ「力の誇示」に訴えようとする。結果として制服の人々が現れればあっという間におとなしくなるしかない。下手をすると逮捕されてしまうからだ。
 それに比べて日本では怒った市民への対応が非常に甘い。まず別室に招いて宥めようとしたりする。酷い時は派出所で暴れる酔っぱらいを警官がなだめようとしていたりする。
 実は私はそのような平和な日本が好きなのだ。それに一時的に激昂した客や患者も、なだめすかされ、謝罪することで、大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はクレイマー化、モンスター化するのである。

「お・も・て・な・し」とも関係している
もう少し言えば、このモンスター化の問題、日本人のおもてなしの心ともかなり関係しているのだ。たしかに私が「もてなしの精神とモンスター化は表裏一体の関係にある」と言えば、奇妙に感じられるかもしれない。しかし他人をもてなすことが、モンスター化の誘因となる、ということは十分考えられることなのだ。もてなすという善意に基づく行為が、それによりトラウマを受けてしまう原因となるというのは何とも矛盾した現象といえよう。
 日本はもともともてなしの文化と考えられ、サービス業の質は極めて高いレベルにあることが知られている。そしてその上に昨年の流行語大賞に「お・も・て・な・し」が候補として挙げられることにはどのような意味があるのだろうか? 現代の日本人の精神性が最近になってさらに高められ、愛他性や博愛の精神が日本人の行動の隅々まで行き届くようになったのだろうか? いや、そう考えるのは全然甘いだろう。
 「おもてなし」は、一種の戦略としてとらえられるべきなのだ。飲食業そのほかのサービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかということへの調査研究が進み、顧客がより心地よさを感じるような対応を各企業が目指すようになったわけだ。つまりは市場経済の原則に従ったものである。ちょうどコンビニ間の競争が激化したおかげでお弁当がよりおいしくなり(あるいは少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じである。今のコンビニのパン売り場に何種類の、それでも厳選された菓子パンが並んでいることだろう?私が小さい頃は、パン屋さんに行っても丸いアンパンと楕円形のジャムパンと、グローブ型のクリームパンと渦巻き型のチョコレートパンの4種類しかなかったと記憶している。
 昔は人のサービスは今ほど行き届いてはいなかった。JRの前身の、「国鉄」といわれていた時代の改札口で、切符切りバサミをパチパチやっていた駅員さんは、いつも愛想がなく仏頂面だった。近距離のタクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺ったものだ。
それでも諸外国よりはましだったのであろう。私は米国に留学している間には、店員に愛想よく扱われるという発想はあまり持たなくなっていた。彼の地での客の扱いはかなり大雑把である。客を待たせて店員同士がおしゃべりをするということはよく見かけるシーンだった。
 2000年代に帰国して再び暮らすようになった日本は、サービス向上の努力や民営化の影響で、以前よりさらに改善されたという印象を持った。お店の従業員はみな顧客にとても愛想がいいのである。コンビニで100円のアイスを買っただけで手を胸の前に合わせて最敬礼されるなど、留学前にはなかったことだ。
 こうなるとお店間のマナーの良さは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員のいる店はそれだけで目立ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことを至上命令として刷り込まれている店員は、モンスター・カスタマーからとんでもない要求を突きつけられて一瞬絶句しても、「大変申し訳ありませんでした」とまず受けてしまうことで、無理難題を受け入れる方向性を定められてしまうのである。
 今の時代に「お・も・て・な・し」が改めて流行語になることは興味深いが、これも日本にオリンピックを招致するための戦略から発していたことを忘れてはならない。そしてその時点で私たちは諸外国からの訪問客からの無理難題を聞かざるを得ない立場に自らを追い込んでいるのではないかと、少し心配になる。「お・も・て・な・し」は確実に、カスタマー増長の一因となっていると思う。
本書をこれまでお読みの方は、この問題は自己愛トラウマとも結びついていることを理解されるかもしれない。「おもてなし」を受けて当然と思っているカスタマーは、ちょっとやそっとでは満足しない。高いお金を出してファーストクラスに乗った時のことを想像していただきたい。搭乗後、何かの都合で飲み物がエコノミークラスの人たちに先に配られているのを知ったとしたら、きっと大憤慨するだろう。「高いお金を出したのに何だよ!」とファーストクラスとしてのプライドを痛く傷つけられるに違いない。人より先に飲み物を飲めないので怒る、とはいかにも子供っぽいが、プライドを傷つけられた人間には極めて重大な問題なのである。モンスター化している人はこの、本来受けるべきサービスを受けさせてもらえないことから来る自己愛的な傷つきに反応している可能性があるのだ。

モンスター化は普通の人に生じる
「未熟なパーソナリティ説」について考えて、さらに考える。果たして彼らの訴えは病的パーソナリティと言えるレベルなのだろうか?モンスターペアレントの持ちかける要求はそれほど突拍子もなく、非常識極まりない、ありえない発想なのか? 
 尾木直樹の「馬鹿親って言うな!」(4)には次のような例がある。2007年に放映されたある番組の中で、小学校教員が、「遠足があった時、ある子の母親から「自分は作れないので、先生もうちの子の弁当を作ってくれないか」「どうせ先生だって自分のを作るんだから、もう一つ作るのは簡単でしょ?」と言われたという。しかしスタジオにいる人たちが一層驚いたのは、その先生が「それを引きうけた」と言った時であった。「だってその子が遠足に来られなくなるから・・・・」というのがその理由であったという。
 もちろん「先生に子供のお弁当を作ってもらう」ことを要求する事が、常識はずれであることは確かなことだろう。だが、私たちは日常的に極端な発想を持つことは決して珍しくなく、時には口に出すこともあるものだ。実際にそれを教師に本気で要求するとなると話は別かもしれないが、それでも先生との話の流れや関係の持ち方によってはあり得るかも知れない。
もし先生が子供のお弁当作りについて相談された母親に「お母さん、お弁当を用意するのは思ったほど面倒ではありませんよ。私も毎日自分のものを楽しんで作っていますよ。」と言ったとしよう。「ではぜひ、うちの子供の分も・・・・」と言い出す母親がいてもおかしくないのではないか。それにそれを言われた先生もふと優しい考えを持ってしまったのかもしれない。「このお母さんはとんでもないことを言っているけれど、○○ちゃん(子どものこと)に罪はないわね。そしてこのお母さんのせいで遠足の時に一人だけお弁当なしになったらかわいそうね。いざという時のために余分に作っていこうかしら。」こうなるとこの教師の反応はさほど極端ともいえなくなってくるのである。
モンスターペアレント達が普通の人々であると私が考えるもうひとつの根拠は、何より彼らが少なくとも社会適応が出来ていているからだ。例として紹介されるモンスターペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子供思い」で「熱心な」親を演じている。少なくとも家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はない。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのだから。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしているのだ。それらの人たちを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。私の印象では、モンスター化する人たちはもっと普通で、あえて言えば私たちの中にもたくさん存在するような人々のである。彼らが学校を巻き込んだ特定の状況で「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているという印象を私は持つのである。

社会現象と「人の未熟化」は両立しない
「現代人の未熟化」という考えがあまり合理的でない点についてもう少し論じよう。私は昔から「近頃の若いもんは...」というセリフは常に口にされていたと想像する。人生の黄昏時にある老人が、若さも健康も備えた若者に羨望の目を向ける際に決まって出てくるのがこの言葉のはずだからである。縄文時代の老人(といっても40歳くらいだったはずだが)が若者を見て「近頃の若いもんは...」とため息をついている姿を想像して欲しい。それから途方もない時間が流れ、何世代にもわたって同じことが言われているのだ。今頃は若者は赤ちゃんよりも未熟になっていておかしくない。
 一般に時代によって人間の成熟度はさほど変わらないと考えられる。もちろん昔は社会における禁制や様々な因習に従う必要があったことは確かである。それに比べて現代社会に生きる人々は自分の願望や感情をより自由に表現できるため、それだけ依存傾向や他罰傾向が目立つということはあるだろう。また女性が十代で結婚して子どもを産んでいた時代と、現在とでは、20歳の女性の持つ責任感や社会的な役割は全く違うのであろう。しかしそれがここ1020年間で急に変わることはまずありえない。そしてモンスター化はまさにここ1020年の間の変化とされているのである。そんなに急に人間は未熟になれないのだ。
ましてや最近の若者は社会に出ると、モンスター化しつつあるカスタマーを扱う最前線に置かれ、一気に責任重大な立場に置かれてしまうのである。先程も述べたように、クレイマー社会は、被クレイマー社会でもあるのだ。逆説的なことだが、むしろこの10~20年のあいだに新社会人はより大きな責任を負えるだけの成熟度を求められていると考えたほうがいい。

学生運動の闘士たちは「未熟」だったのか?

私がモンスターペアレントの現象を現代人の未熟さと結びつけることに消極的であることのもうひとつは、学生運動の顛末を見ていたことと関係している。1960年代、70年代に日本で、あるいは世界で学生運動という名の大変なモンスター化現象があった。学生が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして大学に立てこもったり国会を取り巻いたりするという大変な時代があったことを、現在五十歳代やそれより上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。あれは当時からすれば現代の学生の未熟さ、他罰傾向として説明されたであろう。実際にそのような論評を聞いたことも多かった。
 しかし時代は変わり、あの運動はすっかり過去のものになっている。当時未熟だったはずの学生たちは社会では普通に管理職の側に回ったり、すでに引退をして孫を抱いたりしている(ちなみにかの元都知事も学生運動の闘士であったという)。彼らはすっかり普通の市民として社会に溶け込み、その一方では現在の学生たちは学生運動世代以前よりさらにノンポリになっている傾向すらある。彼らは未熟な性格、一種のパーソナリティの異常をきたしていたのだろうか? 否、であろう。今から思えばあの運動は時代の産物だったのだ。
以上「モンスター化現象とトラウマ」と題して論じ、「未熟なパーソナリティ説」を批判する立場から意見を述べた。
結論から言えばモンスターたちは実は普通の人たちであり、その人たちが「魔が差す」ことを許容するような社会環境が生じてきているというのが私の主張である。ただし文中でも断ったとおり、これはいわばABの議論なのであり、モンスター化する人々の一部に何らかの精神医学的な問題が存在する可能性を否定するものではない。事実どのような状況でも決してモンスター化しない人もいれば、簡単にモンスターになってしまう人もいるだろう。この後者の多くは、他人の行動をとりこんでしまう日暗示性の強い人々であると考えるが、パーソナリティ上の問題をより多く抱えている人たちも含まれるようだ。私はそれをかつて「ボーダーライン反応を起こしやすい人」と表現している(5)ので、そちらのほうも参照していただきたい。

【文献】
(1)嶋崎政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 集英社新書、2008
(2)小松秀樹 『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 朝日新聞社、2006
(3)諸富祥彦 『子どもより親が怖い カウンセラーが聞いた教師の本音』 青春出版社、2002
(4)尾木直樹 『バカ親って言うな! -モンスターペアレントの謎-』 角川Oneテーマ212008
(5)岡野憲一郎 「ボーダーライン反応で仕事を失う」『こころの臨床アラカルト Vol. 25, No1. 特集ボーダーライン(境界性人格障害)』星和書店、2006