2024年7月10日水曜日

「トラウマ本」第14章 トラウマと心身相関の問題 加筆訂正部分 1

 推敲のつもりで読み直したら、グダグダだった・・・・・。ほぼ書き直しだ。

「MUS」はヒステリーの現代版か?

 本章ではトラウマと現代的な心身相関問題というテーマで論じる。
 まずは「MUS」という概念の話から始めよう。これは「 医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の頭文字であるが、本章の以下の論述でもこのMUSという表現を用いたい。
 このMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。というよりその言葉の定義からして、そこに属するべき疾患群は、それこそ医学が生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側からはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。
 こう述べただけではMUSの意味するところがピンとこないかも知れないが、昔のヒステリーと同類だと考えると、すぐにピンとくる方が多いであろう。MUSを「ヒステリーの現代版」と見なすことで、それがトラウマの問題とどのような意味で関連しているかについても何となくお分かりいただけると思う。
 そこでMUSについて論じる前に、改めて「ヒステリーとは何か?」を簡単に振り返ってみる。それは古代エジプト時代から存在し、20世紀の後半までは半ば医学的な概念として生きていた疾患であった。
 ここで「半ば医学的な概念」と表現をしたが、それはヒステリーは「患者が自作自演で症状を生み出したもの」、というニュアンスを有していたからである。つまりその症状は本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方が支配的であった。言い換えればそれは病気であってそうでないようなもの、という中途半端な理解のされ方をしていたのである。そしてその意味ではヒステリーと呼ばれる患者たちは常に差別や偏見を向けられる傾向にあったのだ。
 幸いDSM-Ⅲ(1980)以降はヒステリーという名前が診断基準から消え、その多くの部分が転換性障害や解離性障害ないしは身体化障害という疾患概念に掬い上げられた。そして患者が差別や偏見を向けられる度合いは多少なりとも軽減したのである。
  医学は時代とともに進歩し、検査の技術も発展を遂げてきている。そしてそれまでは医学的な所見の見いだせなかった疾患の中にも、医学的な説明が出来るようになったものもある。たとえばてんかんはそのドラマティックな表れからヒステリーと分類されていたが、脳波異常が見出されるようになりヒステリーやMUSの分類から抜け出していったものである。
 しかしそれでも医学的な検査に根拠づけられない身体症状を示す人々が このMUSの中に残されることになったのである。そしてかつてヒステリーに対して向けられていた偏見も、実は現在のMUSにもある程度は向けられる傾向にあるのである。


2024年7月9日火曜日

PDの臨床教育 推敲 14

 さて特性論で付け加えておかなくてはならないのが、ICDでは以上の5つに加えて「ボーダーラインパターン」なるものが加わるのだ。つまりボーダー的であることを一種の特性のようにして扱っているのだ。それが証拠に他の特性と同様6D11.  … というコード名を冠している。名誉特性? ビック5ならぬビッグ6?これは理屈に合いにくい。なにしろBPDはカテゴリカルの典型ではないか、とも考えられるからだ。ただし確かに10のカテゴリーの中で一番研究され、また診断されることも多いのがこのボーダーラインだったわけで、これはぜひとも入れたいという気持ちもわかる。BPDはいわばPDの「顔」だったわけであり、これがなくなるのはあまりに物足りない・・・・・。

 さてICD-11の公開テキストでは特記事項として次のように述べている。「ボーダーラインパターンはこれまで述べた特性、特に陰性情動、非社会性dissociality 脱抑制などとかなりの重複がある。しかしこの特定項目は、特定の精神療法的な治療に反応する患者を同定することに助けとなろう。」

ただしこのボーダーラインパターンはBPD というカテゴリカルな診断の遺物とみなされかねないこと、またこの診断はトラウマにより⽣じることが多いためにパーソナリティ特性に並べて論じることは適切でないことなどの意⾒もあり、最終的にICD-11 にこれが加わったことは異なる識者間の妥協の産物であるという⾒解もある。ちなみにICD-11 で掲げられたボーダーラインパーソナリティの特徴は、DSM-5 におけるBPD の診断基準におおむね準じている。ここにICDとDSMの事実上の連動関係は明らかなように思える。改めて記するまでもないが、それらとは以下の通りである。

「ボーダーラインパターンが特定されるのは、パーソナリティの障害が対⼈関係、⾃⼰像、感情の全般にわたる不安定なパターンや顕著な衝動性により特徴づけられる場合であり、それらは以下の多くにより⽰される。現実に、または想像の中で⾒捨てられることを避けようとするなりふりかまわぬ努⼒・対⼈関係の不安定で激しいパターン・顕著で永続的に不安定な⾃⼰像や⾃⼰感により表されるアイデンティティの障害・⾮常にネガティブな感情の際に、⾃⼰破壊的となる可能性のある⾏動につながるような唐突な⾏動を⾒せる傾向・繰り返される⾃傷のエピソード・顕著な気分反応性による感情の不安定性・慢性的

な空虚感・不適切で激しい怒り,または怒りの制御の困難・情動が⾼まった際の⼀過性のス

トレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状。

しかしICD-11ではこれに加えて、常に存在するわけではないが、と断り以下のものをあげている。


自分を悪く、罪深く、おぞましくdisgusting 卑劣なconptemptible 存在と感じる。

A view of the self as inadequate, bad, guilty, disgusting, and contemptible.

自分が他の人と極めて異なり隔絶された人間のように感じ、苦痛を伴う疎外感と孤独を感じる。An experience of the self as profoundly different and isolated from other people; a painful sense of alienation and pervasive loneliness.

また拒絶に極めて敏感であり、対人関係で一貫した適切な信頼関係を結ぶことが出来ず、しばしば対人間の兆候を誤読する。Proneness to rejection hypersensitivity; problems in establishing and maintaining consistent and appropriate levels of trust in interpersonal relationships; frequent misinterpretation of social signals.


2024年7月8日月曜日

PDの臨床教育 推敲 13

 昨日は表を作るだけで終わってしまったが、DSM-5とICD-11の違いは微妙だ。たとえば同調性⇔対立という軸の代わりに、好社会性⇔非社会性が入っていることだ。これは似てはいるものの、同一のこととは言えないであろう。前者(DSM-5)は要するに人とどれほど対立するか、という問題だが、後者(ICD‐11)は人にどれほどの悪さをするか、ということである。敢えて言うならば、

同調性⇔対立 はどれだけ天邪鬼か、ということの表現であるのに対して、好社会性⇔非社会性は、どれだけ人を喜ばせるのが/苦しませるのが、好きか、ということになる。これらは矢張り似て非なるものだが、これを両方採用するとビッグ5ならぬビッグ6になり、煩雑になる。ただし私としては後者の方が特性として入ってほしいと思う。なぜならこれはいわゆる反社会性パーソナリティやサイコパスに関するものだからだ。そもそもパーソナリティ障害の始まりは、この犯罪者性格をいかに扱うか、というところから出発していたからである。

 そしてもう一つ悩ましいのが、ICD-11で5のかわりに採用された制縛性(強迫性)anankastia である。だいたい「アナンキャスティック」なんて表現、ものすごく古い用語なのだ。「セイバクセイ」という表現も、ワープロ変換されないし、日常語としてはほとんど聞かない。だからせめて「強迫性 obsessive」くらいにしてくれないだろうか。

 DSMの精神病性 psychotic の代わりにこちらが選ばれた理由についてはある文献に書いてあった。それによるとこの精神病性は他のパーソナリティ障害とは一線を画し、むしろ統合失調症関連としてとらえるべきだから、というのである (Bach, et al, 2018)。それにICD-11では「パーソナリティ障害の深刻さ」のなかに現れるのだ。要するに精神病性は別格、その代わりに強迫性を入れよう、というのは私も賛成である。なぜなら強迫的な性格の人って結構周囲にいるような気がするからだ。

Bach B, First M. Application of the ICD-11 classification of personality disorders. BMC Psychiatry 2018.

しかしDSMの側では、制縛性(強迫性)を入れなかったのにもそれなりの理由があるという。制縛性(強迫性)は二つの要素に分かれ、一つは完璧主義(⇔脱抑制)、もう一つは保続(同じパターンを繰り返すこと)だが、だから保続は陰性感情の一つだというのだ。だから制縛性は思慮深さと陰性感情ですでに表現されているのだという。だから独立させる必要はないと考えたそうだ。しかし保続が陰性感情という説明は私には今ひとつピンとこないので、これについては意見は述べられない。

 ともかくもこの両方を採用すると、いよいよビッグ7になってしまう!


2024年7月7日日曜日

PDの臨床教育 推敲 12

 いよいよ表を作ってみた。DSM-5とICD-11 はほぼ一致しているが、異なっている部分は茶色で表示してある。(どうしてこういう表をだれか作ってくれないのだろう?)


   DSM-5の特性

   砕けた表現(岡野)

      ICD-11の特性

情緒安定性 ⇔ 否定的感情 (神経症性) 

プラスの感情 ⇔ マイナスの感情

   ⇔ 否定的感情

外向 ⇔ 離脱 detachment 

(内向性、孤立傾向)

外向的 ⇔ 内向的

   ⇔ 離隔 detachment


同調性 agreeableness⇔ 対立antag.

他者に和す ⇔ 他者に反対する

かわりに?
   ⇔ 非社会性 dissociality 


誠実性  ⇔ 脱抑制 disinhib. 

思慮深さ ⇔ 衝動的  

   ⇔ 脱抑制


透明性 lucidity ⇔  精神病性

分かりやすさ ⇔ 奇矯さ 

かわりに? 
  ⇔ 制縛性(強迫性)anankastia




2024年7月6日土曜日

色々な質問 1,2,3

 質問 1 心のモヤモヤって何でしょう?

 難しい問題ですね。「モヤモヤ」という言葉にはいろいろな使い方があるようです。「なんだかモヤモヤする」という場合、腹が立つ、イライラする、という意味だったりします。だから「心のモヤモヤ」にもいろいろな意味があるでしょう。それを前提にしてお話します。

  人間の脳にはいろいろな記憶や感情が、いろいろな深さで保存されています。それは時は黒い影の形でしかその存在を知らせてくれません。おそらく直視するにはあまりに辛い過去に関係することなので、無意識近くに深く潜航していたり、その記憶の内容や感情にモザイクがかかった状態だったりします。
 そのモヤモヤはいつその姿を明確に表すかはわかりません。そのモザイクが急に取り払われたり、あるいは絵を描いたり夢を見たりすることでその姿を明確に表すこともあり得ます。でもソッとしておくうちに徐々に薄くなって消えて行くとすれば、それは結果オーライなのです。ですから黒い影の正体を無理に突き止めようと焦らずに、少しでも自分にとって安らぎとなるような場所や活動を見つけましょう。その結果として影を潜めたモヤモヤを追求する必要がありません。「寝た子は起こすな」というわけです。
 しかしもしそのモヤモヤがいつまでも付きまとって離れない場合には、それに直面するしかないのかも知れません。それは直面するのを待っているかもしれないからです。「起きてしまった子」は今度はあやし、扱わなくてはなりません。しかしそうすることはそれだけで多くのエネルギーを必要としますし、一時的にはフラッシュバックが高まる可能性もあります。そのために、その間は仕事を休む、入院する、いわゆる暴露療法(エクスポージャー)やEMDRや、その他様々な試みがなされています。

質問 2 自分をかわいがることってできるのでしょうか?

「自分に優しくなる」、「自分をかわいがる」、「自分を大事にする」、「自分を好きになる」などの言葉はとてもよく聞きますね。彼方は「自分に厳しすぎます」などと言われることもあり、何となくわかったようなわからないようなもやもやした気持ちにもなります。でも私たちは他人に対して優しくなったり、他人をかわいがるのと同じように自分にそうすることは出来ません。ワンチャンをなでなでする様に自分の頭をなでなでしても少しも嬉しくありません。自分をくすぐれないのと同じことなのです。

自分をかわいがることにかろうじて相当するのは、自分自身に負担をかけないことであり、それはあまりに高い自分に関する理想を変更することだと思います。分かりやすく言えば自分への期待値を下げ、このままでもいいんだと思うことでしょう。自分は~が出来るはずだ、~しなくてはならないという思考を停止することで、自分に過度のプレッシャーをかけることがなくなります。あるいは自分はもう少し人生を楽しんでもいいんだ、と考えるようになること。自分の不完全さやいい加減さを受けいれている事でしょう。

ところで自分をかわいがることは出来ない、と言いましたが、DIDの別人格さんは、他人としての性格を持ちます。だから別人格さんをなでなでしたり、優しくしたりすることはOKです。許してあげることも出来るでしょう。
一つ大事なこと。自分を大事にすることは、人を大事にしないということではありません。相手も自分もハッピーになる関係が結局自分を大事にしていることです。自分は辛いけれど相手は幸せということは、相手にも決していいことではありません。ウィンウィンを常に考えること、それが最終的には自分を大事にすることに繋がります。

やはりなんでも表現のできる相手と関わることです。ペットでも縫いぐるみでも、将来はAIにでも話せるといいですね。日記という手もあります。ちなみに好きなことをしている時の疲れは、ストレスではありません。

質問3 自分の中の人格って、誰なのですか?  「人格は誰なのか?」これは解離現象に関して大問題なのです。そして誰も正解を知らないのです。それがあなたの隠れた「本心」を表しているという説明をする治療者も沢山います。というよりはその様な説明の仕方が主流かも知れません。しかしどう考えても自分のキャラではない人格さんが複数いることの説明がつきませんね。それに人格さんの間でも利害が一致していなかったりして、どれが本心なのかわからなくなってしまいます。

 ただ一つ言えるのは、それが誰かの頭にあるあなたのイメージであることが少なくないことです。母親が小さい頃にあなたのことを「お姉ちゃんでエライね」と褒めてくれると、「いいお姉ちゃん」という人格さんがあなたが生まれるという具合に。ですからある専門家は、出会う相手ごとに人格さんが生まれる、という説明をします。要するに相手の心にあるあなたのイメージをいつの間にか取り入れて人格として作り上げるということでしょうか。でもたとえば虐待や暴行を受けると、その人格が直接取り込まれてあなたの中の黒幕的な人格になることもあるようです。
 でもそう考えても説明がつかない場合が多く、結局別人格とは夢の中の登場人物と似たような性質を持つのではないかと考えています。夢の中の私は時には自分が普段しないことをしたりして、かなり別人、つまり他者であったりします。その様な私と夢の中で出会う理由が分からず(おそらく脳の中ではとても複雑なことが起きているのでしょうか)分からないままに皆で平和共存をする必要があると考えます。


2024年7月5日金曜日

PDの臨床教育 推敲 11

以上の5つの特性をうんとかみ砕いてみよう。

1.情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情) 

何時も気持ちが安定していて落ち着いているという傾向 ⇔ 気持ちが不安定で、というよりは怒りや悲しみと言った負の感情を体験しやすいという傾向と言い直すことが出来るだろう。ここで「否定的感情」のかわりに「肯定的感情」を考えたなら、喜び、安心感ということになるが、それらを体験している人は結局は「心が安定している人」ということだ。だから「肯定的感情⇔否定的感情」としなくてもいいのだ。あるいは「陽性感情⇔陰性感情」と言い直すとわかりやすいかも知れない。これはわかりやすい特性と言えるが、それを情緒安定性⇔神経症傾向、などと言うからわからなくなるのだ。


2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)

人と交わることを好むか、孤立を好むかという対立軸で、これもわかりやすい。そしてこれは1.肯定的、否定的感情の問題とは別の話だ。感情的な人が他人を巻き込む場合には、かなり迷惑な存在になるだろう。他方では人嫌いだが、それに満足する人もいるだろう。
 ただし孤立しがちな人が否定的な感情を持ちやすいのではないかというassumptionを私達は持ちやすいとは言えるのではないか。孤立を好む人は対人接触をストレスに感じ、怒りや憎しみをそれだけ表現しやすいということもあるだろう。だから1と2が完全に相関しないかは疑問ではないか。


3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism

人と和するか、それとも対立するか。これも2と同じ議論になりそうだが、次のような疑問が生まれる。「人と同調しやすい人は、外向性も高いということになりはしないか?」「孤立がちな人は、周囲になびかないから、対立的と言えないだろうか?」うーん。そんな気もしてくる。つまり2,3はある程度相関があるのではないだろうか。


4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性 conscientiousness

実はこれが一番わかりにくい気がする。脱抑制的な人は思い付きで行動し、感情表現をする。衝動的、と言ってもいい。「誠実」な人はルールを守り、周囲に迷惑をかけないというわけだ。これは2とも3とも従属的な関係を持ちそうだ。突飛な考えをする人は、対立傾向が高くなるだろうし、すると結果として孤立してしまうというパターンを考えやすいからだ。逆に周囲に気を遣い、ルールを守る人は周囲とうまくやり、孤立することは少ないだろう。ところでこの後者のconscientiousness を「誠実性」と訳しているわけだが、もっとピッタリなのは「思慮深さ」ではないだろうか。あるいは入念さと言ってもいい。そしてこの対は「衝動的⇔思慮深い」という言い方をすると最もよくわかるのだ。


5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity 

これもまたよくわからない。先ほどはこれを「奇妙な思考をするタイプ⇔常識タイプ」と言い換えたが、そもそもlucidity 透明性、というのが分からない。しかしlucid で英和辞典を引くと、1.澄んだ,透明な。2.頭脳明晰(めいせき)な。3.わかりやすい,明快な。とある。つまり明快で誰にでも理屈が分かるという意味だ。lucid explanation というと「透明な説明」とは絶対に訳さない。「明快な、わかりやすい説明」なのである。だからこれを言い換えると、「奇矯さ ⇔ 分かりやすさ」がぴったりくる。


2024年7月4日木曜日

PDの臨床教育 推敲 10

 さてここからはパーソナリティ特性の問題についての解説だ。ディメンショナルモデルでは、まずPDを一つにしてしまい、それのあるなし、をまず示すということになったが、これは大胆な発想といえる。そしてその上でそのPDの特性を一つ上げなさいということだ。そしてその特性として挙げられるのが、ICD-11では否定的感情、離隔、対立、脱抑制、制縛性の5つだ。DSM-5でも似たようなものだが、制縛性の代わりに精神病性が加わった。)
 ディメンショナルモデルに馴染みなない人は、この5つの特性に戸惑うはずだ。何しろいきなり「脱抑制」と言われても何のことかわからないだろう。しかもその対立概念が「誠実性」だ、つまり脱抑制とは誠実性の反対だと言われても当惑するばかりであろう。少なくとも「もう少しかみ砕いて言い表して欲しい」となるのではないか。
 しかし不思議なもので、性格を測ろうとして因子分析を行った多くの研究は、結局は5つ、それも4つでも6つでもなく5つが浮かび上がってくるということが起きたという。だから5つがマジックナンバーなのだという(
Feist,J, Feist G Theories of personality. p.401)。しかしその先駆けとなったRaymond Cattelはそれよりも多くのものを考え、Hans Eyesenckは3つを考えたという。彼は 神経症性、外向性、精神病性の3つを考え、それらは双極的である、とした。

つまり外向性⇔内向性、神経症性⇔安定性、精神病性⇔超自我ということである。ここで外向性は人と交わる傾向で、その反対は内向性だ。神経症性とは不安や抑うつなどの負の感情を抱く傾向であり、その反対は情緒安定性である。そして彼が後に加えた三つ目の精神病性とは自己中心で衝動的で反社会性、その反対は超自我的、である。
ちなみに神経症性=否定的感情、超自我的=誠実、精神病性=脱抑制的などと言い換えることが出来る。そして以上の話をまとめるとアイゼンクの3つの双極因子は以下のようになる。
情緒安定性 emotional stability ⇔ 神経症性 (否定的感情) neuroticism(negative affectivity)

外向性 extraversion ⇔ 内向性(孤立傾向) introversion(detachment)
超自我的(誠実性)superego(conscientious) ⇔ 精神病性(脱抑制的)psychoticism (disinhibition)
そしてこのアイゼンクの3つに対立⇔同調性、制縛性⇔??を加えるとICD-11の5因子になるというわけである。
ちなみにDSMでは以下の5つを選んでいる。

情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情)
外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)
同調性
agreeableness ⇔ 対立 antagonism
脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性
精神病性 ⇔ 透明性 lucidity


2024年7月3日水曜日

「トラウマ本」 トラウマと心身相関 推敲 4

身体科からの歩み寄り


 ところで転換性障害については最近新しい動きが見られる事にも言及しておきたい。それは神経内科の側からも関心が寄せられるようになったことである。そしてICD-11では初めて、FNDが精神医学と脳神経学 neurology の両方に同時に掲載されたのだ。その事情を以下に説明するが、ここからは転換性障害ではなくFNDという表現を用いることにする。というのも脳神経内科ではもともと転換性障害という用語は使われない傾向にあるからだ。

 一つには脳神経内科の外来にはFNDを有する患者がかなり含まれるという事情がある。 実際には脳神経科の外来や入院患者の5~15%を占めるといわれる。またFND は癲癇重積発作を疑われて救急を受診した患者の50%を占め、脳卒中を疑われて入院した患者の8%を占めるという(Stone, 2024)。そのため脳神経科でもFNDを扱わざるを得なくなっている。そしてそれ以外の身体化、例えば眼科、耳鼻咽喉科、整形外科などの身体科にも同様のことがいえる。したがって精神科医以外の医師たちがいかに機能性の疾患を扱うかというのは従来より大きな問題だったのである。

 また先ほど転換性障害は陰性所見ではなく所見の存在(陽性所見)により定義されるようになったという事情を述べたが、実際に脳神経内科にはHooverテストのように、ある所見の存在がFNDの診断の決め手となるような検査法が知られていることも追い風になっている。

 しかしここで興味深いことも起きている。というのも最近神経内科の側からは、「FNDは精神科医がいなくても診断することができる」という主張が聞かれるからである。後に述べるように私はFNDを含むMUSは精神科と身体科の両方からの援助が必要であると考えるが、神経内科の方から、「精神科は要らない」という主張がなされることにはむしろ当惑を感じるのだ。

下畑 享良 (2024) 日本神経学会の機能性神経障害への新たな取り組み 脊椎脊髄ジャーナル 37巻2号 特集 機能性神経障害(FND:ヒステリー)診断の革命


2024年7月2日火曜日

「トラウマ本」 トラウマと心身相関 推敲 3

 転換性障害の診断基準の見直し

ここで改めて転換性障害の診断基準がどの様に移り変わったかをまとめて表に示したい。


 

症状が神経学的に説明出来ない

心理的要因(心因 )の存在

症状形成が作為的でない

疾病利得が存在

DSM-

DSM-IV

問わない

DSM-5 

〇(あえて強調しない)

問わない

問わない

問わない

ICD-11

〇(あえて強調しない)

問わない

問わない

問わない

 この表の一番上に示された、DSM-Ⅲにおいては、「症状が神経学的に説明できないこと」、「心因が存在すること」、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在すること」がすべて満たされることで初めて転換性障害の診断が下ることが示されている。そしてこれは従来のヒステリーの概念を彷彿させるのだ。というのも本章の冒頭で述べたとおり、ヒステリーとは「自作自演で症状を生み出したもの」であり、それが周囲の注意を惹いたり何らかの利得を目的としたものというニュアンスを有していたからである。
 このうち心因についてはDSM-5,ICD-11では診断基準としては問われなくなったことは、上で転換という概念がなくなりつつある理由として示した通りである。それでは「症状形成が作為的でないこと」や「疾病利得が存在しないこと」についてはどうであろうか。
 先ず「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなくばそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねない。
 さらには疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているとのことである。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまたあらぬ誤解を生みやすいことになる。

Egmond, J. Kummeling, I, Balkom, T (2004) Secondary gain as hidden motive for getting psychiatric treatment (2004) European psychiatry  20(5-6):416-21






 さらには従来転換性症状に見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも上記の脱ヒステリー化の一環の動きを反映しているといえるだろう。ただし実際には転換症状が解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったことになる。
 このようにして症状の作為性に関してはDSM-IVにおいて改められ、また疾病利得について問うことはDSM-5において廃止されたが、DSM-5とICD-11共にあまり目立たないが大きな変更があった。それはその定義第一の定義としての「症状が神経学的に説明できないこと」(DSM-IV)についてである。それが「症状が認められる神経学(医学)的疾患とは「一致しない」((DSM-5では not consistent”, ICD-11では”incompatible”と表現されている)に変更されたのである。
  この変更は、転換性障害において神経学的な所見が存在しないということを否定しているわけではない。しかし医学的な診断が存在しないこと(すなわち陰性所見)を過度に強調するのではなく、医学的な診断に見合わないという点であるという。
 例えば足が動かないという訴えをする人に転換性障害の診断を下す場合、足に病変がないということにより(つまり所見の不在により)診断することは適切ではないとする。そうではなく仮に神経学的に診断し得る足の麻痺があっても、それに見合わない過度の思考、感情、行動が伴う場合(つまり所見の存在により)定義されるべきである。そのことをDSM-5,ICD-11で「あえて強調しない」と表記してある。
 このような変更には、患者が偏見や誤解の対象となることを回避すべきであるという倫理的な配慮も働いている。これについてDSM-5の以下の記載が見られるからだ。

「こうすることで所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.305) 


2024年7月1日月曜日

「トラウマ本」 トラウマと心身相関 推敲 2

 ところで同様の動きは2022年の ICD-11の最終案ではもっと明確に見られた。こちらでは転換性障害という名称は完全に消えて「解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder」という名称が採用された。これはDSMのFNDの「F」、すなわち機能性functional のかわりに解離性dissociative という形容詞が入れ替わった形となるが、ほぼFNDと同等の名称と言っていいだろう。

 さてこの「転換性」という表現の代わりにFNDにが用いられるようになったことは非常に大きな意味を持っていた。このFNDという名称は、これまで転換性障害と呼ばれていた人々の示す症状を最も客観的に、そして味気なく表現したものといえる。機能性、とは器質的な変化が伴わないものを意味し、また神経症状症とは、症状としては神経由来の(すなわち心、ないしは精神由来の、ではなく)症状をさす。つまりFNDとは「神経学的な症状を示すが、そこに器質的な変化は見られない状態」を客観的に記述したものにすぎないのだ。
 ところでここでいう神経症状とは、神経症状との区別が紛らわしいので注意を要する。神経症状、とは神経(内科)学的 neurological な症状をさし、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などをさす。簡単に言えば症状からして神経内科を受診するような症状であり、知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。転換性障害が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であったから、それらは表れ方としては神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。
 それに比べて後者の神経症症状とは、神経症の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などの神経症 neuross の症状という意味である。
 

なぜ「転換性障害」が消えたのか?

  さて問題は転換性という用語が機能性(FNDの”F”、すなわちfunctional)に置き換わることになった意味である。それは「転換性」という言葉そのものについて問い直すという動きが切っ掛けとなった。その動きについてJ.Stone の論文を参考に振り返ってみる。
 本来転換性という用語はFreudの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion)に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。
 ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したいと思う。」(Freud, 1894)
 しかし問題はこの転換という機序自体がFreudによる仮説に過ぎないのだとStone は主張する。なぜなら心理的な要因 psychological factors が事実上見られない転換性症状も存在するからである。

Freud,S (1894) The neuropsychoses of defense. SE3,p48、防衛―神経精神症。フロイト全集1. 岩波書店,p.398) 
Jon Stone (2010)Issues for DSM-5:Conversion Disorder  Am J Psychiatry 167:626-627.

このようにFreudの転換の概念を見直すことは、心因ということを考えることについての再考を促すこととなった。そしてそのような理由でDSM-5においては転換性障害の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。
 ところでDSM-5やICD-11において新たにFNDとして掲げられたものの下位分類を見ると、それがあまりに網羅的である事に驚く。つまりそれらは視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの ・・・・・・ と細かに列挙されているのである。つまり身体機能に関するあらゆる症状がそこに含まれるのだ。これは概念的には予断を多く含んだ転換性障害の代わりにより客観性や記述性を重んじたFNDが採用された結果として理解することが出来るだろう。