1.バウンダリーの起源
始めは「バウンダリーの歴史」というテーマで原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には無理と判断した。私は精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とするが、それらの分野にも深く関与するテーマであるため、バウンダリーに関する臨床的な立場からの考察となることを最初にお断りしておく。
最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがいいような「身のおき所」を探しているのだ。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。
たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物の中には自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩くものがある。
他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも日常的に体験される。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験しているだろう。
バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。
2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」
ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即した臨床的なバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは精神分析と出会った時である。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そして当時の精神分析の大御所の小此木啓吾先生の門下生であるという先輩医師のS先生の指導の下に参加者が持ち寄るケースの検討を行っていた。そしてこのバウンダリーという問題に出会ったのだ。
ある時私たちの一人が報告した患者さんが分析治療に遅刻したという話になった。S先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが定刻の2時に3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人はこうすることで無意識に治療に抵抗していることになるんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。私はかねてから人の心に興味を抱いていたが、それまでは日常的な些細な出来事に無意識的な意味を見出すことはなかった。そしてしばらくはこの患者さんの遅刻のことが頭を離れなかったが、そのうち疑問にぶつかった。