2026年3月29日日曜日

「バウンダリー」推考 8  

4.バウンダリー上の遊びと臨界、

  バウンダリー侵犯とトラウマの問題

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、危うい綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。そこではまず個人の中でそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、そこを越えるか超えないかに関して両者の間の様々な思惑が働く。それは緊張感をはらみ、危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして実際にそのバウンダリー自身の破壊や修復が行われる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 このような性質を持つバウンダリーは、またそこで遊びや創造性が発揮され、その意味でこれほど豊かな場はないと言ってもいい。そしてバウンダリーは、そこがいきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらのテーマについてはこの短いエッセイで語りつくすことは不可能であるが、そのいくつかをかいつまんで述べてみよう。

 先ずはバウンダリーの心地よい体験について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の外に一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭を出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている場所のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働きつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていく。しかし幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進む。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。
 しかしこのようにバウンダリーをめぐるワクワクする体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほど遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知る。思わず「ママー!」と叫んでみる。しかしこれまでは何があっても飛んできてくれる母親の姿はない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。自らの慣れ親しんだ安全なエリアをはるかに踏み越えていることを知ったその幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型である。

 私はこれを書きながら、他方では幼な子の姿が見えなくなって半狂乱になっている母親の姿を想像している。彼女はすぐに半開きになっている門扉に気がつき、近所を探し回る。もちろんわが子はそれほど遠くに行っているはずはない。そして案の定それほど遠くない街角の道端で泣いている息子を見つけて駆け寄り、抱きしめる。トラウマは深刻なレベルでは起きなかったのだ。  しかし自然界ではこうはいかない。母親からはぐれたライオンの子は、すぐにでもハイエナの餌食になり命を落としかねないのだ。それはともかく‥‥

 この様にバウンダリーを超える体験は様々な「事件」につながる可能性がある。それは喜びや興奮を伴う場合もあれば、恐怖や絶望を生むこともある。そしてそれはバウンダリーという状況が生む一つの宿命でもある。すでに述べたように、バウンダリーとは二つ(以上)の力の均衡により成り立つ。それは一見動かないように見えて、実はその内側に大きな力が加わって、互いが釣り合っているというところがある。ちょうど二人の力自慢の腕相撲の様に、あるいは力の拮抗した二つのグループの綱引きの様に、そのバランスが少し破綻したことから一挙に勝負が決まってしまう可能性があるのだ。

 バウンダリーのその種の性質は、臨界状況、ないしはリミナルスペースとして現代科学の一つの大きなテーマとなっている。