以上で「3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念」を書いたことになる。次の「4.境界侵犯と相転移、トラウマ SOC」に移る前に内容を少しまとめておこうか。 バウンダリーは実際には剛構造として契約書に記載され、固定されているだけのものではない。それは生きた人間が運用するものでもある。すなわちそれは内在化され、心の中で自由な取り回しがなされる。そしてその在り方が「柔構造」的だというわけだ。(また何か新しいことを言っているぞ。) 例えば(まとめなのにまた例を出すのか?!)高速道路の法定速度が時速60キロだと定められている。これは絶対に59.9キロでも60.1キロでもない。ブレることがないから剛構造だ。それについて文句を言う人はいない。(例えば警察署にねじ込んで、「法定速度を60.1キロにしてくれませんか。お願いしますよ」と嘆願する人などいない。自分の文句により変更されることは絶対にないから、そんなことをするのは時間の無駄だということを知っているのだ。)しかしそれを頭に置いているドライバーが、最高時速何キロで走るかは全く別の話だ。ひょっとしたら70キロくらいかもしれない。だから実際に人間により運用される速度は柔構造的なのである。 もしこの柔構造という視点を持たないとどうなるのか。治療開始時間は守られるべきもの、として患者がそれを守ることに全力を注ぐとしたら、それが守られないことはすなわち患者が治療自体に抵抗しているということになる。そうすることは、治療者に迷惑をかけたり、契約違反となったりするという形で治療関係の維持を困難にする可能性があるため、治療に対する抵抗と考えざるを得ない。だからそのような行動は直ちに取りあげなくてはならないというのが古い分析的な考え方だ。 しかし実際の治療開始時間は、様々な意図や偶発事により、患者だけでなく治療者によってもチャレンジを受け、揺り動かされているものなのだ。そのような揺らぎは生きた人間がそれを運用する以上は必然的に生じると言っていい。 このように考えると、剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的となるかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。分析家のオフィスは空間的にはいつも同じである。毎回その住所が変わったり、地盤沈下で突然地下に埋もれたりはしない。またセッションの料金(例えば一回一万円)は、分析家のその日の体調や気分で9000円になったり、12500円になったりはしないし、分析家も患者もそれらを固定されたものとして動かすつもりはないから、それについての力動は少なくとも短期的には働かない。(ただしある患者が1万円という料金について問題にし始め、治療者もそれに応じてそれを変更するための話し合いが行われるとしたら、それはとたんに柔構造的になるという可能性は否定できないが。) しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。(そうか、それが剛構造と柔構造ということなのだ。一つ理解が進んだぞ。) ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。 柔構造的なバウンダリーが実際に運用されるときは、それに両側からかかる力、たとえばそれを広げる方向と狭める方向の二つが釣り合うことで安定する。その意味では福岡伸一先生の「動的平衡」の概念に近い。これは物理法則にしても言えることだ。(相変わらず脱線だ!) 例えば水の氷点は0度である。それは理科の教科書に書かれているし、そのような形で一応剛構造的に定まっていると考えられている。(ただし一気圧という条件下だろう。)そしてその温度の付近では、水の分子同士の氷結と融解の力がバランスを保たれているのだ。しかしそれは0度だから平衡状態になる、というのではない。平衡状態になる時の温度が結果的に0度として示されると考えた方がいい。そしてそれは常に細かく揺らいでいるものだ。同様に治療開始時間も終了時間も実際にはそのたびごとに揺らいでいるのはこれまでの例から明らかだろう。 それではバウンダリーをめぐる両方の力の正体とは何か。その一つの候補として挙げられるのが、ホフマンの「儀式性と自発性」の考え方である。この点について以前に書いたのは以下のような内容だ。 ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、「後者」を儀式としたのだ。 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。 しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。以前、「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間をこの「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するかもしれない。つまり完全に抑制がなくなって退行しきった状態でもなく、~すべしという観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上で患者がバランスがとれるように張られている格好のロープというわけだ。