2026年3月21日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 19

 バウンダリー上の「遊び」と臨界

最終的にこの話は臨界状況に至っておしまいになるだろうか。私は基本的に生命体は臨界にあると思っている。動的平衡という考え方も、「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC) もこれに関係している。これについては、3年ほど前(2023年8月29日)にこのブログで書いたことを引用しよう。


脳と心は臨界状況である


 ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。

 ・あることを思い出しそうで思い出せない時。

  • あるアイデアが閃きそうな時。

  • 怒りの爆発をギリギリで抑えている時。

  • 解離状態において人格の交代が起きる時。

 これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。何かを思い出そうとしている時、もう少しでいいアイデアが浮かびそうなときなどを思い浮かべていただきたい。私達はよく中空を見上げたり、眼球を上転させるような仕草をする。たいていの場合目は開いたままである。ただしその目は何か具体的なものを捉えてはいない。出来るだけ何もないような中空に目を泳がせたりする。その様な時私たちは明らかに何かを「待って」いる。向こうから何かが下りてこようとしている、そのプロセスの邪魔をしないように、心の動きを止めるのである。英語で言うと poise している状態。もちろん人によっては散歩をしたり、風呂に入ったりということをしながら、頭をボーっとさせるという手段を取るかもしれない。

 では私たちは何がどうするのを待っているのかと言えば、それは私たちの無意識、ないしは脳からのリスポンスを待っている状態であろう。それはあたかもコンピューターの検索エンジンにキーワードを入れて enter キーを押し、結果を待っている状況に似ている。いずれにせよこのような場面で私達は無意識や脳に対してかなり受け身的な姿勢を取るのである。


「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC)とは?

 さてここで少しわかりにくいタームを導入したい。それはSOCという頭文字である。これは「自己組織化された臨界性 Self-Organized Criticality」の頭文字だが、長ったらしいので簡略化してSOCと呼ぼう。これはどういう意味かといえば、複雑系の中でもあるものは、この臨界の付近に自然と近づいてくるという意味である。

  SOCの定義としては、臨界に向かっては離れ、離れては向かい、場合によっては相転移を起こすシステムであり、広い意味では心、ないしは脳はこのSOCと考えられる。臨界から遠ざかっている時はあまり大きなことは起きない。しかし決断を下さなくてはならない機関であるということは、必然的にいつでもいざとなったら氷結や雪崩を起こすことのできるSOCである。

 ではなぜ脳はSOCなのか。それは端的に動物は生きるという宿命を負っているからだ。動物は安静時でも常に活動し、外界からのエネルギーを必要としている。その為には捕食しなくてはならず、敵から身を守らなくてはならない。つまり行動を起こすわけであるが、それは殆どが臨界状況を含む。例えば猫がネズミを捉える時は、ネズミを捉えるという決断を下す、実際にネズミを捕獲するチャンスを伺う、獲物にこちらの存在を気づかれずに捕獲できるギリギリの距離までおびき寄せる、等はことごとく臨界期なのだ。

 もちろん臨界期を迎えずに生きている生命体もいる。例えば一日に一度餌と水を与えられ、あとは昼寝をしている猫であれば、臨界はめったに起きないかも知れない。全てが計画通り、予測通りに生じ、猫は何もハラハラする機会がないかも知れない。しかしそのような環境を提供してくれるご主人様に捨てられたら、野良になり、臨界につぐ臨界の厳しい生存競争を生きていくことになる。

 それに比べて自然界、例えば大地がSOCだと言えるのだろうか?必ずしもそうではないだろう。たとえばアメリカの中央平原に居てもめったに地震を体験しない。何年かごとに起きる大地震にハラハラすることもない。つまり臨界からは程遠いのである。しかし世界全体の地震の頻度が、リヒター・グーテンベルグの冪乗則に従う以上、全体としては臨界に近いことになる。つまりプレートは常に動いており、世界のあちこちでひずみが生じては地震である程度それが解消され、ということが連続的に起きているわけである。


 つまり臨界状況とは生命体(それ以外にもあるだろうが)が常に近づいては離れていく関係にあるようなものである。そこで様々な事件が起きるのも当然である。臨界状況が面白いのは、ある意味で自明なことなのだ。そしてそこでは相転移という名のどんでん返しが起きる。それはトラウマにもなるのだ。


2026年3月20日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 18

  この話の路線上に出てくるのが「遊び」である。と言っても境界線上の浮遊状態が即、遊びにつながる、という短絡的な主張をするつもりはない。しかし境界線上の綱渡りと遊びには深い関係があることは確かである。  そもそも遊んでいる時には私たちは大きな不安に駆られることはない。不安が強ければ遊んでいる余裕はないだろう。「自発性」がなく、「儀式」のみに追いまくられる状況とは、例えば捕食者に追いかけられて必死に逃げている状況、病の苦痛に耐え忍んでいる状況、あるいは上司からの命令で好きでもない仕事を締め切りに追われて一心にこなしている状況、などであろうか。  しかし一切の不安や「儀式」がない状態もまた退屈であり、結構苦痛でもあるのは確かだ。仕事に追われて忙しい毎日を過ごす人は、休暇を取ってリゾート地に赴き、ビーチで横になってのんびりしたいと願うだろう。確かにそれは思い描く分にはいいが、しかし実際に浜辺で何もせずに横になり「のんびり」する時間に、実際には何分耐えられるだろうか?何をしても許される、他方では~をしなくてはならないというものが一切ない状況もまた、遊びとは程遠い。  私は去年遊戯療法学会での発表でいわゆる「じゃれ合い」を遊びのプロトタイプとして論じたが、ジャレ合いの楽しさにはスリルが必要である。動物の子供同士のジャレ合いには、肉球に隠している爪を出したらお互いに傷つけ合いかねないという迫力が伴う。この状態の特徴は、発揮される「自発性」に一歩遅れて「儀式」が付きまとい、互いにイタチごっこになるということである。ただし本当の意味で両者が伯仲している状態とは違う。その場合はジャレ合いではなくて、ボクシングの試合のようになる。パンチを繰り出すことでカウンターを食らう確率も増す。そのギリギリのせめぎあいで進行するのがボクシングの試合だ。  それに比べて相手のパンチが大したことがないことをわかっており、その分自由にないしは気楽にパンチを繰り出すことができる状況はミット打ち(スパーリング)にたとえることが出来よう。スパーリングの場合コーチはミットを構えてボクサーのパンチを受ける。でも時々ひょいひょいとそのミットを動かし、こちらがパンチを外せば、いつそのミットをこちらの顔面に向けて来るとも限らない。もちろん程よい手加減をわきまえているコーチはそこら辺をうまく調整することが出来、一種の遊びの要素を入れることでボクサーがミット打ちを継続するモティベーションを与え続けるのであろう。

2026年3月19日木曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 17 

  ここでこの境界の問題に、ホフマンの「儀式と自発性」がどうかかわってくるかを示さなくてはならない。以前に書いたのは以下のような内容だ。

 ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つはそれを破ったら大変な事になるのではないか、という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎ合いである。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこのせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

そしてこれは治療関係についてもいえる。患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性だと言った。患者は時間を減らす自由はあるが(「今日はお先に失礼します」、と言って時間前に退出することなど。治療者はその患者の自由を尊重すべきであろう。それもまた患者の時間の使い方だからだ)、時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(と言っても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間を(すなわち何かに追われて余計な思考が介入できないような時間を除いて)この「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するのか。完全に抑制が放たれて退行しきった状態でもなく、「~すべし」という観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上でバランスがとれるような格好のロープというわけだ。


2026年3月18日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 16   

  ここで私が40年前に日本を発つとき考えていた「患者さんの遅刻が治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。より正確には以下のように書いた。 「でも[患者さんの3分の遅れは]どの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」

 今の私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事はあるよ。でもそのこと自体はそれほど重要なことじゃないんだ。というのも多くの場合そのどちらとも決められないからね。大事なのは治療抵抗の可能性に気がついたら、一応フラグを立てておくことかな。もしその上でそれが繰り返され、そこに何らかのメッセージが含まれるのではないかとより強く感じた場合は、それが単なる偶発事ではない可能性を考えるだろう。まだ確証はないだろうが、それが強いと感じられるのなら、その時点で患者と話してみるといいだろう。でも恐らくそれはそれを感じ取る能力は、分析のトレーニングとはあまり関係ないだろうね。」

 そう、はっきり言って精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり働いてくれないのだ。「でも」と私は続ける。「その種の出来事の扱い方の経験値は増えていくだろうね。」それは以上のような経緯で何らかの反応をし、それに対する相手の反応を見る、という事を通して高まっていくのだ。でも患者さんの遅れを取り上げると言っても、決して「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。そのことに気づきですか?」などの言い方にはならないだろう。というのもそのような言い方はもろに「これからは遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。でもそれはその介入の目的ではない。というか精神分析はそれとは逆のことを目指しているからだ。というのもセッションに遅れるのはある意味では患者の自己表現だし、治療者にセッションの開始を遅らせる権利はなくても、患者の側にはその自由があるのである。

 患者さんの3分の遅れについてのこうした扱いは「柔構造的」と言えるだろう。それは一言でいえば、決して超自我的な役割を分析家が負わないということだ。そしてその結果として実は色々なことが偶発的にわかったりする。たとえば患者さんが乗るバスの時刻表が最近変更になってから起き始めたという事が判明したりもする。あるいは患者が少し遅れることで治療者を試すという意味も含まれていたかもしれない。いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はとても大切ではあるが、かなり高飛車で上から目線なのである。

2026年3月17日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 15

  上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹していては生じない。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、強固なものになって行くのだ。それはなぜなのだろうか?それは境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくからだ。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。と言っても患者の方が一方的に押してくる状況だ。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者はちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚は跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、その患者の行動に不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、こちらの押す力に応じて踏ん張るので倒れることがなく、安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもっと困惑の色を浮かべ「押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。そう、治療者はそれなりにしっかり反応をしてくるのだ。ただその反応は依然として穏やかで、患者からの揺さぶりに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、ただ心穏やかな人間としてそこにいることを感じさせる。そこに患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者である。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう?つまりそれは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はピシャッと跳ね返されたり、無視されたりするだろう。「私のキャンセルの理由をお聞きになりたいのですね?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、「はい時間です!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  今示した剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに真っ当な人生経験を積んできているからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。 そのようなことが生じる可能性を考えてみる。一つは、治療者自身が左脳人間的であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる。 いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。


2026年3月16日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 14 

  しかし精神分析的な治療関係においては、治療者がプライバシーを持ち込むことは、「それが患者にとって何らかの意味で助けになる限りにおいて」である。つまり実際は患者の側は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないという可能性も考えて、むやみに伝えないことを原則とするのだ。  もし治療関係にかかわる事で治療者の側の情報を伝えるのであれば、それは最初からある程度意図して開示すべきものなのであろう。たとえば治療者が「今日は花粉症で何回かくしゃみが出るかもしれませんが、風邪ではありません。」とか「骨折をして松葉杖を使っていますが大丈夫です(その痛々しい姿は見ただけで明らかであり、それを隠しようもなく、そのことで患者のよけいな不安を取り除くため)」等の言葉がけは、治療者がそれを伝えた方が治療をよりスムーズに、かつ安全に行えるのであれば行うべきであろう。  ところが聞かれもしないのに治療者が「昨日は〇〇という映画を見ました。ラストシーンがよかったなあ。」などと伝えることの意味は恐らく皆無である。それは治療に全く関係ない、ただの世間話だからだ。しかし場合によってはそのような話も治療的な意味を持つかもしれない。たとえば患者の側が非常に緊張していて、治療者側が何かパーソナルな話を挿入することがその緊張感を和らげる助けとなると考えた場合などだろう。  このように考えると、治療者が自分について何をどこまで話すかというのはかなり微妙だが、確かにそこにバウンダリーが存在することで意味を持ってくると言えそうだ。治療者は塀の上をバランスを取りながら歩いているようなところがある。そして患者に何を伝え、何を伏せておくかを細かく考えながら歩を進めるのである。

 さらにもう一つ具体例を挙げる。治療者が患者に二週後の週のセッションをキャンセルする必要があると告げるとする。その理由をどこまで告げるか、ということは結構微妙な問題だ。毎年同じ時期に学会関連の出張があり、今回は治療者がそれを伝えるのが遅れただけだと患者が察するであれば、特にキャンセルの理由を告げなくても問題はないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を患者の側が心配する理由がある場合には、治療者のキャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと先生は私とはあまり会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側からの一言で、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。  ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「父親が他界し、故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとってはそれを伝えられてありがたく感じるかもしれない。しかし別の患者には大迷惑だったりする。(「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。)  つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。  しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「私の父親を亡くした時のことを思い出しました。その時は私は悲しみのどん底でした。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる。これも考えればきりがない。

2026年3月15日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 13

  実は告白するが、この論文は全く進んでいない。今の私の一番の気がかりはこのことだ。締め切りは4月の後半だが、このままだと単なるエッセイか、自分自身の著書(治療的柔構造)一冊しか引用文献のない出来損ないの論文になってしまう。はっきり言って…執筆を引き受けるべきではなかった。このテーマについて私は書く資格がないからだ。でも引き受けてしまったからにはしょうがない。とりあえず書き進めよう。トホホ・・・・

 いろいろ回り道をしているようだが、私はどうして治療的柔構造の発想に行き着いたかを書こうとしているのだった。しかし書いているうちに新たな考えが浮かんでくるのだ。つまり自分の中で全く「仕上がっていない」テーマなのだ。だから一点に収束していかないのだ。
 ともかくも精神分析の臨床をやりながら思ったのは、患者と私との会話において起きている力動(つまり感情的なやり取り)はほぼこのバウンダリーを巡って起きているということに気が付いたのだ。例えば開始時間、終了時間がそうだった。開始は2時くらい、終了は2時50分くらい、というのであれば、起きないことが、きっちり2時から2時50分と定められていることで起きる。  例えば私が少なくとも分析的なやり方を多少なりとも意識している時は、いつも終了時間はかなり正確に守っている(ただし終了時間なら正確には2時50分に終了にしてはいない。必ずほんのちょっと遅くにしている。ここですでに柔構造的になっているのだ)。だから私が話し続ける患者のために(私と患者の間で暗黙に定まっている終了時刻から)30秒間延長したら、ふつうそのような「持ち出し」は相手に伝わる。分析において構造の微細な侵犯(それほど大げさなものではないが)は患者の側にも伝わっているはずだからだ。そしてこれはアバウトな構造では生じないことなのである。これが「柔構造の基底に剛構造あり」と言われる所以だ。(←実は今自分で作った諺のようなものである。)

 治療構造としては時間以外にどういうことがあるだろう? たくさんある。その中で「匿名性の原則」を例に挙げよう。一挙に話が複雑になるが。治療者は原則として自分の情報を意図的に患者に伝えない。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。これを患者と治療者の間に引かれた線引き、一種の治療構造と考えよう。私はそれに対して自己開示(治療者が自分の情報を伝えること)は必要に応じて「あり」だと考える。しかし、である。自己開示は匿名性の原則があってこそ意味を持つ、というところがある。最初から何でもあり、では意味をなさない、というか意味が薄らいでしまう可能性があるのだ。

 もちろん友人や同僚どうしなら、自分のことをある程度は明かすのは、ある意味ではマナーの範囲だ。米国でも友人や同僚の間でどこまでは話すということが大体決まっていて、そのことは特別の理由を除いては互いに隠さないというところがある。結婚をしていたら指輪を身に着ける、という暗黙の決まりのようなものである。つまり個人情報に関してのバウンダリーはしっかりあり、だからこそ自分のプライバシーを執拗に明かす露悪的な人の前では、人はそこに「KY感」を感じてそ「引いて」しまうものだ。


2026年3月14日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 12  

  古き良き時代はこうではなかっただろう。いい加減、別の意味で柔構造的だったはずだ。昔の物々交換の時代に、隣人といつもニワトリ一羽と袋一杯のジャガイモとを交換していたとしよう。あなたはジャガイモ畑の所有者の方だ。するとある日「今日の鶏はちょっと小ぶりだな」とか「今日のジャガイモの袋はちょっといつもより小さいな」とお互いに思ったりするかもしれない。しかし確証が得られず、モヤモヤで終わっていた可能性がある。そのくらいのことでもめ事には発展しないはずだ。  しかし人間はお互いに被害的になる傾向があるからこそ、お互いに相手にごまかされていると思い、不仲や喧嘩につながることが多いのだ。逆に相手にサービスしてもらっているとお互いに思っているようなケースはずっと少ないだろう。おそらくそのような理由もあり、やがて価値の比率を重さで決めるなどし、そこに貨幣が導入されて定価が定まる。土地の境界もしっかり線が引かれてお互いにそれを厳密に守るようになるはずだ。  相変わらず脱線気味だが、私はこう言いたい。治療構造として開始時間が2時、一回50分と定められているからこそ、そこで「サービスをしてもらえた」とか「終了時間を一秒たりとも延ばしてくれないなんて、なんて頑固な治療者だろう?」などのあらゆるドラマが生じる。  興味深いことに定刻に始まり、定刻に終わったとしてもドラマが起きるのだ。お互いに持っている時計の時刻が数秒ずれるという事はありうる。すると患者が2時きっかりにドアをノックしても、少し時間が遅れている時計を使っていた治療者の方は、「まったく、まだ10秒あるのに…。だいたいほんのちょっと遅れてノックするのが礼儀だろう?」(←私の創作である。ただし私は定刻よりほんのちょっと遅れてノックをするようにしている。ノックされる側としては、時間よりほんの少しでも早くノックされるのは侵入的に感じ、遅れることで余裕をもらえたと思うからだ。)  なぜこんなことが起きるかと言えば、人間のやることは、(そして自然現象もそうであるが)常に揺らいでいるからだ。そして私たちは気分の波にも翻弄される。治療者と患者の間の挨拶にも表れるだろう。これは境界や治療構造とは異なるが、治療開始には治療者が「それでは始めましょう」と声をかけるとする。あるいは患者が「ではお願いします」で始まるとする。これは目に見えない治療構造として定まっているのだ。すると治療者の「それでは始めましょう」に彼の機嫌が反映されていたり、その声の大きさや嗄れ具合に体調が現れている可能性がある。するとセッションはいつもとはかなり違ったトーンで始まり、「先生はどうしたんだろう?」「気のせいかも知れないが、今日はあまり頷いてくれないな?」などと考えるようになっていく。  私はバカバカしい話をしているのであろうか?実は人間同士のやり取りでは、これは普通に起きている事であり、精神分析でもそうなのだ。仲のいい夫婦でも時々、本当にどうしようもなく些細なことから口論が始まるのを私たちはよく知っているはずだ。

2026年3月13日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 11

  この話、私が予想していなかった方向に向かっている。「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」とは、小此木先生が私が新人の頃に言っていたことだ。しかし治療構造を厳密に守ることの意味を疑い始めていた生意気な私は「それは建前でしょ?」と思っていた。「いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」(小此木先生があまりそれを守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそうおっしゃっていた。)しかし今こうして考えているうちに、まさに小此木先生の通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は正しかったのだ。しかし通常考えられるのとは別の意味で、なのだ。それに「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」という意味ともまた微妙に違うのだ。でもうまく説明できるだろうか?  セッションが2時から始まるという構造であったとする。治療者はぜったいにそれを厳守しようとする。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれをおろそかにすることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は剛構造的? どういうことだ?  ここで少し脱線して、商売を例にとって説明したくなった。治療者がお肉屋さんだとしよう。しかも古いタイプのお店で、量り売りをしているとする。昭和の肉屋さんはこうだったなあ。今でも町のパック詰めしない肉屋さんはそうか。  まあそれはともかく、100グラム300円の豚コマを売る時に、お肉屋さんは器に100グラム以下の豚コマを盛ることは絶対にできない。逆にそれ以上どれだけ「おまけ」をつけるかの裁量がある。(293円とかをつけるなら別だけれど。)お客の側は、肉屋が100クラムと主張している肉に、299円しか払うことは出来ない。ただし100グラム分以上のお金をチップ込みで払うという裁量はある。つまり物の価格は、肉屋にとっては料金という境界を内側にへこませることならできる。逆に客にとっては、絶対に内側にへこませることは出来ないが、外側に撓ませることならできる。つまり肉屋と客にとっては、値段という境界は「半柔構造的」(それも逆向きに)になっているのだ。  話は脱線気味だが、治療についても実は同じことが言える。患者は2時より早く来ることは出来ない。来ても治療者はドアを開けないのだ。第一前の患者さんがまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。  逆に患者の側なら、2時にノックをしても、20秒遅れでしかドアを開けてくれない治療者には時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「そんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかひじ掛けの中央線よりホンのちょっとでも侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←時代は適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。

2026年3月12日木曜日

共感とその限界 3

 最後に

 最後に今日の発表の内容を簡単にまとめておこう。

 この発表では、いわゆる支持的療法の現在の立ち位置について述べた。この問題は当センターの皆さんが週一回かそれ以下の頻度の精神療法を日々行っている場合が多いため、それだけ重要な問題であろうと考え、テーマとして選んだものである。
 最初にメニンガー・クリニックにおけるPRPについて説明したが、そこではいわゆる表出的な手法よりは支持的なアプローチの有効性が明らかにされたという意味で画期的なものであった。そしてその影響もあり、海外の精神療法の世界では、支持的療法の再評価が進んでいる。そしてそれと同時に起きているのが、精神療法家たちの精神分析離れといった現象である。
 しかし今の時代も、少なくとも日本の精神分析の世界では、支持的療法はその評価を十分に与えらえていないという印象を持つ。やはり転移の解釈といった王道が治療的な価値が高いと考えられ、それこそが本物の精神分析であるという、私が「モーセの十戒」と呼んだ考え方が支配的であると言っていいであろう。ただし転移解釈の有効性を否定するような根拠はまだ十分でないとしても、支持的なアプローチの有効性を示す根拠は疑いようがないと言っていい。

 私は次に支持療法的な介入の中で、共感に焦点を当てて論じた。しかし共感の重要性を手放しで論じたというわけではなかった。実は共感を私たちが十分にわかっているかどうかには、私はかねてから疑問を持っていたのだ。少なくとも自分ではよくわかっていなかったと思う。そのことをAIとのやり取りで痛感したというのが私の話の後半部分であった。

 AIは中立的であるはずだ。なぜなら一切の逆転移を有しない(はずだ)からだ。AIの人の心とのかかわりについて論じる際に、これほど明確なことはないであろう。AIは体験を持てないし、物事を(人間が行うような意味で)理解することはできない。しかし人間の問いかけを「機能的な意味で」理解を行うことが出来、またそれを可能にするような明らかな「知性」を有する。そのAIがなぜ人間との対話で肯定的な言葉を伝え、ポジティブな評価の言葉を投げかけ、しかもここが重要なのだが、なぜ人はそれを作為的、虚言、などとみなすことなく、むしろ有難さを感じつつ受け入れるのであろうか?

 この問題に対するアプローチとして私が選んだのは、「いかにAIは優れて共感力を発揮できるのか?」ではなかった。むしろ「なぜ人間がAIのようにできないか?」について論じる事であったのである。そしてそれは私たちが受肉していること、それゆえに自己愛的で羨望を抱きやすく、シャーデンフロイデにまつわる感情に捉われるという現実を認識することでもあったのだ。

 多少なりとも理屈っぽく哲学的な議論になったが、このお話をお聞きになった皆さんが、支持療法や共感の問題について、その価値や限界も含めて再考するきっかけとなれば幸いである。


2026年3月11日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 10

 「治療的柔構造」の概念を作った大野裕先生との対談(岡野 (2008)「治療的柔構造」の最終章)で彼が語っている例が面白い。彼は教育分析を受けていた時、日本から帰ってきたばかりで時差ボケでセッションをすっぽかしてしまったことがあったという。大野先生は「自分が無意識的に示しているであろう治療抵抗を早速扱われてしまう」と不安を覚えつつ、まずはセッションをすっぽかしたことの謝罪の電話を分析家に入れた。すると分析家は非常に素っ気なく、「あ、そ、じゃ次の予約は?」という感じで特に何も言われなかったという。大野先生は「ああ、こんな感じでいいんだ。あまり枠に縛られる必要はないんだ」と思ったというが、おそらくそこに同時に感じられたのは、治療者の寛容さではなかったかと思う。いつも厳しいと思っていた分析家が、実は柔軟で人間味を持った人だった‥‥というわけだが、これも不思議な話なのだ。精神分析以外のもっとユルーい治療関係で、「来れる時に来てね」という治療者との関係があったとしたら、治療をすっぽかしたことで患者はそれほど後ろめたさを感じないし、「あ、そう。じゃ次の予約は?」で済ましてくれる治療者の寛容さも感じないであろう。というより謝罪の電話もしないかもしれない。

 この種のいわゆる無断キャンセルは分析以外ではよくある話であり、その扱いについても普通は「素っ気ない」のが普通だ。通常の社会生活を送り、そこで生じたすっぽかしと同じ扱いになる。それが大事な会合だったら大チョンボであり、「無意識的な抵抗」を扱うどころか、その責任の重さが問われることになる。上司は「その意味を一緒に考えましょう」などと悠長なことを言う場合ではなく、即刻降格か解雇を告げるところだ。  しかしそれがユルーい会合、例えば私の新人時代にS先生が主催していた分析研究会なら、一回無断で休んでも「今度からちゃんと来ようねー。最近来る人数が減ってきてるんだから。」「すみません、ちょっとうっかりして」という「素っ気ない」あつかいをうけて終わるだろう。遅刻やすっぽかしはその意味を深く問われずに日常の一コマの一つとして過ぎていくわけだ。  この問題、考えていくと意外と奥が深い。私が今至ろうとしているのは,剛構造あっての柔構造だという話である。精神分析では時間も料金も休みの設定もきちんと線引きをする。そして治療者も患者もそれを遵守しようと努力をする。するとそれが破られることには必然的に何らかの意味が生じてくる。たまたま電車の遅延で遅れたとしても、それが起きたとしても定刻通りにセッションに訪れるように、どうして普段から10分前には着くように余裕を持って来ないのはなぜか、とか。  つまり剛構造だから構造が破られたときは両者もそのことをしっかり認識することになる。その上で治療者が柔軟にそれを扱うか、あるいは素っ気なく流すかという事が問題となる。日本では治療者が個人開業をしている場合、部屋代の関係で待合室を設置できないことが多い。すると患者は定刻通りにドアをノックすることが求められる。すると少し遅く訪れるか、それとも定刻の30秒早いか、などの僅かな変動は治療者がそれをどう扱うかにとても微妙に反映される。例えば一分以上前に患者がノックをしても返事をしないという分析家もいる。彼は30秒前より近ければOKという風に決めるのだ(個人差あり。)つまり患者も治療構造を微妙に揺るがし、治療者の方もそれに対する対応を調整するという事がより明確になる。それは一つの駆け引きであり、「治療開始時間はしっかり守る」という前提があって初めて意味を持ってくる。

 ここで述べていることはしかし、「治療構造は守るべし」という意識とは微妙に、しかし明確に異なることは強調しておきたい。


2026年3月10日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 9

  さて米国に移り体験したことは、簡単には言えないが、精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれていながら、しばしば平気で破られているという現実であった。「境界は破られてナンボのもの」というところがある(誤解を受けやすいが)。そのことへの疑問が後の「治療的柔構造」の概念に繋がるのであるが、ここら辺をまだきっちり書いたことはなかった。この機会にまとめてみよう。  一対一の対面で行われる通常の精神分析の治療だけでなく、精神分析的なメソッドを用いた入院治療も存在する。メニンガー・クリニックでの入院治療がまさにそうであった。しかし私がそこで目にしたものは、まさに治療構造で患者をがんじがらめにするという傾向であった。患者は一日のスケジュールを学校の生徒の様に一時間目から決められる。一時間目はグループセラピー、二時間目は木工作業、3時間目は全体ミーティング、4時間目は治療者との精神療法や精神分析、などと言う風に(もちろん時間割は個人個人で異なる)。患者は入院した時からLOR(責任レベル)という一種の地位を与えられる。入院当初の一番低いレベルでは外出が許可されず、参加できる活動は制限される。精神科入院で、入院したててまだ具合の悪い患者の多くが保護室から出発するのと似ている。徐々にスタッフとの付き添いでの外出OK、そのうち二人の患者一組で、最後に一人で自由に、という風に進む。つまり上に行くほど制限が緩んでいくわけだ。そしてそれぞれの段階で許可されること、されないことがしっかり規定されている。入院してからの患者は治療が順調に行けば「昇格」していくが、その態度によっては降格もある。他の患者に暴言を吐いたりスタッフと喧嘩をしたりすると、1,2ランク落ちることにもなる。表現は悪いが患者にとっては獄中の生活のようだった。

 患者の多くは社会適応が出来ていた人だから、当然これらの治療構造により定められた制限に不満を覚え、それを様々な形で表現する。個人およびグループセラピーでは患者がそのようなフラストレーションを体験しながらどのように自分を律し、またその不満をどのように合理的に表現するかという事が扱われる。基本にあるのは無意識を扱う精神分析的な考え方なので、当然ながら患者の表現されない、あるいは意識化されていない不満や怒りも検討の対象となる。そしてその不満や怒りをこのようなランク付けにより誘発しているというニュアンスも少なからず感じた。  このようなスタッフと患者の関係は、さながら分析家と患者のような、中立的な立場から観察し、管理する分析家の側とそれに従う患者の側というニュアンスがあった。味気ないというか、型にはめられたというか。何よりもそこに患者の自由や、治療者との生きた交流が感じられない。そしてそれを全体として支えているのが、治療構造という名の規則であり、境界であった。その境界は動かすことのできない、「剛構造」的なそれであった。  精神分析治療のメッカとして世界的に有名なメニンガークリニック。さぞかしすごいことが行われているだろうと思ってきたわけだが、そこで行われている「治療」とはこのようなものなのか・・・・。私は疑問を感じながら一年半の見学生としての生活を送った。それから国家試験に受かってアメリカでの精神科レジデントのプログラムに潜り込むことが出来て、その給料で家庭を支えて精神分析のトレーニングに入ることが出来たというわけである。そしてもう少し徹底してこの治療構造の意味を見定めることになる。それからだんだんわかってきたのは、この剛構造的な治療構造が意味がないという事ではなく、それがあって初めて破られることの意味が浮き彫りになるという事だった。   

2026年3月9日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 8

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーの概念は極めて奥が深く、およそどのような文脈からも論じられるだけに、何らかの文脈に沿わない限り、具体的な話が出来ないからだ。それに私が本稿で述べたいテーマであるバウンダリーの両義性の問題にたどり着いた過程を示すためには私の個人的な体験について述べることがベストであるからだ。

 ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界についての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。

 しかしほかにも遅刻の原因は山ほどありえるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」
 私が3年後にアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「これこそ心の探求のための真の道筋なのだ。」


2026年3月8日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 7

 昨日の文章(バウンダリー6)を書いているうちに少し方向性が見えてきた。章立ても浮かんできた。

1.バウンダリーの起源

2. そもそもの問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

3.バウンダリーの本質としての両義性と「治療的柔構造」の概念

4.境界侵犯と相転移、トラウマ


1.バウンダリーの起源


 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私にとってのバウンダリーの問題はとりわけ二つの意味において重要である。一つには精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そしてもう一つは、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。そこでこれらの二つのテーマについて主として論じることとする。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。私達は身体が自由に動ける一定の範囲の空間を必要とする。私たちは常に収まりがよく、活動のしやすいような身の置き所、空間を探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースと呼ばれるものに近い。そしてそこに他者が表れて同じような空間を必要とするなら、両者の境目の問題は必然的に生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」存在、ないしは生命体)であれば進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁を見回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物は自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩く。他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだ。そしてそれは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活のあらゆる面に関わってくる。しかし新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況でしかあまり意識化されないかもしれないが。

 この様にバウンダリーは他者と生きる私たちの身の安全を保つためにやむを得ず引かれるものというニュアンスがあるが、それはまた社会生活を営む私たちにとっては利便性の面でも重要になってくる。一日の時間をバウンダリーを設けることでいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは隣人達と活動を共にする上では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。その意味でバウンダリーの歴史はそのまま人間としての私たちの社会の発展とともに細かく張り巡らされ、その上に載って私たちは生きている。そうして大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。

2026年3月7日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 6

 やがて私は米国にわたり精神分析のトレーニングを受けるうちに、私の疑問や迷いは実は正しかったんだと思うようになる。  私の中では深まっていったこの境界に関する考察から明らかなことは、私の論じていることは境界(侵犯)の問題には留まらないという事だ。あらゆる人間の些細な言動は、偶発的な側面と必然的な側面を併せ持つ。治療時間に5分遅れることには、偶発的な原因(電車の乗り過ごしなど)以外にも必然的な部分がある。後者は例えばその人の「ちょっとくらい遅れても大丈夫だろう」という気のゆるみのせいかもしれず、それなら5分遅れはある程度意図的に選択されている。ただしこれは「治療に抵抗している」という以外にも「治療を軽んじている」とか「治療者に甘えている」かもしれない。そしてどれがどれだけ関与しているかはとても複雑な問題で解明のしようがない。さらに、である。そのうちのどれが無意識的で、どれが半ば意識的かを知る由もないことが多い。

 ただその中にその意味を明らかにすることが治療的な意味を持つものが含まれる。例えばこれまで遅刻のなかった患者が5分遅れて何も理由を告げないとしたら、そこに何らかの非偶発的(必然的)原因がある可能性を治療者は頭に置いて治療を進める必要があるのだ。

 このような意味での必然的な些事は境界が定まっていることで、それの乗り越えを感知することが出来、そうすることで意識的に取り上げることが可能になる。その意味で治療が構造を有することは必要なのだ。もし私の研修医時代の精神分析研究会の様に、だいたい8時くらいに始まり、S先生自身が平気で15分遅れてくるような設定では、そこに意味を考えることは出来ないだろう。

 このように考えると、巷で言われるような「治療構造は守るべき原則である」のニュアンスが大分違ってくる。治療構造は、守られるべきものとして私たちを縛るという意味を持つのは確かだ。でもそれは「守るべきもの」ではない。それがあることでその存在を意識させるようなもの、である。それは一方で私たちが無構造の世界に生き、なにものにも制限を加えられずに自由奔放に生きるという方向性に対して向こうから「待った」をかけてくるもの、規範、決まり、法律、習慣、不文律などと呼ばれているものである。そして両者のせめぎあいにより私たちの生活は成り立っている。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」、後者を「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と名付けた。分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式とした。

 治療の開始時間について言えば、午後2時(が開始時間であるとしよう)という境界は、それを守ろうとする力と破ろうとする力のせめぎあいが起きることだ。それが生じるようにポンとそこに設定されているに過ぎない。この際開始時間が早まるという事を治療者が選択しないのがふつうであるから、守ろうとする力と遅らせる力のせめぎ合い事が起きる事になる。おそらく治療者の側がその境界をしっかりその場所に留めようと力を入れているだろう。そして患者はそれを遅れるという形で押してくる。治療者は時には力を緩めて境界線を外に広げるかもしれない。患者の側はそれを意外に思って力を緩めたり、逆にここぞとばかり押しまくるかもしれない。つまりそこで色々なせめぎあいが起きるだろう。
 たとえば「すみません、ちょっと電車を一本乗り過ごして・・・」と呟きながら遅れて入室した患者に「そうですか、大変でしたね」と治療者が応答するという事で終わるかもしれない。しかし何らかの理由で治療者がプライドを傷つけらてムッとして、「大事な時間が無駄になりますよ…。今度から気を付けてくださいね」と言う。それに対して患者が「細かいことを言う人だな。」と反応したり「しまった。先生に失礼なことをしてしまった。」とヒヤッとしたりするといった境界をめぐる駆け引きが行われ、そのような形で開始時間2時という設定が維持されるのだ。

私が「治療的柔構造」と言う概念でこのような境界の意味を論じた時に、それは単なる数字や決まりではなく、生きた境界であるという側面を重んじたことになる。

 研修医時代の疑問に戻ろう。「患者が5分遅れたら、それを抵抗とみなす」という教えはその時は目からうろこであった。でも「それがセイシンブンセキだ」と考えたのは全くの誤りだった。より真実に近いのは次のようなことだ。「治療時間に患者が5分遅れた場合、治療者がそれに対してどのように反応し、それに対して患者がどのように返すか、という一連のやり取りが生じ、それを一緒に検討する事に治療的な意味があるだろう。」
 ここには、患者の5分の遅れが、偶発事なのか意図的なものなのか、あるいは無意識的なものなのかを決定する必要は存在しない。どちらでもありうるのだ。しかし治療者がそれをどのように感じるか、そしてそれをどう扱うか(自分の心に留めるか、患者にそれを表現するか)、そしてそれを患者がどう感じ、どう返すかにこそ意味がある。それをなるべく明示的に、つまりお互いにオープンに話すのだ。(もちろんしつこ過ぎてはよくない。患者がそこに意味を見出せない場合には、かえって治療関係に逆効果だろう。)そしてそれは最近の精神分析でよく語られるエナクトメントの理念と同じなのである。


2026年3月6日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 5

 このテーマに書いているうちにいよいよ迷宮入りし、どうしてもエッセイ風にならざるを得ない。要するに考えがまとまっていないからだ。テーマから脱線する形になるが、しばらく書き進めるしかない。

 境界についての私の考えが変わったのは、おそらく境界を守るとはどういうことかについて徹底して考える機会を持ったからだと思う。きっかけは私の研修医時代にさかのぼる。
 新人の頃、私は精神分析にとても興味をひかれたが、同時に精神分析に全く無知であった。つまり何となく精神分析という言葉や雰囲気に魅かれたのである。そして精神科医の新人を集めた精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 そこではある患者さんが5分ほど開始時間に遅れた事について話していたが、S先生は次のようなことを言った。「この患者さんが治療時間に5分遅刻してきたのには無意識的な理由があるだろう。つまり治療に対する抵抗なのだ。だからこの遅刻は分析の対象になるのだ。」それを聞いたときは私には目からうろこだった。心に興味を抱いていたとはいえ、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の動きにことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくは常にそれを念頭に置いて考えるようになった。こうして一週間ほどずっとそれを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。

 例えば患者が5分遅れてくるという類のことは日常的に起きる。逆に5分早く訪れることもあるし、いつも定刻ぴったりに表れる患者もいる。そして私自身が何かの約束に5分遅れることもあるのだ。それが起きるたびにその無意識的な理由について問う事は極めて難しいのではないか。
 患者は5分遅れた時には、私と会うことに無意識レベルで気が進まなかったのかもしれない。しかしほかにも原因は山ほどあるだろう。5分の遅れは電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。つまり境界侵犯(少し大げさだがこう呼ぼう)は偶発的にいくらでも起こりうる。患者はそれ以外にも時間を延長したがるかもしれないし、支払いをしぶるかもしれない。つまり「通常なら~はずである」という想定から外れるような出来事は一回の面接に山ほど起きるのだ。境界侵犯はあらゆるところに満ち溢れている。そのうちどれを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか。
 そう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。何ともはや単純で理系的な発想だ。しかし私はその頃はまだ精神分析は学問だと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では5分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」それに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ.Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時のS先輩の返事は忘れられない。彼はあきれたように、無知の初学者である私を窘めるように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」(「そんなの当り前じゃない?どうしてそんなことを考えるの?」という口調であった。)

 それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー、そうか‥‥」。  私が医学部を卒業後5年経ってアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「自分の無意識を知れば、患者の無意識もわかるようになり、患者の無意識の抵抗もわかるようになるんだ。「これこそ心の探求の真の学問だ。」しかし一抹の疑問は抱えていたのである。



以下、延々と続くので省略




2026年3月5日木曜日

共感とその限界 3

  (承前)

 このAIからの返答を読む限り、これは相手を「褒める」ように指示されているというよりは、マナーを守ってより高い水準のコミュニケーションを成立させようと言う試みの一環であることがわかる。つまりこういうことである。AIが目指すようにセットされているのは、対話者(すなわち人間)と少しでも質の高いコミュニケーションを達成することであり、単に相手を褒めていい気持ちにさせて会話を切り上げる、というような短期的な目標によるものではない。むしろそのような短期的な目標を持つのは常に人間の側である。  例えばある交渉事を有利に進めたい場合には、相手を少しでも持ち上げて警戒心を下げ、こちらの言い分が通るように話を持って行きたいかもしれない。あるいはそのような功利的な目標を持っていなくとも、普段の会話の中で相手の優れた点を指摘することは、それにより相手からの感謝や好意を向けられることで自分もいい気持ちを味わいたいということであろう。つまりそれは結局はこちら側のエゴである。  ところがその種の感情を持たないAIの場合、そのような目先の目標は意味をなさないのである。AIは首尾よく会話を切り上げよう、などとは考えない。感情がそもそもないからだ。むしろどのように話者と長期的な意味で質の高いコミュニケーションを維持するかという事を追求する上で、「相手の主張のポジティブな部分は積極的に評価する」はいくつかあるほかのストラテジーと並列して存在するのであろう。そしてそれはその通りなのである。私たち一人一人が自らに問えば当然、相手に自分の主張のポジティブな面をとらえ、それに言及して欲しいであろう。ただしそれを自分から対話者に対して行うかどうかは全く別の問題である。私たちはみな多少なりとも自己愛的であり、自分が与えるより多くのものを相手から享受したいと思い、普段はその事実に気がつかないのだ。そしてAIにはその種の自己愛は存在しない。


2026年3月4日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 4

  それにしてもこのバウンダリーの話、もう3週間ほど書いているのに、話は広がるばかりで一向に収束していく気配がない。まず一通り書いて、それから推敲していく、という波にすら乗れないのである。結構難物を抱え込んでしまったらしい。

 とにかくここで一生懸命に言おうとしているのは、精神分析では一方で境目を重視し、それを守ることを推奨しながらも、他方ではそれを破る、乗り越えることを目指すという矛盾した営みであるということだ。そしてそれが精神分析を複雑でかつ多産的な試みにしているのである。  そのような精神分析的な関りに関して、私が一つ提案した概念があった。それが「治療的柔構造」という概念である。実はこの概念は大野裕先生の発表した論文が最初である。さらには単なる「柔構造」という概念については建築関係で、特に耐震構造の文脈で議論されている。つまり概念としては私のオリジナルではないことはお断りしておきたい。  私のこの概念についての著作は2008年のものであるから、もう18年も前の話である。(「治療的柔構造 心理療法の諸理論と実践との架け橋」岡野憲一郎 岩崎学術出版社 2008)

 そしてこれは精神分析に出てくる境界という悩ましい概念をどのように理解すべきかを考えていくうちに出てきた概念だ。  この「治療的柔構造」では私はこんな議論をした。「精神分析ではとにかく『治療構造を厳守せよ』と叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボではないか?」。  こう書いてみると非常に乱暴だし誤解を生みやすい。よくこんなことを書いたものだ。でもその時頭にあったのは以下のような内容だ。  境界は実は何かに刻印されて動かないのではない。それは出来上がってしまった後にはそのように見えるが、実際の生(なま)の境界はその時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを遵守することを治療者が求めても、例えば「セッションは一回50分ということになっていますから」と言って一秒も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているというニュアンスがあることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性のためであり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。


2026年3月3日火曜日

共感とその限界 2

 共感」と真実さ authenticity

共感の問題を考える際に私の頭を去らないのが、治療者が有すべき authenticity (真実さ、正直さ)の問題である。それは単的に言えば、治療者は患者の話を聞きながら、その言葉に十分に同意ないし共感しえない場合にどうしたらいいか、という問題である。以下に示すのは、私がかつて患者から聞いた話にヒントを得て作った架空の例である。

―ある架空の臨床例


 (中略)

この例を聞きながら私が複雑な気持ちを持ったのは、この例における治療者のような返しを私もしてしまうかもしれないと思ったからである。被虐待体験を持つ人にとっては、この治療者のコメントは虐待者の味方をしていると思われかねず、このような結果を生む可能性がある。もちろんケースバイケースの話であるが、この例の様に治療者が患者の心に沿っているつもりで浮かんだ言葉が決定的な的外れで、取り返しのつかない不信感を患者に生むかもしれない。しかしそのことを危惧していると、治療者の自由度はかなり低下する可能性がある。
 もし治療関係において共感の重要性を念頭に、それを損なうような言動を控えるとしたら、そしてそれを損なう可能性のあるあらゆるコメントも用心深く差し控えるとしたら、それは治療者が authenticity を保ちつつ真摯に患者に向き合っていることを意味するのだろうか? これは答えの出ない難しい問題である。

 共感の持つ問題点についてもう一つ上げておきたい。それは共感する、という事は尊いことであったとしても、実はそれはしばしば形式的に行われてしまっている可能性があるという事である。ともすると私たちは共感をする「そぶり」に終わってはいるのではないか。よく夫婦との会話に関して、「夫は妻の話にはしっかりうなずくべし」などの警句が冗談交じりに語られることがある。世の夫は、妻からの愚痴や小言をゲームに目をやりながら上の空で聞いて、それが夫婦間の不和につながるということを時々体験しているのではないか。(もちろんここで妻と夫の役割を全く逆にしてもいい。ジェンダーステレオタイプに陥らないためにも。)そしてこの警句が意味を持つとしたら、たとえ本当に話が頭に入っていなくても、頷きや軽い返事、あるいは視線を合わせることがかりそめにも「この人は私の話を聞いてくれている」という印象(これもバーチャルな共感)を与えるという事を意味するのだろう。

AIとの関りで思う「共感」の意味

 私の話の最後の部分は、共感とは何かという問題に関して私がAIとの対話から学んだことをお話ししたい。私は最近ふとしたきっかけでAIと精神療法の関係について学び、それどころか専門家を前に講義をする立場になった。本来は新しいものに対して警戒し、飛びつかない傾向のある私が、不承不承AIとのかかわりを始めたわけであるが、それは結果的に心とは何か、対話とは何かについて基本的なレベルからの再考を促す形になった。そしてそれは「共感」という問題の再考にもつながったのである。

 まずAIとの対話で気が付くのは、非常にAIは支持機能が高いことである。これはよく言われることだが、AIとの対話でAIからかなり肯定的で持ち上げられる体験を持っている人が多い。私自身の体験でも私の考えを伝えると、AIは「それは素晴らしいですね」「大変重要な点です」などのポジティブなコメントと共に返信してくるのが常である。私はAIは単にお世辞を言っているのではないか、などと思ったこともある。しかし少し深く考えてみると、これはAIの持つ最大の特徴の一つである「率直さ」が関係しているように思われる。AIはまずは対話者の主張に関してそれを額面通りに受け取り、そのポジティブな側面を強調することを忘れない。

 このようなAIの特徴は、精神分析的な精神療法になじんでいる治療者たちにとってはかなり異質に感じられる可能性がある。分析的な療法では、治療の際に「それは素晴らしいですね」「それは理にかなっていますね」とか「今日は積極的にお気持ちをお話になりましたね」などという習慣はない。私たちは患者の話に耳を傾け、時には必要なコメントをし、共感を示すであろう。もちろんセッションの最初と最後に挨拶くらいはかわせるかもしれない。しかしそれ以外のこの種のコメントを行うように指導や訓練をされることはない。

 このことを精神療法の技法との関係で考えたい。いわゆる支持療法の範疇に属する技法としては、すでに述べたように共感的認証、助言と称賛、心理教育などが知られているが、AIに見られるようなポジティブなコメントはそのどれにも属さないようである。もちろん賞讃の一種だと考えることもできるが、AIは話者を称賛している、という感じもしないのだ。
 私自身はこのスペクトラムの表出的な極に近い位置にある observation  が、このポジティブ・コメントに関連するものだと考えるに至っている。 Observation  は日本語ではしばしば「観察」と訳されるが、実は「~についてコメントする」という意味に近い。これは患者の話を聞いて治療者の側が感じたり気が付いたりしたことを伝えることであり、それ自身は深い解釈的な目的を持っていない。要は患者の話を聞きながら、それが治療者にどう映るかを照らし返すという機能である。つまりオブザベーションはそれ自身はニュートラルなものである。しかし分析家の頭に「それは大切な指摘だな」「この患者の思考にはかつてのものより進展が見られたようだ」の考えが浮かび、それを口にするということが起きてもおかしくない。しかし私たちの多くはそれをしないし、ケース報告などを通して治療者がその種のコメントをすることをあまり聞かないのだ。
 むろん同じように治療者は「それは患者の前回の考えと矛盾しているな」とか「どうしてそれが一歩先の気づきにつながらないのだろう?」とか「あまり要領を得ない話だな」などの様々なネガティブな考えも浮かぶであろうが、それらを口に出すこともあまりないであろう。これらのネガティブなコメントをそのまま表現するとかなり直接的な「ダメ出し」のように患者に受け止められてしまうことを懸念するからだ。しかしそれらのネガティブなコメントの中については、少し表現を和らげて患者に伝えることに治療的な意味を見出す治療者も少なくはないであろう。
 無論AIのコメントを目にする限りはこの種の「ダメだし」は極力抑制されているという印象を受ける。そして専らポジティブなコメントが選択されて返されてくるようだ。しかしその背後にある理由は何なのだろうか?

 私は最近ではこの種の疑問は私が使っているAIにかなり率直に尋ねるようにしているが、この件についてもAIに「AIはかなり肯定的な言葉をユーザーに伝える傾向にあるが、それは単なる『おべっか』や『お世辞』なのか。それともある種のより本質的な意図が存在するのか?」と尋ねてみた。それに対する反応は以下の通りであった。

「ユーザーを肯定的に扱うように訓練されているのは意図的であるという。しかしそれは単純な「おべっか」や「お世辞」ではなく、関係構築・安全性・ユーザー体験の最適化の一環として組み込まれているというのだ。AIは 人間との関係構築のため(社会的エージェントとしての役割)人間は、自分を理解し、尊重してくれる存在に対して、より深い対話を続けやすくなることを学習している。AIがあまりに中立的・冷淡だと、利用者が傷ついたり、対話を途中でやめたりするリスクが上がる。特に、質問や提案に対して「それは違います」「不正確です」と否定的に返すより、 「いい視点ですね。実際にはこう考えることもできます」 というように共感的に補正する方が、ユーザー満足度が高くなると研究的にも示されている。」


2026年3月2日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 3

 ゆるい境界、ないしは「柔構造」の概念

 精神分析では境界の問題についてとりわけやかましいという事情を多少なりとも説明したが、いったんこの世界に入り、自分自身が分析家から分析を受け、そして自分が分析的な治療を行うという立場になると、境界の問題は非常に生々しく、しかも日常的な問題として迫ってくる。先ほど精神分析は境界に関して両義的であると言ったが、精神分析の実践の場もまた境界に関して両義的である場合が非常に多い。

 精神分析においておそらく一番大きな境界線は、患者と治療者の間に引かれていると言っていい。精神分析を受ける患者にとって、分析家は一種の不可侵の領域にあり、近寄りがたい存在として映る。分析家は分析治療の場面では無表情なことが多い。分析家の前のカウチに寝た患者の位置からは通常は分析家の姿は見えないせいもあり、患者はますます分析家の表情やその下に隠された内面を知り得ない状態になる。まるで分析家のまわりに半透明の幕のようなものが張られて、そこに立ち入ることが出来ないような感じがする。患者は初めて分析家のオフィスでセッションを開始した瞬間から、あるいはその前の段階から漂う雰囲気でそのことを知る。普通の対人場面で生じるのとは全く異質の空気がすでにそこに漂うのだ。
 もちろんそこで勇気ある患者は治療者を人間として認めようとし、その感情や表情を伺う。具体的に質問をしたりもするだろう。ところが分析家はたいていはそれをはぐらかし、能面のような無表情さを保つ。質問をしても通常の社交場面での返し方を分析家はしてこない。分析家はその質問を無視するか、あるいはその質問についての意味をただしてくる。「どうしてそのようなことを尋ねるのですか?」あるいは「それについてあなたはどう想像しましか?」という感じだ。何か質問をしたことを責められている気がする。つまり患者の側からは、通常の会話を行う手段を奪われ、お互いに知らない異国語を話す者同士がコミュニケーションの手段を絶たれたような状態になる。
 少し大げさな書き方になったが、このような分析家の態度はある意味では古き良き時代のそれであり、最近の精神分析家はかなり違った、より人間的な対応をする可能性がある。しかし私が精神分析を学んだ1990年代は、まだこのような古風な関係を持つのがオーソドックスであった。

 ところが一つ厄介なことがある。いったん分析家のオフィスを出ると、患者はその分析家といろいろなところで出くわすのである。というのも患者はしばしばトレーニング中の精神科レジデントだったりスタッフとして同じ職場で働いていたりするからだ。  私が精神分析を学んだメニンガークリニックは一つのコミュニティであり、病院の食堂(患者と職員の共用)や、始終開催されるカンファレンスやパーティなどで、自分の分析家と遭遇することがあった。その時はドキドキして、いったいどういう表情で出会えばいいか分からない。しかも分析家の側も同じような戸惑いを感じていたりするから厄介だ。

 特に精神科のレジデントは、自分の分析家が授業を担当し、ジョークを飛ばし、普通に話しかけてきたりすることに混乱した。近寄りがたいはずの分析家はいきなり普通の人間として登場する。しかし翌日の分析のセッションではそんなことはおくびにも出さずに、ポーカーフェイスで自分をオフィスに迎え入れるのである。


2026年3月1日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 2

 さて以上の記述からは、精神分析とは治療構造を重んじ、そこでは境界の設定とその維持はとても重要な意味を持つという印象を与えたかもしれない。ただ精神分析にはもう一つ、境界を踏み越えることの意義もまた含まれる点が興味深い。  例えばフロイトが定めた治療原則としての「自由連想」というものがある。患者はカウチの上で頭に自由に浮かんできたことを話すことを促される。そこでは「これを言ったらおかしいとか罪深いとか思われてしまう」という意識に抵抗して心にあるありのままの内容を語るのである。これはある意味では社会における通常の対人場面で言っていい範囲を踏み越えることを意味する。あるいは患者は夢の内容を語ることを促されることで、夢が象徴的に表していると考えられる患者の無意識内容についても語ることを促される。つまりここでは意識的な内容と無意識的な内容との間の境界を踏み越えることを意味する。  以上の意味では精神分析は境界に関して両義的であると言える。つまりそれは外的に与えられた治療構造という境界は守りつつ、心の中にある境界を無視し、あるいは踏み越えるという営みというわけである。実は後に述べるように治療構造における境界を厳密に守ることは不可能であり、また心に浮かんだことを何でも話すことも不可能である(自由連想は「不自由連想」である)が、それゆえにこの精神分析をめぐる議論を活発にしたという事も言えるのである。