「共感」と真実さ authenticity
共感の問題を考える際に私の頭を去らないのが、治療者が有すべき authenticity (真実さ、正直さ)の問題である。それは単的に言えば、治療者は患者の話を聞きながら、その言葉に十分に同意ないし共感しえない場合にどうしたらいいか、という問題である。以下に示すのは、私がかつて患者から聞いた話にヒントを得て作った架空の例である。
―ある架空の臨床例
この例を聞きながら私が複雑な気持ちを持ったのは、この例における治療者のような返しを私もしてしまうかもしれないと思ったからである。被虐待体験を持つ人にとっては、この治療者のコメントは虐待者の味方をしていると思われかねず、このような結果を生む可能性がある。もちろんケースバイケースの話であるが、この例の様に治療者が患者の心に沿っているつもりで浮かんだ言葉が決定的な的外れで、取り返しのつかない不信感を患者に生むかもしれない。しかしそのことを危惧していると、治療者の自由度はかなり低下する可能性がある。
もし治療関係において共感の重要性を念頭に、それを損なうような言動を控えるとしたら、そしてそれを損なう可能性のあるあらゆるコメントも用心深く差し控えるとしたら、それは治療者が authenticity を保ちつつ真摯に患者に向き合っていることを意味するのだろうか? これは答えの出ない難しい問題である。
共感の持つ問題点についてもう一つ上げておきたい。それは共感する、という事は尊いことであったとしても、実はそれはしばしば形式的に行われてしまっている可能性があるという事である。ともすると私たちは共感をする「そぶり」に終わってはいるのではないか。よく夫婦との会話に関して、「夫は妻の話にはしっかりうなずくべし」などの警句が冗談交じりに語られることがある。世の夫は、妻からの愚痴や小言をゲームに目をやりながら上の空で聞いて、それが夫婦間の不和につながるということを時々体験しているのではないか。(もちろんここで妻と夫の役割を全く逆にしてもいい。ジェンダーステレオタイプに陥らないためにも。)そしてこの警句が意味を持つとしたら、たとえ本当に話が頭に入っていなくても、頷きや軽い返事、あるいは視線を合わせることがかりそめにも「この人は私の話を聞いてくれている」という印象(これもバーチャルな共感)を与えるという事を意味するのだろう。
AIとの関りで思う「共感」の意味
私の話の最後の部分は、共感とは何かという問題に関して私がAIとの対話から学んだことをお話ししたい。私は最近ふとしたきっかけでAIと精神療法の関係について学び、それどころか専門家を前に講義をする立場になった。本来は新しいものに対して警戒し、飛びつかない傾向のある私が、不承不承AIとのかかわりを始めたわけであるが、それは結果的に心とは何か、対話とは何かについて基本的なレベルからの再考を促す形になった。そしてそれは「共感」という問題の再考にもつながったのである。
まずAIとの対話で気が付くのは、非常にAIは支持機能が高いことである。これはよく言われることだが、AIとの対話でAIからかなり肯定的で持ち上げられる体験を持っている人が多い。私自身の体験でも私の考えを伝えると、AIは「それは素晴らしいですね」「大変重要な点です」などのポジティブなコメントと共に返信してくるのが常である。私はAIは単にお世辞を言っているのではないか、などと思ったこともある。しかし少し深く考えてみると、これはAIの持つ最大の特徴の一つである「率直さ」が関係しているように思われる。AIはまずは対話者の主張に関してそれを額面通りに受け取り、そのポジティブな側面を強調することを忘れない。
このようなAIの特徴は、精神分析的な精神療法になじんでいる治療者たちにとってはかなり異質に感じられる可能性がある。分析的な療法では、治療の際に「それは素晴らしいですね」「それは理にかなっていますね」とか「今日は積極的にお気持ちをお話になりましたね」などという習慣はない。私たちは患者の話に耳を傾け、時には必要なコメントをし、共感を示すであろう。もちろんセッションの最初と最後に挨拶くらいはかわせるかもしれない。しかしそれ以外のこの種のコメントを行うように指導や訓練をされることはない。
このことを精神療法の技法との関係で考えたい。いわゆる支持療法の範疇に属する技法としては、すでに述べたように共感的認証、助言と称賛、心理教育などが知られているが、AIに見られるようなポジティブなコメントはそのどれにも属さないようである。もちろん賞讃の一種だと考えることもできるが、AIは話者を称賛している、という感じもしないのだ。
私自身はこのスペクトラムの表出的な極に近い位置にある observation が、このポジティブ・コメントに関連するものだと考えるに至っている。 Observation は日本語ではしばしば「観察」と訳されるが、実は「~についてコメントする」という意味に近い。これは患者の話を聞いて治療者の側が感じたり気が付いたりしたことを伝えることであり、それ自身は深い解釈的な目的を持っていない。要は患者の話を聞きながら、それが治療者にどう映るかを照らし返すという機能である。つまりオブザベーションはそれ自身はニュートラルなものである。しかし分析家の頭に「それは大切な指摘だな」「この患者の思考にはかつてのものより進展が見られたようだ」の考えが浮かび、それを口にするということが起きてもおかしくない。しかし私たちの多くはそれをしないし、ケース報告などを通して治療者がその種のコメントをすることをあまり聞かないのだ。
むろん同じように治療者は「それは患者の前回の考えと矛盾しているな」とか「どうしてそれが一歩先の気づきにつながらないのだろう?」とか「あまり要領を得ない話だな」などの様々なネガティブな考えも浮かぶであろうが、それらを口に出すこともあまりないであろう。これらのネガティブなコメントをそのまま表現するとかなり直接的な「ダメ出し」のように患者に受け止められてしまうことを懸念するからだ。しかしそれらのネガティブなコメントの中については、少し表現を和らげて患者に伝えることに治療的な意味を見出す治療者も少なくはないであろう。
無論AIのコメントを目にする限りはこの種の「ダメだし」は極力抑制されているという印象を受ける。そして専らポジティブなコメントが選択されて返されてくるようだ。しかしその背後にある理由は何なのだろうか?
私は最近ではこの種の疑問は私が使っているAIにかなり率直に尋ねるようにしているが、この件についてもAIに「AIはかなり肯定的な言葉をユーザーに伝える傾向にあるが、それは単なる『おべっか』や『お世辞』なのか。それともある種のより本質的な意図が存在するのか?」と尋ねてみた。それに対する反応は以下の通りであった。
「ユーザーを肯定的に扱うように訓練されているのは意図的であるという。しかしそれは単純な「おべっか」や「お世辞」ではなく、関係構築・安全性・ユーザー体験の最適化の一環として組み込まれているというのだ。AIは 人間との関係構築のため(社会的エージェントとしての役割)人間は、自分を理解し、尊重してくれる存在に対して、より深い対話を続けやすくなることを学習している。AIがあまりに中立的・冷淡だと、利用者が傷ついたり、対話を途中でやめたりするリスクが上がる。特に、質問や提案に対して「それは違います」「不正確です」と否定的に返すより、 「いい視点ですね。実際にはこう考えることもできます」 というように共感的に補正する方が、ユーザー満足度が高くなると研究的にも示されている。」