2026年3月20日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 18

  この話の路線上に出てくるのが「遊び」である。と言っても境界線上の浮遊状態が即、遊びにつながる、という短絡的な主張をするつもりはない。しかし境界線上の綱渡りと遊びには深い関係があることは確かである。  そもそも遊んでいる時には私たちは大きな不安に駆られることはない。不安が強ければ遊んでいる余裕はないだろう。「自発性」がなく、「儀式」のみに追いまくられる状況とは、例えば捕食者に追いかけられて必死に逃げている状況、病の苦痛に耐え忍んでいる状況、あるいは上司からの命令で好きでもない仕事を締め切りに追われて一心にこなしている状況、などであろうか。  しかし一切の不安や「儀式」がない状態もまた退屈であり、結構苦痛でもあるのは確かだ。仕事に追われて忙しい毎日を過ごす人は、休暇を取ってリゾート地に赴き、ビーチで横になってのんびりしたいと願うだろう。確かにそれは思い描く分にはいいが、しかし実際に浜辺で何もせずに横になり「のんびり」する時間に、実際には何分耐えられるだろうか?何をしても許される、他方では~をしなくてはならないというものが一切ない状況もまた、遊びとは程遠い。  私は去年遊戯療法学会での発表でいわゆる「じゃれ合い」を遊びのプロトタイプとして論じたが、ジャレ合いの楽しさにはスリルが必要である。動物の子供同士のジャレ合いには、肉球に隠している爪を出したらお互いに傷つけ合いかねないという迫力が伴う。この状態の特徴は、発揮される「自発性」に一歩遅れて「儀式」が付きまとい、互いにイタチごっこになるということである。ただし本当の意味で両者が伯仲している状態とは違う。その場合はジャレ合いではなくて、ボクシングの試合のようになる。パンチを繰り出すことでカウンターを食らう確率も増す。そのギリギリのせめぎあいで進行するのがボクシングの試合だ。  それに比べて相手のパンチが大したことがないことをわかっており、その分自由にないしは気楽にパンチを繰り出すことができる状況はミット打ち(スパーリング)にたとえることが出来よう。スパーリングの場合コーチはミットを構えてボクサーのパンチを受ける。でも時々ひょいひょいとそのミットを動かし、こちらがパンチを外せば、いつそのミットをこちらの顔面に向けて来るとも限らない。もちろん程よい手加減をわきまえているコーチはそこら辺をうまく調整することが出来、一種の遊びの要素を入れることでボクサーがミット打ちを継続するモティベーションを与え続けるのであろう。