2026年2月21日土曜日

バウンダリーについて 12

  昨日の続きである。もちろんこのことは「バウンダリーの問題はそんなにうるさく言う事ではないよ」ではない。バウンダリーの逸脱は非常に頻繁に人間社会で起きている可能性があり、その一部で確実に犠牲者を生み、また一部ではそれなりに関係が進展していくという現実があるという事だ。例えば昨日の例では選手とコーチの関係が男女の関係に発展するという事がどの程度頻繁なことは分からずとも、生じるべくして生じていて、一部では悲劇が生じ、一部では「上手く行く」(????)という事だろうか。では●出監督の話は「上手くいった」(結果オーライ)の話なのか?これは非常に難しく、錯綜としたテーマなのである。ただ一つの仮説として成り立つのは次のことだ。

 バウンダリーの侵犯(ここからは境界侵犯に呼び変えよう)は極めてハイリスクな出来事である。確実にトラウマを生む素地といえる。ところが他方にそれに対する感受性があまり高くない場合には、その境界侵犯のトラウマ性を克服、凌駕する力を相手が持ち、境界侵犯により新たに始まった関係性を生き延び、場合によってはそれを利用する場合がある???

 例えば●出監督の無節操さ(と敢えて呼ばせていただこう)を●チャンが「これってアリなの?」と疑問に思いつつも受け入れてその関係をwin-win なものにして生き延びる?これも現実だという事だろうか?私はこの問題は余りにリスキーすぎてこれ以上ブログでは論じることが出来ない。という事で今日はここでおしまい。(実は明日のレクチャーの準備で忙しいのである。)


2026年2月20日金曜日

バウンダリーについて 11

バウンダリーの問題の難しさは、「バウンダリーの問題をどこまで及ぼすかについてのバウンダリーが曖昧だ」という事だろうか? 2015年2月3日に私はこのブログで次のようなことを書いた。

「ここで小出監督とキューちゃんの話を載せよう。週刊文春に「阿川佐和子のこの人に会いたい」という企画があるが、その342回目(2000年)の記事をとってある。わりと理想的な師弟関係が描かれているようである。「高橋は(タイムが)遅かったから、最初に『お前は今に世界一になるよ』と言ったら『えーっ!?』なんて意外な顔していた。ところがそれを毎日言い続けてみな。『ほんとかな』って首をかしげるようになるんですよ。そこでもっと『お前は強くなる!』っていうとね、『よし頑張ってみよう』という気持ちが芽を出してくる。その芽を摘んじゃいけないんですよ。子供だって同じだよ。」とある。
 ところがそれと一緒に保存してあるのが「噂の真相」の記事。「国民栄誉賞をもらったシドニーの英雄高橋尚子と小出義雄監督の●●関係」というもの。(2000年12月号)
 これを読んで師弟関係についていろいろ考えさせられた。これは醜聞に属する話だ。(●●は私が施した伏字である。)しかしここで浮かび上がるのは師弟関係とバウンダリー(境界)の問題、ないしはパワハラの問題である。ということで記事を再度読み始めると・・・・ウーン・・・・・・・・・・・・・。やはりこれは問題だ。というより詳しくは書けない。いろいろな人が傷つくだろう。ということで一般論に移るしかない。
 どうやらアスリートとコーチや監督の関係には、「一心同体」ということがよくあるらしい。そうじゃないとコーチが務まらないというところまであり、だからコーチは一人しかできないという常識のようなものもあるそうだ。いっそに暮らし、一緒に風呂に入り、一緒に生活をする。問題のK監督はと言えば、そのような形で選手とズブズブの関係にあり、しかも過去には明白なセクハラもあったという。」

つまりこういうことだ。分析家と患者の間のバウンダリーの問題をるるつづってきてが、現実世界ではこのようなことが非常に頻繁に、日常茶飯事で起きているのではないか。そしてもしこれが現実だとすると、バウンダリーの問題はかなり深い闇の世界に繋がっているのではないか、という事である。

2026年2月19日木曜日

バウンダリーについて 10

もう一つの具体例。とある県の●●知事。あのお騒がせの事件は私たちの記憶に新しいだろう。
ところで彼は私が某大学に勤めていた時に、そこの教授として勤務をしていて、顔見知りとなった。だから私にとっては彼に起きたことは人ごとに思えない。(ところで今Wikiで知ったことだが、彼はつい数日前に慢性硬膜下血腫で手術を受けたという。大丈夫だろうか。心配だ。)
ところで彼は数年前にスキャンダルに襲われたが、その経緯が私の記憶に残っている。11年間不倫関係にあったある女性が、彼を突然週刊誌に告発したわけだが、そのきっかけは確か●●氏の方から関係の解消を迫られたことであった。これはとても興味深いことだ。おそらく相手の女性は「私を切りにかかったのね。都合が悪いとこうやって自分の存在をなきものにするのね。やはり彼は私を利用しただけなんだ」と感じたのであろう。彼との思い出がどれだけ楽しく、また彼女も完全に合意の上で付き合っていたとしても、である。(ちなみに一次資料に当たっていないので、かなり私の推測が含まれる。あくまでもそのような事情であった可能性について書いているに過ぎない。)
このような例は実に多いことに気が付く。特に不倫関係にある場合に、別れ話をきっかけに「(家族持ちの)不倫相手から利用されていた」「自分は被害者であり、犠牲者だ」という気持ちが高まり、それが相手への怒りに変わるという例である。
 私がここで強調したいのは、相手の女性にとってはそれまでの楽しかった関係がトラウマになってしまうということは心的事実としてあるということだ。「さんざんその関係を楽しんで勝手な人だ」などとは決して思わない。たとえそれまでその相手と幸せな時間を過ごしており、一度も相手から傷つけられたという体験がなくても、過去の記憶はそっくりそのままトラウマ記憶となりうる。
 もう少し別の架空事例を挙げるならば、ある夫婦が幸せな生活を送り、夫が先に亡くなったとする。残された妻は彼と過ごした数十年のことを大切な思い出にし、自分の結婚生活は幸せだったとしみじみ感じるとしよう。ところがそこで大変なことを知る。その夫は実はその婚姻生活のかなりの部分、別の女性との不倫関係にあることがわかったのだ。するとそれまでの数十年の生活は妻にとってのトラウマとしてのしかかってくる。たとえどんなに楽しい思い出に満ちたものであってもそうなのだ。
 例えば子供が生まれて一緒に子育てをした楽しい思い出があったとする。しかしその間にも夫は不倫相手と会っていたことが分かったのだ。するとその楽しい思い出はその楽しさゆえに、「何も知らずに騙されていた」という悔しさの感情をさらに大きくするかもしれない。これほど苦しい体験はありえないのではないか。
 なんだか話がそれてきたが、ギャバード先生の”Timed-release”の話(「不発弾」といういい方もありかな)あるいはトラウマの事後性の問題が境界侵犯審判に深く関係しているという話をしていてこうなったのだ。

2026年2月18日水曜日

バウンダリーについて 9

  昨日の続きについて。ギャバ―ドさんの比喩はこのように考えてはどうか。彼は飛行機のパイロットである。もちろん彼は操縦には自信がある。しかし乗客をたくさん載せた飛行には重大な責任が生じる。その時「ビールの1,2本なんて平気平気」と一杯やってから(なぜか呼気チェックもすり抜けられて)操縦桿を握るだろうか?さすがに私でもこれはいけないと思う。そして患者との個人的な関係に入る事にも同様の問題が生じると論じるのであれば、これはまた別問題である。  しかしこれを論じているうちに、ギャバ―ドさんが言っている「タイムリリース」効果のことが重要に思えてきた。性的な関係はそれにどのような意味が後になって付与されるか分からない。その意味でそれは「のちになって効いてくる薬物のようなのだ。そしてそれは分析家の行動を(かつての)患者にとって決定的に外傷的なものにしてしまう可能性がある。そしてそのようなリスクまで冒して患者と個人的な関係を持つことは決して倫理的に許されないのだ。(ちなみにTimed-release(タイムリリース錠)は、薬やサプリメントの成分が体内で時間をかけてゆっくりと吸収されるように加工された,徐放技術の一種、という事である。)  このトラウマの事後性(こっちの表現の方がよく用いられるな)はもちろん性的な関係に留まらない。いくつかの例をあげよう。親子の関係でも、これまで一生懸命育ててくれた母親が年老いて介護が必要になり、娘にそれを請うとしよう。そして娘は自分の生活があるので、母親に施設に入ってほしいと言う。それに対して母親は言うのだ。「将来面倒を見てもらうために一生懸命あんたを育てたのに、何てこというの?」  もちろんこれをどのように聞くかは娘次第だが、彼女は衝撃を受けてもおかしくないだろう。「これまでの子育てはすべて、私を将来利用するためのものだったの?」  私は親子の間で交わされる会話は時には大変な誤解や曲解や、あるいは真実の吐露を含む可能性があると思うが、それは長年のお互いの情緒的なコミットメントがこのような一言で反転したり、被害的、加害的な意味付けが行われる可能性があるからである。そしてこれは男女の関係でもいとも簡単に生じる可能性がある。それはその関係性のどの時点でも、何処にさかのぼっても生じる可能性がある。「自分は長い間騙されていた」「自分は裏切られていた」「自分はただ弄ばれただけだった」・・・。  ギャバ―ド先生の論文に戻ると、境界侵犯を伴う治療者―患者間の個人的な関係は、はるかに時を経ても、例えば離婚等による破局の際にはもと治療者側が患者側から訴訟を受けるというケースを多く見てきているという。

2026年2月17日火曜日

バウンダリーについて 8

 ギャバードさんのある論文 (Gabbard GO. Boundaries, technique, and self-deception: a discussion of Arnold Goldberg's "Some limits of the boundary concept". Psychoanal Q. 2008 Jul;77(3):877-81; discussion 915-9.) を読んで考えさせられた。この論文で彼は、Arnold Goldberg (例のコフート派の有名な分析家であろう)の論文(Goldberg, A(2008)Some limits of the boundary concept. Psychoanalytic Quarterly. 77:861-875.)に対する批判を行っている。ゴールドバーグは「境界侵犯をしても被害者は出ないことはあるではないか」と述べる。つまり境界侵犯は必ずしも罪ではないのはそのような例があるからだという。そして上げるのは次のようなケースだ。

長年にわたる精神分析が終了した後、分析家と患者が結婚したとする。二人は合意のもとにそれを行い、それ以降幸せに暮らしたとする。これは何の問題もないではないか、とゴールドバーグは言う。
 これに対するギャバ―ドさんの反論はとても精緻なものだが、アナロジーとして彼が出しているのを読んで「?」と思った。彼はゴールドバーグの主張は、かなりの飲酒をしても事故を起こすことなく車を運転して帰宅したなら、その人に罪はないのか、というのに似ているという。

私はこのギャバ―ドさんの反論はどこか違っている気がするが、なぜだろうか?

先ず飲酒運転に関して。もし運転手がものすごくベテランで、自分が行きつけのバーでコップ2杯のビールを飲んだくらいでは全く運転技術に支障が出ないことを知っていたとしよう。(実は飲酒運転が合法であるどこかの国で、さんざん経験済みだとしよう。)そして帰宅先はなんと、直線距離50メートルくらい先だ(だったらどうして最初からバーに歩いて来なかったのか、と突っ込まれるかもしれないが。)これは問題だろうか?私だったら大して良心の呵責もなく50メートルの距離を「安全運転」して帰宅するかもしれない。いわばこれは「軽い」違法行為で、結構起きていることかもしれない。60キロ制限の道路を62キロで走行するようなものだ。

分析における境界侵犯の例として同じようなレベルのものを考えてみる。例えば分析家が分析の関係を終了させた後、患者をお茶に誘い、10分ほどよもやま話をして別れたとする。ただの一回だけだ。そしてその後はもう会わないとしよう。これは上の飲酒運転の深刻さになぞらえることが出来そうな気がする。もと治療者と患者が個人的な付き合いをしてしまった点は境界侵犯にあたるだろうが、患者の側に被害はないとみなせるし、その意味ではゴールドバーグの「被害者の出ない境界侵犯」の例と言える。(ちなみに精神分析の世界では、分析家の卵、つまり協会の候補生が卒業して分析家になった後には、自分の教育分析家と同僚の関係になり、一緒にクラスを教えたり、一緒に飛行機に乗って学会に参加したりするのが普通であり、この種の「境界侵犯」は日常茶飯事である。そしてそれが深刻な問題に発展したという話も聞かない。
 ここまでは飲酒運転のアナロジーは説得力がある気がする。しかし‥‥(続く)

2026年2月16日月曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対して、フロイトはその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げている。しかし最後にフロイトも聖人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたことが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。それでも彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったとギャバ―ド先生は書いている。  フロイトの境界侵犯については、比較的最近になって明らかになったホレイス・フリンクをめぐる問題の方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものである。1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフが競って読んでいたのを思い出す。

 これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。一世紀以上も前の話だ。フリンクは当時、自分自身の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。
 このフリンクによる分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまりフロイトは患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだ。そしてそこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。
 そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在化してしまう恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、フリンクにさらにこう言ったという。「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」そしてアンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を発症し、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。これらの経緯から見て、フロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの直筆の手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか? 彼の真価はどこら辺にあったのだろう?

2026年2月15日日曜日

バウンダリーについて 6

  引き続き精神分析の草創期について。ギャバ―ド先生は言う。「精神分析の歴史の早期には、分析家たちは患者の向ける転移の強さに驚いたが、逆転移の意味についての理解が洗練されていなかった‥‥」え?そういうこと?という事は分析理論が十分でなかったから「患者の強烈な転移ゆえに」境界侵犯が起きたという風に理解できる。しかしだったら後になって精神分析の理論がより発展して、その結果として問題がなくなったのかと言えば、そうではない。境界侵犯や治療者による患者の性的搾取の問題は起きるべくして起きているのだ。ただし一つ違うのは、ユングやフェレンツィなどの様に悪びれることなく境界侵犯を行うケースは減ったという事であろうか。現代では境界侵犯は倫理的に大変問題であると自覚し、またそのように扱われることも知っているのだ。でも秘密裏に依然としてそれは起きていると考えるべきであろう。どうもこのギャバ―ド先生の説明にも「誘った患者が悪い」的なニュアンスが透けて見えるようだ。  1118ページには大切なことが書いてある。精神分析には誘惑の要素が確かにあった。Friedman が述べているように、フロイトは精神分析が患者からの恋愛転移に力を得て進められるというような考えを持っていた(p.1119にあるように、フロイトは性愛的な魅力を治癒を真に導くものと考えた。Freud regarded erotic attraction as the true vehicle of cure….)。患者からの愛をそれに代わる代替物(それ自体があまり定義されていないが)を与える形で治療が進むとしたら、治療者が返すものの中になにがしかの「愛らしきもの」が必然的に混入することになり、これは境界侵犯にきわどく迫る事になりはしないか。こんなことを考えていたフロイトはやはり問題だろう。  精神分析では患者との個人的な関係に関しては、治療を終えてからはよろしい、とか終えてから一定期間が経ったらよろしい、などと考えた時期もあったが、ユングとシュピールラインの関係がそうであったように、そのような約束は何にも意味をなさなかったのだ。


2026年2月14日土曜日

バウンダリーについて 5

 ギャバ―ド先生の、古典となっている論文がある。

Gabbard GO. The early history of boundary violations in psychoanalysis. J Am Psychoanal Assoc. 1995;43(4):1115-36.

そこには精神分析の草創期にいかに多くの分析家たち(フロイトを除いた著名人のほぼ全員)が境界侵犯を犯していたかが描かれている。フロイトとユングやフェレンツィ、A.ジョーンズとの書簡集は精神分析の研究の歴史の中では遅くなってから公開されたが、そこには精神分析の歴史の偉大な先輩たちの様々な境界侵犯の例が描かれている。 ギャバ―ド先生はこれらの問題はもはや隠されるべきではないという自覚が生まれ、またこの問題がごく一部の人々に限られているのではなく、私たちすべてがそれに陥る可能性がある all of us are potentially vulnerable.(1116) と述べている。ちなみにこの表現は重要だ。私が「男性はしょうもない」と自重を込めて言う時はまさに同じことを考えている。もちろん「私もそのような問題を犯しかねない」と言っているのではない。「私もそのような問題を犯しかねないリスクを負っている」と言いたいのである。別の意味では私たちは当事者側なのだ。
 さらにギャバ―ド先生は言う。離婚や家族の死やほかの破局的な出来事の際には、いかに分析を受けてエキスパートと呼ばれる人でも判断を誤る可能性があるという(1117)。ただしこう書きながら私は思うのだ。ギャバ―ド先生はこれによりかなり加害者を免責しているのではないか。私の考えでは慢心や油断や自己愛によりそのような問題が起きやすいと言えないであろうか、という事である。


2026年2月13日金曜日

バウンダリーについて 4

 前回は臨界状況について述べた。それはそこで相転移が起こりかけている状況だと言った。だからこそエキサイティングで不安を誘い、事件性を秘めている。そしてその臨界状況を超えることは時には breakthrough になり、ときにはトラウマティックである。

ところで「臨界」と聞いてまず想像するのは、例の原発ではないか。ちょっとググってみると、最近ではAIの模範的な回答が出てくる。

「臨界(Criticality)とは、原子力発電において、核分裂の連鎖反応が一定の割合で自発的に持続している状態のことです。この状態を原子炉内で制御棒などを用いて安全にコントロールし、エネルギーを取り出すのが原子力発電の仕組みです。一方、制御不能な状態で臨界に達すると、大量の放射線や熱が発生する「臨界事故」となります。」

私は少し前までは、臨界事故=核爆発だと勘違いしていた。さすがに臨界事故ではそこまで行かないが、メルトダウンがその結果であり、チェルノブイリ事故や福島の原発事故のようになる。(しかし臨界を超えた最大の事故といえば、メルトダウンどころではない、まさに核爆発であり、それを実は人為的に引き起こすのが核兵器という事になるだろう)。

というところでここからは(多少強引だが)boundary violation 境界侵犯の話になる。これがわれらがG.ギャバ―ドさんが若い時から扱っていたテーマの一つである。  


2026年2月12日木曜日

明日の授業の準備

 明日のとある授業のために、ルイス・アロンの「心の出会い」を久しぶりに読んでいる。アロンの本の特徴を一言でいえば次のようになるだろうか?


本書の一番のテーマは、「治療者の主観性」を現代的な精神分析ではどのように扱うのか、という事に尽きる。古典的な考えによれば、患者は自由連想で即興で、衝動的にものを言い(つまり「一次過程」をそのまま表現し)
、治療者は客観的でバイアスのない中立的な観点からその自由連想にコメントや解釈を加えるという図式が成立している。つまりこちらは完全に二次過程である。いわば分析家は患者の心を見通すことが出来ると考えていたわけである。それも患者の意識だけでなく無意識過程も。ところが患者だけでなく治療者も、衝動的で主観的であることがわかってきた。両者は変わらぬ、生身の人間だからだ。それを分析家たちはしぶしぶ認めるようになった。考えても見よう。裁判だってあれほどの冤罪がある。分析家だって同じだ。だから謝った人間観により打ち立てられた精神分析理論を脱構築しなくてはならない事になる。

それにしてもよく書かれた本である。


2026年2月11日水曜日

開業精神療法におけるAIの意義について

  ある学会の抄録を書いている。

 開業精神療法を行う私たちにとって、AIがどのような意義を持つのかという問題は、この二、三年になって急速に大きなテーマとなりつつある。これは精神療法のオンライン化の可能性と共に私たちの臨床に直結する問題となりうる。私はこの問題について、以下の三つのテーマに沿って論じたい。それらは、1. AIは心を交わすに値する存在なのであろうか? 2. AIは治療者としてどのような役割を演じる可能性があるのか? 3. AIから治療者は何を学べるか?である。

1. AIは心を交わすに値する存在なのか?

 ほんの数年前まで、私たちは「人工頭脳」とまともな会話を交わすことなどおよそ不可能と考えていた。ところが202211月の対話型AI (ChatGPT)の公開以来、わずか3年あまりのうちに私たちの考えは大きく変わりつつある。多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っていることを耳にする。そして私たち治療者の多くも同じような体験を持っているであろう。しかし同時に私たちが持つのは、AIを一人前の心を持つ存在として関わっている自分たちに対する違和感ではないか? そもそもAIは「心を持たない」存在のはずである。それは構造上ものごとの真の「理解」が出来ず、主観性やクオリアの体験を持つことが出来ない。そのような存在と心を通わせ、共感をし合えることなど可能なのであろうか?この問題についての私の考えは、AIは間違いなく「知性」であり、「心を持つかのごとくふるまう」何かであり、それをかりそめの心(【心】)として扱わざるをえないという現実である。


<以下略>



2026年2月10日火曜日

バウンダリーについて 3

  さてなぜ柔構造の概念が面白いかと言えば、構造が規定する境界線上で様々な駆け引きやダイナミクスが起きるからである。アーウィン・ホフマンは「儀式と自発性」の中で liminal space (境界空間)、すなわち患者がオフィスに入ってくる瞬間から、カウチに身を横たえて自由連想が始まるまでの短い時空間に様々なことが起きる様子を書いてある。(もちろんカウチから起き上がり、最後にドアを閉めて退出する間も、やはり境界空間である。)最初の一瞬は二人の社会人としての出会い(町で偶然出会った時のように)であり、普通にあいさつを交わすであろう。お互い愛想笑いを浮かべるかもしれない。そしてカウチに横になりアナリストとアナリザントの関係に入る。ところがその間の移行期に、実に様々な人間的なやり取りことが起きる可能性があるのだ。例えば治療の終了時に境界空間が始まるが、患者がそれまで話しかけていたことをいかに収めるか、いかに話し終えるまでの時間を(それでも話し続けることで)治療者に要求するのか、という人間的な駆け引きが起きるのだ。あるいは「今日は緊張してあまり話せなくてすみません」等の本音もこの空間で聞かれるかもしれない。 この問題と、「臨界状況」をめぐる議論とは繋がっている。臨界状況とは複雑系においてある種の部分的、ないしは総合的な相転移が生じかけている状況であり、そこでも様々なことが起きる。人間の脳の活動で考えれば、ある行動を起こす、ある言葉を発する、という現象自体が臨界状況から析出してくる。(これを書きながら、アマゾンで「ALT236著 佐野ゆか訳 リミナルスペース ー新しい恐怖の美学 2025年」をさっそく注文した。)

 臨界状況の面白さをどう表現したらいいのだろうか。そこでは何が起きるか分からない、いろいろなものがギリギリのバランスをとっていて、どれかが一気に結晶化するような不可知性、偶発性が関係していることは間違いない。


2026年2月9日月曜日

バウンダリーについて 2

 ところで境界についてこれまで書いてきたこととしては二つある。一つはいわゆる「治療的柔構造」の議論、もう一つは臨界状況の多産性、という事だ。結局自分が書いてきたことを頼りに書き進めるのが無難だろう。

 柔構造については、こんな議論をした。「治療構造を厳守せよ、という事が叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボだ」。こう書いてみると非常に乱暴、というか「何言ってんの?」と自分自身に突っ込みを入れたくなる。よくこんなことを書いたものだ。でもこんなことを書きたかったのだ。
 境界は実は何かに刻印されて動かないのではなく、その時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを治療者の側が「一回50分ですから」と言って一分も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているだけであることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性であり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。

 こう考えてみよう。コンビニで菓子パンを200円で売っている。客はレジのところで190円にと値引き交渉をするだろうか?客から見れば、「ちょっと高いんじゃない?」とか「値上げ前は190円だったじゃない」と言いたくても、そんなことをレジでいちいちやっていたら回らない。それこそそのたびに店長に聞きに行く、などのことをしていたらレジでお客さんの列が出来てしまう。だからコンビニで値引き交渉をするなんておかしな人だと思われてしまうと思うだろう。ところがお肉の量り売りをするときはちょっと心持多めにしてあげるなどのことは普通に行われるだろう。もともと物の売り買いは売り手と買い手が交渉して値段を決めていたのだ。せり売りやオークションなどを見れば、それが原型だと分かるだろう。定価での売り買いは、どちらか、あるいは両者の利便性のためにそれが選択されただけである。

 その意味で私は構造は「柔構造的」であると言ったが、それが原型であることを言ったまでで、構造は自由に破られてもいい、と言っているのではなく、原型としての柔構造の理念(すなわち原則的に両者の合意で境界が決まるもの)を忘れない方がいいであろうと主張したのだ。
 そして治療構造はまさにそのような性質のものである。柔構造的な部分はいくらでもあると言っていい。患者は治療費を翌月の第一月曜日に振り込むという契約だったとしよう。患者はその日に忘れて火曜日に振り込む場合は、すでに構造は壊されている。それを許容するかどうかは、結局治療者と患者の話し合い(がもし必要であれば)で決まるだろう。あるいはセッションがきっちり50分で終わるのではなく、10秒ないし20秒超過しても許容範囲としている場合には、すでにそれが柔構造であることを示している。

 私がこの柔構造について論じるのは、精神分析的な構造などで、患者がそれを少しでも破ると鬼の首を取ったようになる治療者が散見されたからである。構造を破ろうとすること=治療抵抗という見方である。これでは患者の方から構造を変えるイニシャチブを起こすことが出来なくなってしまうからだ。


2026年2月8日日曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対してその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げているが、最後にフロイトも成人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたということが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。事実彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったと言われる。しかし最近(と言っても35年も前のことになるが)になって明らかになったスキャンダルの方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものであり、1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフは競って読んでいたのを思い出す。
これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。フリンクは当時自分の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。(実は精神分析の草創期は、そしてそれ以後も、分析家が患者と関係を持ってしまうことは、ありふれた出来事であり、それをしなかったフロイトがむしろ例外的に見えてしまうという事情がある。)

この分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまり患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだが、そこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在する恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」と言い、アンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を顕在化させ、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。経緯から見てフロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか?彼の真価はどこら辺にあったのだろう?


バウンダリーについて 1

  「大人の事情」は続く。突然「バウンダリー(境界)の歴史」についての論文を書くことになった。せっかく書評5本が終わったのになあ。しかし悪くないテーマである。

 私はバウンダリーについての専門家では全くないが(というか、そういう人はいるのだろうか。「境界評論家」とか、聞いたことないなあ)、最近この件が問題になっているのはよくわかる。私たちの周りで常に起きている境界侵犯の問題である。これはトラウマの文脈でも顕著であり、重要なテーマであることは言うまでもない。ではその歴史とは何か。一言でいえば、昔はバウンダリーは今よりはるかにあいまいだったのだ。あってなきがごとし。特に我が国はそうか。何しろ日本家屋は障子と襖で仕切られ、しばしばそれは開け放たれていたのだ。プライバシーはあってなきがごとし。

 それでも昔から境界の問題が確実に存在したのは、たとえば土地の境い目だろう。人は自分のテリトリーを必要とする。いわゆる「縄張り」というわけだが、これは動物のレベルでももちろん存在する。私はネーチャー系の番組が好きだが、コブダイが自分のテリトリーである岩礁を見回り、侵入者を厳しくチェックするのを見た。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。自分の利益に関わる境界は意識されやすく、個体(個人)が成立した時からすぐに線が引かれるのだ。

 そのように考えたら境界の基本はオリジンはパーソナルスペースという事になるだろうか。新幹線で京大に通っていた頃のことを思い出す。自由席の隣の人の間のひじ掛けは、そこにどちらが肘を掛けるかをめぐって結構ナーバスになった。

 いわばパーソナルスペースとしての境界は侵害されたらすぐわかるが、それに比べて、身分、人種、関係性に関わる境界はかなりあいまいな部分を含む。それは場合によっては交差していることで複雑な問題を醸す。

 例えば精神科の職場で職場の上司が、少し遅れて精神分析のトレーニングを開始すると、職場の部下が自分のスーパーバイザーになったりする。その場合二人がそれらの役割による縛りを押し切って異性関係に入ろうとすると、かなりややこしいことが生じる。
 将棋の世界などどうなるのか?藤井六冠はどんなに年上の先輩棋士との対局でも上座に座るだろう。でも忘年会などでの席順はどうなっているのだろうか?敬語の使い方は?

 というわけでバウンダリーについての論文はこのようにまったくまとまりのない書き散らしから始まるが、私は実はこの段階が結構好きである。一人でブレインストーミングをしている感じである。


2026年2月7日土曜日

レマ「体は語る」書評 ②

 レマの書評の後半部分

 以下に本書のいくつかの章についての私なりの理解や考えを述べておきたい。

序章 身体が語るときでは、 著者レマの精神分析家としてのスタンスが語られる。そして私たちの身体の在り方が、さかのぼって両親との体験に根差している、というのがレマの主張の主要部分である。それはフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」という言葉に反映されているというわけだ。ただしレマはガレーゼやイヤコボーニの研究によるミラーニューロンの研究やメンタライゼーションの概念をも広く援用している。



<以下略>

2026年2月6日金曜日

レマ「体は語る」書評 ①

 こちらもなんとか完成にこぎつけた。実に苦労した書評である。

 美しい装丁の施された本書を手に取り、しばらくページをめくっていくうちに、私はこれは新たなるヒステリー論ではないかと思った。それにしては本書にヒステリーという言葉が一向に出てこないのはなぜだろうと思いつつ、本書を読み進めることとなった。しかし本書はかなり難解である。内容がなかなか入ってこないのは私に原因があるのではないかと思いつつ読み直すうちに、私はようやく本書の持つ意義や重みを実感できるようになった。
 私の文章は「書評」という形をとるものの、そもそも本書の内容に評価を下すような力は私にはない。それに本書の冒頭には、ドナルド・キャンベルによる秀逸な紹介文があり、本書の内容の要約を知る上ではそれで十分である。以下は本書により触発された考えをいくつか述べさせてもらうことにする。

(以下略)

2026年2月5日木曜日

「ジャネの再発見」書評 だいたい完成版

 本書「トラウマと解離の文脈 ピエール・ジャネの再発見」は、原題が Rediscovering Pierre Janet である。つまり訳書の副題に対応しているのだ。表紙カバーではこちらの部分は小さく書かれていて、一見解離とトラウマに関する専門書と見間違いやすいが、まさしくピエール・ジャネその人についての解説書である。邦訳書の題としてこちらが選ばれなかった理由は分からないが、おそらくジャネの名が日本人の読者にはまだなじみが深くないという懸念かもしれない。

 それはともかく、本書は日本の精神医学や臨床心理学において極めて大きな意味を持っている。解離やトラウマについての専門書という以外にも、特に精神分析とかかわりを持つ読者にとっても極めて重要な情報を含んでいるのだ。筆頭訳者である若山氏が序文で雄弁に述べているように、精神分析の隆盛は、現実のトラウマの存在の軽視と表裏一体の関係にあった。(8)実はフロイト自身が幼少時の性的トラウマをヒステリーの病因として特定し、「ナイル川の水源の発見」になぞらえたことがその証左である。いったいフロイトがなぜそれを途中で断念したかは謎であるものの、本書はその問題にも果敢に挑んでいる。

 本書の驚くべきところは、ジャネが現代の論客であるアラン・ショアやスティーブン・ポージス、フィリップ・ブロンバーグらの議論にまでつながって論じられていることで、いわばジャネの理論が刷新されていることだ。ジャネのいわゆる現実機能 fonction du reel とメンタライゼーションは近いといい(129)、それは結局は最近言われる解離における右脳の機能低下、ショアによれば右脳の高位と低位の統合の失敗を反映しているという。

紙面の都合で詳しい解説はできないが、私が考える本書の読みどころだけでもかいつまんで紹介しよう。

「はじめに」では1970年のエランベルジェの「無意識の発見」がジャネの理論を知らしめる上で極めて大きな意味を持っていたこと、そして本書が半世紀を記念して出版されたものであるということが述べられる。

第2章「意識から下意識へ」はジャネのトラウマと解離の理論を改めてわかり易く詳述する。私はこの章を読んでジャネの「心的緊張」という概念が少し飲み込めた気がした。

第3章「ジャネとフロイト」では、フロイトにとってジャネがいわば仮想敵であったことが述べられている。フロイトは敵を見つけることで奮起をしていたというところがあり、それをフロイト自身が明言していたというのだ。

第4章「ジャネとユング」

ユングはフロイトと精神分析を離れてからは、年上であるジャネから大きな影響を受けたという内容が書かれている。この話も興味深い。

第6章「ジャネからフェレンチ、ブロンバーグへ」は、ジャネの理論がいかに現代の関係精神分析に繋がっているかを改めて教えてくれる。ジャネは精神分析の文脈でも偉大なる先駆者だったのだ。

「エピローグ DSMと解離」ではジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくるのが面白い。

 ざっとかいつまんで述べたが、本書は精神分析の学徒にとっても、解離やトラウマの臨床家にとっても極めて示唆に富んだ書と言える。ぜひご一読をお薦めする。


2026年2月4日水曜日

ジャネ書評 ⑥

 第13章 解離性障害の病因、病態、治療に関するジャネの見解

本章では解離性障害の病因に関して、ジャネが極めて詳細な論述を行っていることがわかる。彼はまさに医学哲学者 medicin-philosophes の呼び名にふさわしくスティグマ、固着観念、トラウマ、といった概念を駆使した彼の理論が詳細に述べられる。私たちが単純に「トラウマにより解離が生じる」と言って済ましかねないのに比べ、ジャネははるかに詳細な理論化をおこなっていることがわかる。例えばベルグソンにしてもサルトルにしても、デリダにしてもフランス人の書くものは極めて決め細かく、それだけに難解である。

(253)あらためて、ジャネの言う「スティグマ」とは基本障害であり、「固着観念」は付加的な障害であるという。これは過去の現在化(ゲープサッテルのいう”presentification of the past”)、変化に抵抗を示す、という意味ではフロイトの「抵抗」に近いという。スティグマについては、第1章に詳しく、「意識野の狭窄、下意識現象の存在、感覚麻痺、健忘」などを含むという。そしてそれを要約したものが「意識野の後退」であるという。


エピローグ DSMと解離

ジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくる。言われていることはとてももっともな理論。PTSDと解離の中途半端な分類はよくないという主張。PTSDの解離タイプというが、そこで離人現実感喪失症だけを特別扱いすること、そしてFBのみを解離症状とするなどがとても中途半端である。そう、ジャネは一世紀も前にかなり包括的なトラウマ―解離理論を打ち立てていたのである。


2026年2月3日火曜日

アランショアの書評 (ほぼ完成版)

アラン・ショア著小林隆児訳「精神療法という技法の科学」(遠見書房、2025年)

 壮大な本である。一言で表現するならば、「神経科学や愛着理論、精神分析理論などを縦横無尽に援用しつつ新しいパラダイムに基づいた精神療法の在り方を論じたアランショアの書」とでも言えるだろうか。

 ただネットや店頭でこの大著を目にした事情通の読者はこう考えるであろう。「確かにアランショアという名前は最近よく聞く気がする。訳者である小林先生は確かショアの入門書を書いた方だろう。それに「右脳精神療法」とあともう一冊、薄い本が翻訳されている。まずそちらを読もうか。確かに小林先生の労作以外にもう一冊が翻訳されていて、それらを置いて本書を購入するのは屋上屋を架すという印象を与えるかもしれない。しかし本書は極めて充実した内容で、入門書を読みもう少し内容を詳しく知りたい人間にはうってつけである。そしてそれは私自身の体験でもあった。

 本書「精神療法という技法の科学」The sciene of the Art of Psychotherapy (2012)はショアがこれまで出した6冊の著作のうち4番目に相当し、彼が考える精神療法(感情調整療法、のちに右脳精神療法という呼び名に改められる)について詳細に論じたものである。同じ小林隆児氏の手による「右脳精神療法」(2022年に発刊)と共にショアの臨床理論を知るためには非常に重要な書である。

 翻訳者の小林隆児氏は、2022年にショアの最新作「右脳精神療法」を訳出した後、その理解を深めるためにも、ショアの「感情調整三部作」の次の第4作目である本書を日本の読者に提供することが必要であると感じたとのことである。

 本書は574ページとかなり分厚いが、英語の原書でも458ページというボリュームである。それだけに本訳書の出版先を探すことにも小林氏は難渋したというが(訳者あとがき)、本書は内容も極めて緻密でショアの驚くべき生産性(それは本書を訳した小林氏にも通じることかもしれないが)を感じさせる。本書を通読した読者はそこに盛られている情報量に嘆息するのではないか。少なくとも私はそうであった。最終章のマッキントッシュとの対話にも表れている通り、ショアの頭には、莫大な情報量に基づく理論体系が渦巻いているようだ。それは最新の脳科学が示す生後一年の驚くべき脳の感受性とその脆弱性への理解を基盤とした愛着理論に根差した養育や臨床の在り方についての知識や思考である。この驚くべき頭脳が生み出し続ける著作は各方面に大きな影響力を及ぼしつつ、現代的な人間理解や精神病理に関する一つのパラダイムシフトを提案しつつある。私たちはこの「アメリカのボウルビイ」の異名を持つという(503)ショアの偉大な精神に非常に多くを負っているのである。精神療法が目指す一つの方向性を知りたい方にはぜひご一読をお薦めする。


2026年2月2日月曜日

ショア書評 ⑥

 第11章 母子アタッチメント関係の臨床評価を導くための調整理論の使用

(452) 「ほとんどの精神疾患は、以前考えられていたよりもずっと早い段階で発症する」とインセルはいう。胎内及び出生直後の養育者との関係が、乳児のゲノムのエピジェネティックな変化を起こすという知見はもっともショッキングであろう(456)。
右半球は、妊娠最後の3か月から2.5~3歳までの間に重要な成長期を迎える。それにより社会情動的な発達が遂げられる。また乳幼児の脳の体積が生後一年で二倍になるという驚くべき事実が強調され、だからこそこの一年は決定的であり、そして将来の右脳の発達軌道を強化するうえでの予防が示される。
(469)最初の一年で(乳児の脳の)全体の体積は101%増え、2年目で15%。皮質下領域は最初の一年で130%増加し、2年目に14%増加する。

第12章 ジェニファー・マッキントッシュとの対話
(516) アメリカでは多くの母親が出産後6週間後に仕事に復帰する事実をあげ、子供をデイケアに預けることの懸念が示される。
(517) 乳児はストレス下でむしろ引きこもってしまう可能性があるという、それは重度の対人ストレスや関係外傷によるものであり、そうなると子供は泣かず、目も合わせない。そこで親が子供は泣いていないからだいじょうぶだと考え、放置すると、その沈黙状態ではストレスホルモン(コルチゾール)は泣いているときよりさらに高くなるという。
(520)直接暴力を受けなくても、両親間の暴力にさらされている子供ではストレスホルモンが過剰に分泌され、それが脳の発達に悪影響を及ぼす。ネグレクトにおいても同様な過剰なストレスホルモンの分泌が起きる。ただしストレスそのものが悪いというのではなく、それに対処できないでいることが問題なのだ。

訳者があとがきで述べているように(525)、わが国ではまだ力動精神医学と生物学的精神医学が統合に向かっているとはいえず、その意味でこのショアの業績を追うことは我が国の精神医学にとっても重要な一歩であろうと評者は考える。
最後に掲載されているアラン・ショア著作用語集は小林氏の手によるものであるが、極めて貴重で分かりやすいものである。


2026年2月1日日曜日

レマ書評 ⑤

 第5章 持って生まれた身体と自分そのものである身体

 私が特に難解さを感じずに読めた章である。しかしそれは内容に同意したかという事とは別である。記述されたCさんの体験は痛々しく、男性の身体を持って生まれた人がSRS(性適合手術)(の失敗?)を通して感じる苦悩を実に見事に物語っている。私はこの章で改めて、患者の問題が養育関係に帰せられるというレマの理解に違和感を持った。Cさんが男性の身体を持った存在として自分を生んだ親に向ける憎しみをどうとらえるべきであろうか。親からのミラーリングの失敗により「自分の身体は間違っている」という体験を得た場合、「それが処理されないままとどまり、それゆえ身体の中で具体化される」としたら全く救い道がないのであろうか。

本章ではGIDを持たない治療者がいかに患者にとって理想化と羨望の対象になりえるのかについても考えさせられた。しかしそれにしても思うのである。SRSが存在する世の中に生きていることは、GIDの人にとって幸せなことなのか。それを願望として持つことを放棄するという方向性の治療は存在しないのだろうか。


第6章 トラウマと身体

とても読むのがしんどい章。映画のプロットを追うのが必至。でも「象徴等価」の概念はとても大切だと感じた。

第7章 分析家の身体

患者はしばしば分析家の身体に非常に強い関心を払う。その少しの変化が患者に大きな影響をもたらすとしたら、それは分析家を大きく拘束することにもなるだろう。恐らくそこで重要なのは、見かけは変わっても何時もの治療者であるという観念を患者が持つのとであろう。そしてそこで大事なのは、要するに患者が治療者を「象徴化」することだというのだ。猫はどんなに色や大きさが変わっても猫であるように、どんな服装をまとった治療者も同じ治療者である。そのために必要なのは、患者が、対象が同じでかつ異なるという矛盾に耐えることが出来るようになることであるという。愛着期に、愛着対象が同じで違うということは、いわゆるPEM(予測誤差最小化)の能力を高めることにつながる。逆に言えば、愛着がうまくいかないということはこのPEMが育たず、対象が一回ごとに新奇な対象として見える事であろう。すると会うたびにボトムアップからの情報収集を行うしかない。そうではなく、治療者がいかなる服装や装いで現れても、同じ対象だとみなすことが出来ること。それは最初の愛着対象との間で成立した対象恒常性に関わってくるのである。これがにが手なのがASDであり、それは生得的なものか、そしてそれは左脳の邪魔が入るのかのどちらかによるのだろう。(ちなみに「折れ線型」のASDにはやはり左脳の発達が関与しているのであろう。それによりボトムアップの力が右脳機能に擾乱を引き起こしているのではないか。情報収集は右脳による(同一性に基づく)トップダウンと左脳による(差異に基づく)ボトムアップの共同作業なのかもしれない。



第8章 ラプンツェル再考 (グリム童話。呪われて生まれた少女が魔女に幽閉され、21メートルの髪をはしご代わりに使われていたというお話。)

この章にも難渋した。ただしこの機会にいろいろ髪について考えた。確かに「髪はもっとも露出している身体的境界である。このことはほとんどの時間衣服でおおわれているほかの身体部位よりも、情緒的意味がもっと大きく、他者による攻撃に最も晒されやすい部位であると感じられるのであろう。」その通りだ。私たちは体の他の部位と同じように髪を隠そうとしない。むしろ髪が身体を隠そうとしてくれる。米津玄師のように、目を他者の視線から隠すように髪を伸ばすという事が起きうる。それゆえに、男性にとっては髪を失うことはある種無防備な肌(特に頭皮)をさらすことになり、脆弱性や羞恥の念を引き起こす。このように男性の立場としては髪について言いたいことは山ほどあるが、レマの関心はあまりそこにはない。ただしレマの提言(207)「患者が持つ自身の髪との関係や、分析関係において髪が使われる様が、対象から分離することに関しての最想起の葛藤や欠損に接近するための役に立つ入り口を提供できると提言している」という視点は今ひとつピンとこない。私としては髪の自己愛的な意味、つまり自分を装い、プライドや権威を表す最上の手段としての考察をしてもらえればもう少し興味を持てたかもしれないと思う。


第9章 カウチから離れて

この章は分析家のトイレを使用することの心理的な意味について論じられている。トイレを備えたオフィスを構える臨床家にとっては、かなり深刻な問題である。この問題に関するレマの論述もかなり分析的であり、例えばセッションが終わった後患者がトイレを使ったことについて、「そこを怪我したままにする意味を患者に話し始めるのはもっと難しい」(222)という。しかし私としてはむしろ、治療者の自己開示の意味を考えてしまう。治療者がそこを使い、そこをどのように清潔に管理するかは、実は治療者の見えない部分をさらすことになる。そしてそれはホスピタリティの意味も持つ。トイレを使ったことに触れないというのも一つのやさしさではないかとさえ思うのだ。もちろんその分析的な意味や、それに含まれる様々な空想は計り知れないのは確かだ。