2026年2月8日日曜日

バウンダリーについて 1

  「大人の事情」は続く。突然「バウンダリー(境界)の歴史」についての論文を書くことになった。せっかく書評5本が終わったのになあ。しかし悪くないテーマである。

 私はバウンダリーについての専門家では全くないが(というか、そういう人はいるのだろうか。「境界評論家」とか、聞いたことないなあ)、最近この件が問題になっているのはよくわかる。私たちの周りで常に起きている境界侵犯の問題である。これはトラウマの文脈でも顕著であり、重要なテーマであることは言うまでもない。ではその歴史とは何か。一言でいえば、昔はバウンダリーは今よりはるかにあいまいだったのだ。あってなきがごとし。特に我が国はそうか。何しろ日本家屋は障子と襖で仕切られ、しばしばそれは開け放たれていたのだ。プライバシーはあってなきがごとし。

 それでも昔から境界の問題が確実に存在したのは、たとえば土地の境い目だろう。人は自分のテリトリーを必要とする。いわゆる「縄張り」というわけだが、これは動物のレベルでももちろん存在する。私はネーチャー系の番組が好きだが、コブダイが自分のテリトリーである岩礁を見回り、侵入者を厳しくチェックするのを見た。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。自分の利益に関わる境界は意識されやすく、個体(個人)が成立した時からすぐに線が引かれるのだ。

 そのように考えたら境界の基本はオリジンはパーソナルスペースという事になるだろうか。新幹線で京大に通っていた頃のことを思い出す。自由席の隣の人の間のひじ掛けは、そこにどちらが肘を掛けるかをめぐって結構ナーバスになった。

 いわばパーソナルスペースとしての境界は侵害されたらすぐわかるが、それに比べて、身分、人種、関係性に関わる境界はかなりあいまいな部分を含む。それは場合によっては交差していることで複雑な問題を醸す。

 例えば精神科の職場で職場の上司が、少し遅れて精神分析のトレーニングを開始すると、職場の部下が自分のスーパーバイザーになったりする。その場合二人がそれらの役割による縛りを押し切って異性関係に入ろうとすると、かなりややこしいことが生じる。
 将棋の世界などどうなるのか?藤井六冠はどんなに年上の先輩棋士との対局でも上座に座るだろう。でも忘年会などでの席順はどうなっているのだろうか?敬語の使い方は?

 というわけでバウンダリーについての論文はこのようにまったくまとまりのない書き散らしから始まるが、私は実はこの段階が結構好きである。一人でブレインストーミングをしている感じである。