2023年5月5日金曜日

地獄は他者か 書き直し 8

 だいたいまとまった。こんな書き出しになる。

「羞恥からパラノイアへ ― 恥が敵になるプロセス

 地獄は他者か

恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本稿の執筆を機会にこれまでの考えを振り返りつつ、再考を加えたい。今回の特集の大きなテーマは「恥は敵か味方か?」である。恥が私たちにとって防衛的に働くというプラスの側面と、それがかえって自分にとっても周囲にとってもネガティブに働くという側面との違いについて特に論じたい。

まずは私のこのテーマとの関りについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症についての関心から出発した。つまり恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値の低下の感覚を伴うトラウマ的な体験ともなりうる。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして人生を送るのだ。我が国における対人恐怖症や米国のDSMにより概念化されている「社交不安障害」は主としてこの「恥辱」関わることになる。その一方では「羞恥 shyness」として分類される、気恥ずかしさや照れくささの体験は、恥辱のような自己価値の低下を伴わず、さほど病理性のないものとされる。私自身もどちらかと言えばこの羞恥に関してはさほど関心を寄せないできたという経緯がある。

私がこれまでに世に出した恥に関する論考(岡野、199820072017)は以上を前提としたものであった。しかしそれらの考察が一段落した今、改めて恥について考える際に、私自身が改めて疑問に思うことがある。

「人と対面するのはなぜこれほど億劫で、心のエネルギーを消費することなのだろう?」

私自身は決して人嫌いというわけではないし、人の思考や行動にはむしろ大きな関心を持っている。人と会っていて楽しさを覚えることも決して少なくない。しかし一人でいることは圧倒的に気が楽なのである。心に潤沢なエネルギーが解放されたままで時を過ごすことが出来るのだ。そして臨床活動をする中で同様の体験を語る人も非常に多いのである。

私がこれまで考えていたのは、人が他者との対面を回避するのは、恥辱の体験を恐れるからだ、というものであった。つまり対人恐怖の文脈で考えていたのである。しかし人は必ずしも自らを不甲斐なく情けない存在とはとらえていなくても、依然として他者と会うことに一種の嫌悪感を持つことが多い。それは人と対面する状況そのものに由来する居心地の悪さ、それに伴う労作性、疲労感、エネルギーの消耗の感覚なのである。

ちなみに恥の研究について私が私淑している内沼幸雄先生が「間のわるさ」(内沼幸雄(1977)対人恐怖の人間学弘文堂)と表現しているのは、私がここでいう対面状況に直接由来する居心地の悪さにおおむね相当するように思える。間の悪さ程度では人はあまり悩まないのかもしれない。しかしそれ自体が苦痛なレベルにまで至る場合もあり得るであろう。

もちろん人と常に群れていたい、誰かと一緒でないと寂しい、という人もたくさんいらっしゃる。しかしそれらの人たちにとっても、常に一緒にいたいと感じるのは親しい家族や友人であることが多く、初対面の人との出会いに抵抗を感じたりしり込みをしたりする人たちは意外に多くいるようである。もし「私は人と出会うのが億劫です」という人の声をあまり聞かないとしたら、おそらく人嫌いと思われたくないからであろう。孤立を好み、人と交わらない傾向を持つことは、社会通念上あまり好ましく思われないからであろう。飲み会や忘年会に誘われても及び腰になることは、社交性のない人、付き合いの悪い人として所属集団から敬遠されやすいのだ。少なくとも日本社会ではその傾向が顕著であるように感じる。

ここで私が述べようとしていることを分かりやすく言い換えたい。恥辱のレベルにまで至らない対面状況でも、それは十分に不快なものとなりえるのではないか。そこにすでに恥の体験の本質が垣間見られるのではないか、ということだ。

人と出会うことについて考えるときに私の頭にすぐ浮かんでくるのが、サルトルが語った「地獄とは他者だ L'enfer, c'est les autres」という言葉である。「そうか、他人は本来地獄なのだ、だからそれを恐れるのが当然なのだ」という安心感を与えてくれるのである。それをかの偉大な哲学者が保証してくれているのだ。

ちなみにサルトルは「出口なし」(1944)という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人を描き、その一人にこの言葉「地獄とは他者だ」を言わせている。しかしそれは対人恐怖的な意味で言っているのではない。私たちは自分たちの他の人の目を通して知るしかない。そしてそれが歪曲された目であれば、他者は地獄に他ならないと言っているという。サルトルのこの言葉は人がそもそも他者から対象として扱われることそのものに由来する居心地の悪さや不快感を言い表しているものと考えられよう。同様の文脈でサルトルは「存在と無」(1943)では次のように言っているという。「他者がそこにいるというだけで、私は一つの対象としての自分に判断を下すことになる。なぜなら私たちは他者の目には一つの対象に過ぎないからだ。」

私たちは自分を知るために鏡を用いる。それが他者である。しかしその他者は自分にとって好意的な目を向けるという保証はあるだろうか。多くの場合、否、である。他者はライバルや敵ですらある。その目に映る自分を頼りにするしかないのであれば、他者は私たちが決して逃れることができない地獄といえないだろうか?