2021年9月28日火曜日

大文字の解離理論に向けて 推敲 6

 次になぜこの大文字の解離 Dissociation という概念をことさら精神分析に導入する必要があるかについて、以下の二点を改めて強調しておきたい。一つには私たちが臨床上多く接するDIDは複数の意識の同時的な存在という形をとることが明らかであるため、Dissociation はおそらくDIDのデフォルトのあり方といえるのだ。そして現在精神分析で論じられている通常の解離 dissociation はそれとは質的に異なるのである。大文字表記を強調する Dissociation という呼称には、こちらがある意味で「本質的な」、ないしは「本格的な」「深刻な」あり方であるという点を強調するという意図がある。

もう一点は「精神分析はdissociation だけではなく、 Dissociation もまた考察及び治療対象として扱うべきだ」と呼びかけることで、この病態に対してより多くの臨床家の注意を喚起するという目的がある。というのも、これまで見てきた通り、一人の人間にいくつかの意識が並行して存在しうるという事実そのものを多くの分析的な臨床家が受け入れていない場合が多いという現実があるからである。精神分析においては、複数の意識の共存は認めてはならないというフロイトの声が依然として響き渡っているかのようである。しかしそのような臨床的な事実がある以上、精神分析はそれをいかようにしてでも組み込む必要がある。なぜなら精神分析は「~という病理については存在を認めない」という立場は取るべきでないからである。

この事態を説明するために、過去の例を挙げたい。精神分析においては、統合失調症などの精神病をいかに扱うかという議論はフロイトがすでに行っているのは周知のとおりだ。例えばフロイトは精神病状態においては通常の神経症とは異なり、リビドーが自我に向かっている状態で、そのために転移が形成されないために精神分析の治療が難しいと論じた。すなわちフロイトは精神病という病態をそのものとして認識し、それについての説明を試みた。

ところが多重人格状態においてはこれとは別の事情が生じている。基本的には異なる人格の存在について、精神分析ではそれをタイプ1)として扱い、タイプ2)のような事態はあたかも存在しないかのように扱う傾向がある。つまり多重人格状態をそれ自身として認めず、別のものとして説明するという事を続けているように思われるのである。それは統合失調症をそれ自体として扱わずに神経症の特殊な例として扱うという事と同じである。統合失調症ではきちんとした扱いをしているのに解離ではそうならない一番の理由は、フロイトがそもそも解離を論じないという立場を示したからであろう。また精神分析ではスプリッティングなどの概念が存在し、解離をそれと同列のものとして扱うという理論的な素地が存在することもその理由として考えられるのである。